戦国ジジイ・りりのブログ

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2013年12月16日
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カテゴリ: 上野と寛永寺
皆様が思っている以上に、わたくしは頭が悪いです。
上野第一編からここまでの間に、数冊の本なぞを読んではいますが、
特に『神君家康の誕生』は宗教部分の話も多くて、
一度読んだだけでは頭に入りませんでした。

理解できてないのは自分でもよくわかっていたので、
現在読み返し中ですが、昨日ちょっと驚くような記述を見つけました。
おっかしいな~、1回読んでるハズなんだけどな~

で、『神君家康の誕生』に他からゲットした話なども交えて
その部分を紹介しますと、家康が死亡した時点での天海の拠点は、


63歳の天海が慶長4年(1599)に川越の無量寿寺に移り、
ここで名を「天海」に改めたことを 「上野第二編(14)」 で書いてますが、
当時は無量寿寺の中院が関東天台の本山と言われていた。

無量寿寺には中院の他、北院、南院などがあったらしいが、
天海が入った当時は相当荒れていたともいう。
内部抗争があったなんて話もある。
天海は中心的存在の中院ではなく、北院に入った。

山号は、中院・北院ともに「星野山」(せいやさん)。

慶長18年(1613)、家康の定めた「関東天台宗諸法度」により、
関東の天台寺は延暦寺の支配下から独立して、北院がその本寺と定められた。



ほお、「東叡山」は寛永寺以前に存在していたのか!
ちょっと、いやだいぶオドロキでしたね。

天海、この時77歳。
ただ、まだこの時点では叡山の勢力の一部を移したに過ぎない。
でも、確実な一歩ではあった。

東へ移そうという狙いがこの辺りからあったという可能性はあるよな・・・

これにより、喜多院と中院の地位は逆転する。


で、ここからが大事なんですが、

 【家康の死後も、天海は喜多院住職として江戸幕府と関わった。しかし、川越は
  江戸から遠い。将軍秀忠は、元和8年(1622)に江戸城近くの土地を、
  翌9年には白銀5万両と高輪御殿の建物を寄進し、天海の拠点となる寺院を
  作らせた。ひとまず完成したのが寛永2年(1625)。
  これが寛永寺の始まりである。

  (中略)寛永寺も、一方では延暦寺を模すなど公的な側面を持つが、他方
  京都や滋賀近辺の名所を移し(琵琶湖にならった不忍池など)、建物も天海の自費で
  つつましく建てられるなど、天海の私寺的側面を残していた。】
  (『神君家康の誕生』より)


ほっほっほ~・・・

「ねえ・・・天海、
ウチの近くに引っ越して来ない?」
(by 秀忠)

・・・か!
これならわかる!
てか、私にはしっくり来る。

まあ、元和8年時点で天海は86歳だしね~
そりゃ、当時は川越~江戸間の往復は大変だよな~。
この話からすると、やっぱり秀忠も相当天海に信頼を寄せていたと言えるだろうな。


大ざっぱな説明だけを読んでると、寛永寺の始まりは
藤堂家やら3大名から上野を召し上げて、
初めから上野の大部分を天海に与えて
いっきなり大寺院を造り出したような印象を受けるんだけど、
これなら寛永寺初期の絵図で僧坊の隣に「百姓地」なんかがゴロゴロあるのも
うなずける。(  「上野第二編(7)」 もご参照ください)


ただ、前回の土井利勝の言なんかにもあるように、
寛永寺はただの高齢者用議員宿舎ではなかった。

幕府の介入による官寺という面も確実にあり、
関東の天台元締めの称号「東叡山」は喜多院から寛永寺へ移され、
喜多院はもとの山号「星野山」に復帰した。


スタート部分の「天海の私寺的側面」との兼ね合いがまだ消化できてないんだけど、
ひとまずこれらの流れから推測すると、

「大御所様、徳川家の末長い安泰のために、
こんなプランはいかがでしょうな」


「なになに、天海?
ふ~ん、ああ、なるほど・・ふんふん・・・
じゃあ、ひとまず関東の天台を独立させるか!
頼んだよ、天海」

「アイアイサ~」


家康没。享年73歳。チ~~~ン・・・・・


「ねえ、天海・・・
ウチの近くに引っ越して来ない?」


「おお、秀忠様・・・
実は、亡きお父君とこんな夢を語り合っておりましてな。
これを機に実現できたら、こんな嬉しいことはございませぬ」


「どれどれ?
え、こ、これは・・・!!
よし、徳川家のために、私が引き受けた!!」




・・・言うまでもないとは思いますが、原作・脚本:戦国ジジイのお茶の間劇場です。
たとえばこんな流れはどうかな?って思ってみただけ。

初めから官寺として建てられたのであれば、多方面との調整なども必要だし、
元和8年に秀忠が突然高齢者用議員宿舎を造ることを思いついた訳でもないよな。
当然。



それと、よく言われる堂宇や地名などの叡山との対応ですが、
確かに呼応する部分は多い。

が、一般的な解説の勉強から一歩出て自由に自分なりに物事を見てみると、
この堂宇は叡山を摸したっていうより、
単に天台特有の堂宇配置ってだけなんじゃないの?って思う部分もある。

