戦国ジジイ・りりのブログ

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2013年12月14日
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カテゴリ: 上野と寛永寺
天海が家康と出会ったのは、慶長12年(1607:71歳)。

天海はまだこの後も40年近く生き続けるので(笑)、
『寛永寺』では以後の天海の事蹟を12の項目に分けて簡潔に説明している。
ここではその一つ一つの詳細を書くことはしませんが、
項目のタイトルだけ紹介すると、

 1.寛永寺の創建
 2.朝幕間の斡旋
 3.法親王の下向
 4.比叡山の復興


 6.天台寺院の再興と帰宗
 7.教学の振興と学僧の要請
 8.赦免運動

 9.天海蔵
 10.天海版大蔵経
 11.歴代将軍の師
 12.東照大権現とその思想
 (『寛永寺』より)


だそうな。

これらの項目の内容のほとんどは、別に書くべき場所があるので
ここでは最小限にとどめます。


前々回、「随風」時代に集めた本で直筆サインがあることを書きましたが、
天海はその生涯を通じて仏書などの収集に努めたらしく、
「天海」時代にも署名をしたり、「天海蔵」のハンコを押したらしい。

つまり、自分の手元に集まってきた本のすべてに目を通していたのだと『寛永寺』はいう。
これらの天海コレクションのうち、寛永寺所蔵のものはやはり上野戦争などの

叡山と日光の所蔵品については現存しているという。


10の大蔵経は、天海が日本で初めて大蔵経を刊行したことをいう。
あれ、大蔵経って大内氏もそうじゃなかったっけ?と思って調べ直したら、
大内氏のは大蔵経の輸入だった。

大内氏の活躍していた時代には、国内には大蔵経の版木がなかったので、
大内氏は朝鮮からさかんに輸入してはあちこちの寺院へ寄進したんだな。




さて、歴バナはまだまだた~くさんありますが、
ひとまず天海の話の最後として、11にある歴代将軍との関わりについて
エピソードなどを交えながらご紹介しましょう。


まずは初代・家康さん。

家康と天海の出会いは、前回書いたように慶長12年(1607)というのが一般的。
ときに天海:71歳、家康:64歳。

出会った2人は恋に落ち(笑)、

「もっと早くそちと出会いたかった・・・」

と家康が言ったという。

天海については世間では実に色んなことが言われているので、
私はまだその一端すらもろくに知ってはいない状況ではありますが、
それでも私に言わせると、家康の晩年に出会ったからこそ
天海は重用されたんじゃないかと思う。

松平時代から徳川家は浄土宗だったのに、
天海に出会ってから家康が天台宗に改宗しようとしたのを、

「どちらも同じ仏教なんだし、
ご先祖を大切にしてくださいよ~」


と言ったとも、

「人の上に立つ方は、
一つの宗派に偏っちゃだめッスよ~」


と言ったとも、とにかく改宗を思いとどまらせたという。
これは天台の僧でありながら、現実をよく見据えて柔軟に物事を考えた
天海の姿勢をよく表すエピソードではないかと思う。


天海と家康の出会いには、こんな話がある。

  初の出会いの際、天海は家康に手土産を持参した。

  「不老長寿の秘薬にございます」

  と言って差し出したそれは、なんと納豆だった。
  当時、納豆は庶民の食べ物で、身分の高い人へ献上するようなシロモノではなかった。
  お付きの者はハラハラしながら側で見ていたが、家康は

  「ハッハッハ!
   ありがたく頂戴しよう」


  と笑って収めたという。


科学の発達してないこの時代、さすがの健康オタクの家康でも

「ナットウキナーゼって、
血液をサラサラにするんだよね。
天海はボクの健康を気遣ってくれたんだね」


なんて言うはずがない。

怒らずに笑って納豆をもらった家康の真意はわからないが、
天海自身は納豆が大好物だったという。

関西人はあまりお好きでないかもしれませんが、
納豆は皆様ご存知の通り健康食です。

僧侶という立場もあって、天海の食事は精進料理が基本だったと思われますが、
周囲にも健康法として粗食を勧めていたようです。
こうした、世間の常識にとらわれない天海の現実主義的側面が
家康に気に入られた理由のひとつじゃないかと
この2つのエピソードから感じました。


天海もまた家康の信頼に応え、家康に対して心を砕いた。
前回、大坂の陣頃の時期に家康が多くの仏教宗派と交流を持っていると書きましたが、
具体的に何をしたのかというと、御前での「論議」を開いたりした。

論議とは、仏教の教義についての問答や議論のことをいう。
御前論議についてはまた別のところで書こうかと思ってますが、
『寛永寺』によると、江戸城・駿府城・二条城・京の御所などで行われ、
慶長末年の数年間だけで120回もの論議が開かれたそうな。

これは天台だけでなく真言宗などの他宗の論議も含まれているが、
うち90回は天台論議だそうで、『寛永寺』では「大師主催による天台論議が
如何に家康をはじめとする当時の人々を魅了していたかを物語っている」とする。

