戦国ジジイ・りりのブログ

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2013年12月15日
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カテゴリ: 上野と寛永寺
「上野第二編(12)」
天海の歌が2首載っていましたが、このうち1首は徳川秀忠に向けたものといわれる。


 長命は 粗食 正直 日湯 陀羅尼(だらに)
           おりおり ご下風 あそばさるべし



粗食・正直はいいよね。
日湯は毎日風呂に入りなさい。
陀羅尼はお経を詠みなさい。
そして「ご下風」・・・

「ブッブッブ~!と屁をこきなさい」

・・・秀忠の人柄と生き方が窺えるような、天海の指南です


前回、小早川隆景のことを引き合いに出しましたが、


隆元も相当なプレッシャーにさいなまれ続け、

「どうせ私なんか・・・ううっ」

と、ちょ~おネガティブな心情を書きつづったものが残っている。

そうは言っても、生前はそれを表に出すことはなく頑張っていたので、
隆元が急死した後、その心情を書いたものを見せられたオヤジや弟は

「お、お前~!
こんな根暗なこと考えてたのかあぁぁ~~!!」


と驚くやら号泣するやら・・・


隆元は家督を継いではいたものの、オヤジがまだピンピンして
実権を握られてるうちに亡くなってしまったけど、
秀忠は家康の死後も生きて、事実上の権力者として頑張った。

家康は確かに偉大な存在だった。
が、その偉大な存在を徳川政権の精神的支柱として実体化し、
その後の長く続く幕府の礎を築いたのは紛れもなく秀忠の功績だと私は思う。


共同作業者である天海がこれまたあまりにビッグだったゆえ、
ここでも影が薄くなりがちな秀忠・・・


で、その天海との共同作業ですが、前回『寛永寺』から紹介した
天海の12の功績のうち、「1.寛永寺の創建」と「12.東照大権現とその思想」の
2つが主なものといえるでしょう。


ここでは寛永寺の創建についてだけ。


寛永寺の創建の簡単な話は 「上野第一編(4)」 で書いてますが、
大体創建のエピソードとしては、

「天海が比叡山を江戸へ移すとの強い意志を持ち、
比叡山を模して江戸城の鬼門にあたる上野に東叡山寛永寺を創建した」

って風に紹介されるのがほとんどだと思う。
最初は私も、なるほど~と思ってました。

が、本編を書きながら並行していくつかの本や資料を読んでいるうち、
一体どこまでが天海の意志で、叡山に対してどれほどの対抗心と強い決意を持って
寛永寺の創建に至ったのか?
・・・だんだん、わからなくなってきました。


相変わらず書きながら勉強しているため、
中途半端になってしまって恐縮ですが、
ひとまず現時点でつかんだことまでを書き留めておくつもりなので
ご了承くだされ


江戸中期の兵学者、大道寺友山重祐が享保12年(1727)に発表した
「落穂集」にこんな話がある。


私が聞いたところによると、権現様(家康)が江戸へご入国なされたのは天正18年
  (1590)8月上旬に間違いないです。

  北条家の遺領を権現様が拝領なさる事は、戦の前から決まっていたのでしょうか、
  権現様が小田原へ着陣なされた後に、江戸表における祈願所になるような天台宗の
  寺を一つ、それから菩提所になるような浄土宗の寺を一つ、選んでおくよう
  指示されました。

  浄土宗で仰せにふさわしいのは、伝通院と増上寺の2つだけでしたが、
  このうち伝通院は古刹ですがちょっと田舎でした。増上寺は前に海(当時の増上寺は
  芝ではなく日比谷にあり、日比谷まで海が入り込んでいた)、後ろに山を抱え、
  大変眺めが良く、その上江戸城の近くにあります。
  天台の寺は、浅草寺観音堂の他には見当たらないようでした。

  これを報告すると、権現様はただちに増上寺と浅草寺観音堂の住持を小田原の陣所へ
  呼ばれ、両寺はともに境内乱妨禁制の書付を下されました。 

  この時、祐筆の書いた書付をご覧になり、浅草寺への書付は「卯月日」と書くように
  言われたので、祐筆衆が「一般にこのような書付には、月の異名(=卯月)は
  書かないものでございます」と申し上げたところ、権現様は「増上寺は菩提寺なので
  きちんと四月日と書くが、浅草寺は祈祷所なので卯月でよい」と重ねて仰せに
  なったという事です。
  ま、ちょっと昔の話なんで本当かどうか・・・ハハハ・・・

  当時の浅草寺は、古刹とはいってもあまり繁昌しておらず、寺の坊は昔から36坊と
  伝えられてはいますが、そのうち10坊ほどが清僧の僧坊で、残りは山伏同様の
  妻帯肉食をする坊主どもだったので、幕府の祈祷所には不都合ではないかと
  皆が噂をしておりましたが、何のお構いもありませんでした。

  当時は正月・5月・9月に城中で定例の大般若転読の祈祷が義務付けられており、
  公儀のご祈祷でもあるので、観音堂で修行する際は清僧達が出て勤めるようにと
  言われておりました。これにより妻帯の坊主どもは寺での居心地も悪くなり、
  ある者は子を、またある者は弟子を清僧に仕立てて寺を譲り、自分は寺の内に
  隠居所を構えて引き篭り、間もなく浅草寺の山内は自然に清僧になったそうです。



