戦国ジジイ・りりのブログ

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2013年12月13日
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カテゴリ: 上野と寛永寺
さてと、ここまで会津美里町の「天海大僧正一代絵巻」を中心に


「そんなに勉強してどーすんの?」

って言いたくなるぐらい、ひたすら勉学と修行に打ち込んできた様子がわかります。
・・・わかりますが、すごく地味。

やる気も才能もあって、業界ではあるいはそこそこ名を知られてたのかもしれないけど、
それでも後半生に比べたらものすごく地味(笑)。

こんな天海さんが一体家康とどんな出会いをして、
そこからどんな風にあらたな栄光の道を切り拓いていったのか、
この地味な前半生を知って逆に興味が湧きました。



ちょっと資料を読んだくらいじゃさっぱり理解できませんが、
それでもここまでをまとめると、本業の天台だけでなく
他宗派やさまざまなことを幅広く学んだといえることができそう。

そして、『神君家康の誕生』(曽根原理著)では、

 【さらに、一宗一派にとらわれないような<柔軟さ>と関わるように思われるのが、
  血縁をめぐる二つのエピソードである。】

とし、前回の経歴の中に出てきた母の死と、
蘆名義広を護って常陸へ向かった時の話を挙げている。

蘆名義広の件については前回引用しましたが、
母の死についてはこんな風に紹介されている。


 【永禄元年(1558)、南都で修学中の天海(23歳)に母の危篤の報せが届いた。

  母は逝去したという。

  「東源記」にはその箇所に、「出家者は肉親の恩愛を離れるべきものなのに、
  どうして孝行に励むのか」という問と、「恩愛を忌むというのは人々を
  欲望の世界から救うための方便説であり、戒によって孝を滅ぼすならそれは
  戒ではない」という答を載せる(以上大意)。この問答は、天海の立場や主張を

  (『神君家康の誕生』より。漢数字は戦国ジジイが変換)


文中の「東源記」は天海の死から7年後に書かれた
『東叡開山慈眼大師伝記』のことで、京・妙心寺の僧である
東源(とうげん)さんによる伝記。

東源さんは臨済宗の人なので、天台宗である天海とは宗派が異なるが、
これもまた天海の後半生におけるエネルギッシュな活動の中で
深い親交を持つようになった人であり、
「東源記」が書かれた時期は東源さんのように
天海と親しく交わった人達がまだ多く生存していたのだから、
上記のエピソードや蘆名義広の話などは
全くのフィクションとは考えにくいだろうとしている。


 【そこには、仏教の原則にとらわれるような<硬直した>対応が否定され、
  現世秩序の中での忠孝が称揚されていた。そうした現実肯定の方向性は、
  彼の天台教学修学とも軌を一にするものであった。】
  (『神君家康の誕生』より)


でどんな修学をしたのかというと、20代と30代に学んだ内容は
「本覚思想」・・・専門的な説明はできませんが、
【つまり現実の徹底的肯定】(前掲書)なんだそうな。


 【このように、天海の前半生には世俗的価値を重視する志向が強く見られるのであり、
  武士の一族出身であることと相まって、武家の価値観を生かし世俗権力を擁護する
  仏教樹立が彼の課題となっていた。家康の天海に対する帰依を考えるとき、
  こうした点は見逃せない。】
  (『神君家康の誕生』より) 


家康が江戸に幕府を開いたのは、もちろん関ヶ原に勝利したからだけど、
最終的に覇権を確立したのは、やはり豊臣家を滅ぼした時点であると
多くの人が認識しているでしょう。

その大詰めの忙しい時期に、家康は多くの仏教宗派と交流を持っている。
今の研究の世界ではどうなのか知らないけど、『神君家康の誕生』によると、
そうした出来事はこれまでは政治的側面からの解釈が多かったようで、
著者の曽根原氏は「文化的・宗教的カリスマ性確立」の側面から迫るという主旨で
本を書いておられるのだけど、なぜに大寺の高い地位にある僧でもない天海が、
徳川3代から深い信頼を寄せられるようになったのかという
素朴な疑問を持つわたくしには、この本は大変興味深い。

もちろん、政治的な思惑が皆無な訳はないんだけど、
「人間」として捉えたいわたくしには、たぶんそれだけじゃピンと来ない。

・・・ただ、この本は宗教の話も当然多くて難しいんだけどね。
頭が悪くてしかも野生児なわたくしは、感覚的に納得いく部分を
この本から嗅ぎ取って参考にさせていただいております


という訳で、曽根原説によると天海は現実主義者だったようですね。
これはやっぱり、武家の出と戦国時代の大詰めだったことが
大きく影響してるんだろうな。



さて、前回途中まで引用させていただいた会津美里町の「天海大僧正一代絵巻」は、
54歳で常陸へ落ち延びた後は81歳まで飛んでしまいます

でもここからが大事なので、ひとまず一代絵巻はここまでとします。
絵巻の始まりからここまでは(めんどくさいので)絵巻に従い数え年での表記でしたが、
以後は通常通り実年齢での表記に戻します。