いくつかそういう部分に気がつくと、
たとえば天海=明智光秀説があれやこれやのこじつけを持ち出してるのと
同じように見えてきちゃってね。

別に、先人の研究を否定する訳じゃないんですが、
確かにそう解釈できる部分もあるけど、
実のところは、たとえば長く無名の僧だった天海にとっては叡山はあこがれの存在で、
幕府とともに造り上げた新しい寺も大好きな叡山を真似っこしちゃお~!!
とかって可能性だってあるんじゃないのかな、って最近思うようになりました。

天海がからむと、何もかもが何らかの思惑とか策謀とか
何か隠されてるだろうって風に見られがちな気がするんだけど、
ナナメからばっかり見るのもどうなのかな・・・ってね。


ただ、そうは言っても、天海は確かにただの素朴で気のいい
長生きジイさんではありません。

天海の宗教的作戦がいつから、どんな風に天海の胸の内で練り上げられていったのかは
わかりませんが、家康が関東天台を独立させた時点で
壮大な構想の最終地点も視野に入れていた可能性は十分にあると思う。

そして、天海の作戦は別の重要なファクターも加え、
その死後についに完成を見ることになる。

それについてはこの後で出てくると思いますので、
秀忠との絡みは一旦ここで終わりとしますが、
天海のプランに現実の力を与えたのは、秀忠だった。
そして、それは子にも受け継がれてゆく。




さて、最後は3代・家光さんです。
この方は熱狂的な天海ファンだったので、エピソードは沢山あります。


家光が将軍職を譲られたのは、元和9年(1623)、19歳のとき。
とは言っても、父・秀忠は大御所として実権を握っていた。

祖父・家康はとっくの昔に死んでおり、
家光は将軍就任時点で87歳の天海に傾倒した。
ジイちゃんと孫っていうより、当時ならひいジイちゃんて年だよね

「家光」の名乗りは、黒衣の宰相として活躍した
金地院崇伝(こんちいん・すうでん)が付けたものらしい。
崇伝さんは外交僧として活躍した高僧なんですが、
天海の影に隠れて一般にはほとんど知られてない、お気の毒な方です。
崇伝さんについては、また書く機会もあるでしょう。



家光がなぜ天海っ子になったのか、実のところはわからない。
『寛永寺』では、父・秀忠を嫌っていたから、
父の代わりに敬慕したのが祖父・家康であり、天海だったのだとしている。

が、本当に世間で言われるほど秀忠と家光は仲が悪かったのか?と
最近では思うようになった。

たとえば、こんな話がある。


  ある日、江が秀忠に鴨の汁物を出した。

「この鴨ね、国松(家光の弟)が獲ったのよ、
   すごいでしょ」

「ほう、そうか、国松が・・・
   どれ、それじゃ、戴こうか」

  「すごいでしょ~、8歳にしてこの腕前!
   西の丸の堀で撃ち落としたんですって!!」

 「な・・・なんだと?西の丸で!?」

   秀忠は血相を変えた。

 「この江戸城は、大御所様から私が賜った大事な城で、
   竹千代(家光)が継ぐ城でもある。
   その江戸城内で鉄砲を打つとは、
   兄に鉄砲を向けると同じことだ!
   けしからん!!」


・・・と、秀忠はちゃぶ台をひっくり返し・・・
じゃなく、箸を投げ捨てて席を立ったそうな。

個人的には、あるいは秀忠は弟の方を可愛がっていたのかもしれないけど、
きちんと家光を尊重し、徳川家の安泰を図ろうとするだけの
認識と節度は持っていたんじゃないかと思うけどね。


家光が秀忠を嫌っていたとする理由のひとつに、
秀忠のやり方を家光がすっぱり変えたというのがある。
例えば、秀忠が最初に建てた日光東照宮の地味な建物を、
現在のようなキンキラで華麗な建物に替えた、とかね。

でもこれは、秀忠自身の遺言でもあるのだ。


ウチの天下はまだ浅い。これまで様々な決まりを創ってはきたが、まだまだ
  完全ではない。数年のうちにも、私はこれを整えようと思ってはきたが、
  もうそれを果たす時間がない。私が死んだ後、お前がこれを整えなさい。
  大幅に変えることになったとしても、構うことはない。むしろ、それこそが
  私の志を継ぐものだと思いなさい。


徳川3代っていったら、よくドラマなどでも取り上げられるし、
家光は春日局VS.秀忠・江の夫婦による兄弟の家督争いが
一般的なイメージとして先行しがちで、歴史ファンの間でも
結構このまんま受け止めてる人も多いような気がするんだけど、
たとえ間違っていたとしても、通説をそのまま鵜呑みにするんじゃなくて、
それぞれが独自の考えを持ってもいいんじゃないかと思うんですが、
いかがでしょう・・・




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最終更新日  2014年08月02日 22時55分38秒


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