寛永寺創建前、家康の江戸入府以前から開幕初期の頃の話です。
「上野第一編(4)」で、最初は増上寺が徳川家の菩提寺、
浅草寺が祈祷所の役割を担っていたことを紹介してますが、
そのなれそめを語っているようです。

この話がすべて事実かどうかはちょっとアヤシイ部分もあるようだけど、
少なくとも家康入府頃の江戸には、浅草寺をしのぐような天台宗の寺は
なかったのだろうと『上野寛永寺 将軍家の葬儀』は語る。

個人的には、浅草寺の評価が興味深いところですね。
この通りではなかったとしても、
こういう風に言われていた時期があったってことだもんね。

一説には、浅草寺を推薦したのは天海だとしているらしいが、
総合的に考えてそれはないだろうと『上野寛永寺 将軍家の葬儀』の著者・
浦井正明氏は推測しておられる。

で、『上野寛永寺 将軍家の葬儀』の中で浦井氏は
なぜ浅草寺があるのに、あらたに寛永寺が創建されたのかという疑問について、
いくつかの推測を挙げておられる。
かいつまんで紹介すると、だいたい以下のような感じになります。


 ・浅草寺は古来より庶民の寺のイメージが強く、幕府が大々的に増改築したりという
  こともない。そのため、幕府の寺(=官寺)というにはちょっと庶民的すぎる。

 ・天海が描いた、比叡山延暦寺という勅願寺を江戸に移す壮大なプランを
  生かすには、浅草寺には地形の点で難がある。江戸城からの方角と宗派という点では
  問題はないが、上野にくらべ浅草は低地すぎる。

 ・比叡山延暦寺を東に移すのなら、当然本尊も同じ薬師如来が求められる。しかも、
  薬師如来は東照大権現となった家康の本地仏でもある。浅草寺の本尊が一寸八分の
  観世音菩薩だというのはよく知られたことで、庶民と観音のイメージが強すぎる
  浅草寺を、薬師如来を本尊とする寺に造り変えるのは至難の技といえる。

 ・比叡山を東に移すには、周辺の諸堂宇の移築、あるいは新築を伴うことを意味するが、
  既成の市中にある浅草寺周辺にはあらたな堂宇を造ることは困難だった。


ということで、

 【以上のような諸条件を入れて考えてみると、天海の進言を受けた幕府が、
  この上野の地に天台の一大祈祷道場を新規に建立し、芝とともにここをもって
  自らの権威の象徴と精神的な支柱にしようと考えたとしても決して不思議ではないと
  思うのである。】
  (『上野寛永寺 将軍家の葬儀』より)

と来る。


ふうむ、なるほど・・・

しかし、『寛永寺』では、家康の存命中から寛永寺の創建プランが
天海の中にあったとするものの、家康の没年は元和2年(1616)、
事態の変化があったのが元和8年(1622)。
実際に動き出したのが翌元和9年(1623)。

何でこんなにタイムラグがあるんだ?
本当にこんな長い間、天海はただじっと待っていたのか?
てか、寛永寺創建を思いついたのは、実際は元和2年以降だったんじゃないのか?

てね、だんだん疑問に思ってきちゃった訳なんです。


「落穂集」には寛永寺創建についてこんな話がある。


私が聞いているのは、元和9年(1623)家光将軍の時代に建立のお考えがあり、
  翌年の寛永元年(1624)より普請が始まり、開山は日光山の別当・天海大僧正、
  惣奉行は土井大炊頭(利勝)殿と言うことでした。(中略)

  その時の惣奉行である土井大炊頭殿が言われるには、「東叡山は天下安全の
  祈祷の為にあり、公方様のお考えで幕府を挙げて今度建立するので、徳川家の恩を
  蒙る国主、郡主方は誰でも天下安全の祈祷に異論はないはずである」と言われ(後略)


元和9年は、秀忠が高輪御殿と金子を天海に与え、寛永寺の着工が始まった年。
同じ年、秀忠は家光へ将軍職を譲っている。
ただし、自分は父と同じように大御所として実権を握ったままだったので、
日付的に家光が将軍になった後に寛永寺の工事が始まったとしても、
実質的なスポンサー兼施工主が秀忠であることに変わりはない。

「落穂集」が土井利勝に言わせてるあたりからすると、
寺院内部の具体的な企画・立案・設計はおそらく天海だろうけど、
寛永寺は初めから官寺として創建されたってことになる。

であれば、家康が定めた祈祷寺である浅草寺が
なんか使い心地悪いなあ~ってだんだん幕府が思うようになって、
浅草寺との調整などもあって元和9年を待たなければならなかったのかとも
思ってみたけど、浅草寺だって一時はちゃんと祈祷寺のお役目を果たしていたんだし、
そもそも「叡山を移す」というプランがなかったら、
浅草寺にそんなに不都合があるとも思えない・・・

な~んか、スッキリしない・・・



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最終更新日  2015年10月31日 10時04分31秒


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