天正17年(1589:53歳)、蘆名義広とともに常陸に移った天海は、
江戸崎の寺を修築してしばらく住んでいたらしい。

慶長4年(1599:63歳)、川越の無量寿寺(のちの喜多院)に移り、
ここで名を「天海」に改める。

慶長8年(1603:67歳)、下野久下田(くげた)に移る。
この時期の同地の領主は水谷(みずのや)氏っぽいから、
ここで水谷と天海の縁ができた可能性もあるな。
水谷氏はまた後でちょろっと出てきます。

翌9年(1604:68歳)、長沼(現・真岡市)で古刹の宗光寺を再興する。
長沼の宗光寺は今も続いています。
慶長12年(1607:71歳)までここで過ごす。


して、いよいよ家康との出会いです。
普通の人ならここで一生終わってます
が、スーパージジイ・天海はここから大きな華を咲かせるのであります。


家康と天海の運命の出会いの時期には2つの説があるそうで、
ひとつが天正18年(1590)、もうひとつが慶長12年(1607)。

天正18年説の方は、元ネタの「天正日記」に疑わしい記述の多いこと、
その後20年近く2人の接点が確認できないことなどを理由に、
イマイチ信用に欠けるという評価を受けているらしい。
が、「形式的に新領主への挨拶があった程度なら可能性があるかもしれない」と
『神君家康の誕生』は語る。

で、慶長12年~13年頃の出会いというのが多く言われている。
「東源記」によると、

 【天海は慶長12年(1607)に家康の命をうけ、学問興隆のため叡山に登山
  したという。翌13年には家康の命により駿府に赴き、初めての対面を遂げた。
  天海は翌14年に権僧正に任じられており、肩書きも宗光寺住職から
  叡山南光坊住職に変わっている。

  同年に智楽院の号を得、翌15年には探題にも任じられた。もともと比叡山に
  強い基盤があったとは思えない天海がこうした出世を遂げるのは、他に要因が
  考えられないことから、このころ家康の知遇と後援を得たことは
  間違いないだろう。】
  (『神君家康の誕生』より)


なるほど、「南光坊天海」ってのはここから来てるんだな。
引っ越しなどは多かったものの、ある意味ここまでゆったりと流れていた
天海の人生は、家康との出会い以降、どんどんスピードアップしていきます。


慶長17年(1612:76歳)に無量寿寺北院の再建に着手し、
寺号を喜多院と改めて関東天台の本山とする。

慶長18年(1613:77歳)、日光山の管理を任される。
同じ頃、家康に天台の教義をたびたび伝授する。

日光は、秀吉による小田原攻めの際、北条氏に付いたってことで
一旦寺領を没収されてるんだよね。
事実上の闕所(けっしょ)といってもいいのかもしれない。

が、家康との出会い以降、どんどん信頼を得て
浄土信者である家康に個人的な帰依を受けるまでになり、
関東の霊場・日光を託された。

日光山自体は古い歴史を持っているけど、
「日光」と言って世間一般で思い浮かべるような荘厳な日光山のあらたな歴史は、
天海が日光に関わったことによって始まる。

日光が世界遺産の指定を受けたのは、もちろん家光が壮麗な寺社に
改築したことが大きいと思うけど、そこに至るまでの話として
天海の存在というのは非常に大きいと思う。
ゆえに世界遺産指定のMVPは、文句なしに天海さんといえるでしょう。


観光といえば、会津美里町は天海ゆかりの地をウリにしている。 
しかも、美里町のイメージキャラクターは「あいづじげん」。

「じげん」は射撃の名手・次元大介じゃないッスよ(笑)。
慈眼大師のじげんです。

卵の形をした身体に目ヂカラが特徴的なキャラクターで、
美里町観光協会のサイトによると、慈眼=慈悲の心をもって世の中を見る目、に
あやかりたいという願いからこのルックスとこの名ができたという。

さらに、美里町には「天海さんまつり」なるものがあって、
「天海さんなりきりコンテスト」などイベントも盛りだくさんらしい。

各地に多くの足跡を残した天海は、現在もなおゆかりの地に
宗教・文化、そして経済貢献をしている。


ちなみに、「会津美里町観光ポータルサイト」の
天海さんまつりの予告の記事(2013.9.6付)には、
正子公也氏による、ビジュアル系若づくり天海の華麗なるイラストが載っている。
(「天海さんまつり 正子公也」で検索すると探せると思います)

このイラストでビジュアル系天海がまとっているのが、
前回紹介した大阪城天守閣収蔵の天海の甲冑。

ただ、この甲冑を身に着けたのが磨上原の合戦後の逃亡の時だったとしたら、
天海はすでに54歳だから実際はもっとシブイお姿だったと思うけどね



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最終更新日  2014年08月02日 22時56分26秒


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