で、「東源記」にはこんな話が載っている。


 「ワシは年寄りじゃが、法会に参加するたびに
   喜びが心身に満ちて若返るようじゃ~。
   しかし、さすがに年じゃの・・・
   長時間の論議になるとどうにも身体が・・・
   アイタタタ
   なんとかならんかの~、天海・・・」


  「おまかせくだされ、大御所様。
   以後は大御所様の御前での論議は、
   問答を一往復に限ることにいたします」


  天海はこれをすぐに僧たちに告げて、そのように執り行った。
  人々はこれを「一句問答」と称した。


慶長18年(1613)の項にこれが書かれているので、家康は70歳。
家康より7歳年上の天海は77歳

ジジイ同士のやり取りがちょっと笑えますが、
天海の家康に対する配慮と、77歳でもなお現状を即座に理解し
それに素早く対応するという、天海の機転の早さが窺えるエピソードです。

ま、一発でズバッと答えなきゃならなくなった
論議の参加者たちは大変だったろうと思うけどね(笑)。


こんな風に家康との親密な関係を築いた天海は、
江戸の町づくりにも参加したという。
ナゾの多い怪僧・天海が関わった江戸の町に隠されたミステリーを
追い求める歴史ファンは多い。



さて、今度は2代・秀忠さんです。
秀忠さんと天海の直接のやり取りというのは
私はまだ知らないんだけど、「駿河土産」にこんな話がある。


  大猷院様(家光)の御代に天海大僧正がおっしゃるには

「権現様(家康)は様々な御経験から世の有為無常を悟っておられ、
   台徳院様(秀忠)は柔和な方だったので、このお2人には
   色々なことも申し上げたし、御伽もしやすかった。(つづく)」


つづきはまた後でね。

偉大な父と派手な息子の間にあって、秀忠はちょっと影が薄い。
でも、それも致し方のないことだと思うのだ。

突然、隆景ちゃんの話になりますが、『小早川隆景のすべて』にこんな文章がある。

 【隆景が生まれたとき、父の元就は37歳の壮年だった。(中略)その
  ゴッドファーザー的存在の元就が死ぬのは元亀2年(1571)である。75歳の
  長寿だった。このとき隆景は39歳。隆景が本領を発揮するのはそれからだが、
  それはまた65歳の生涯のうち、隆景は壮年期までを偉大な父の影響のもとに
  生きざるをえなかったということになる。】


性格的には激しい一面も持ち、子供の頃から頭が良かった(といわれる)
隆景ちゃんが、オッサンになるまで偉大な父の下にあるってどんなだろう・・・
って、これを読んだ時遠い目になったものですが、
父・家康が死んだ時、秀忠は37歳。

意外に秀忠が若いうちに家康が死んだんだな~って思ったけど、
まあ秀忠は長男じゃないしね。

偉大な父を持ち、同じような年にその父を失ったという点では
秀忠も隆景も似たような境遇にある。
・・・が、毛利元就と徳川家康のどっちが偉大かとは簡単には言えないものの、
家康は天下人であり、立場は全然違う。

このプレッシャーは相当なものだったと思う。
26歳にして将軍職を譲られた後も、実権はいぜんオヤジが握っており、
駿府(家康)から江戸(秀忠)へあれやこれやと指図されることもしばしば・・・

「駿河土産」にはこんな話がある。


  権現様(家康)がある時、本多正信へ

  「秀忠は律儀すぎるの~。
   人は律儀だけでは成り行かぬものだと
   そちからもよく言ってやるがよい」


  正信が帰って秀忠様にこの事を申し上げ、

  「御前様は時々はウソを言った方がいいようですよ」

  と伝えると、

  「内府様(家康)の軽口なら買う者もあろうが、
   私がウソをついても誰も買わないさ・・・」


  とお笑いになった。


悲しく笑う律儀者・秀忠だけど、私は別に秀忠が凡庸だとは思わない。
若くして自刃させられた家康期待の長男・信康は才気溢れる人だったともいうけど、
徳川260年の結果論からいえば、信康様が家康の跡を継いでいたら、
はたしてこれだけのものを築けただろうかと個人的には思う。

偉大な父をこよなく尊敬し、畏れ、律儀で柔和な秀忠だったからこそ、
より盤石に基礎を固め、家光へバトンタッチできたんじゃないだろうか。
そして、天海をはじめとする脇がそれを支えた。


「上野第一編(4)」 で寛永寺創建について少し書きましたが、
寛永寺の創建が現実のものとして動き出したのは、
秀忠が実権を握った代になってから。
しかも、思い出の高輪御殿と大金を天海にプレゼントしている。

家康の存命中に寛永寺の着工ができなかった「諸般の事情」がわからないので
何とも言えない部分もありますが、父が重用した天海に秀忠もまた深い信頼を寄せ、
のちに徳川家にとって重要な寺となる寛永寺を
天海とともに造り上げたと言ってもいいだろうと思う。

・・・あんまり、寛永寺の話で秀忠って出てこないんだけどね。
ここでも影が薄い、可哀想な2代目・・・(笑)。



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最終更新日  2014年08月02日 22時56分11秒


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