戦国ジジイ・りりのブログ

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2013年12月17日
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カテゴリ: 上野と寛永寺
家光が将軍職に就任したのは、19歳。天海は87歳。
天海が107歳で死んだ時、家光は39歳だった。
将軍としての実に20年を、天海とともに過ごしたことになる。

「上野第二編(15)」 で、「駿河土産」から
天海の家康・秀忠に対する人物評価を紹介して、そのつづきを保留としましたが、
つづきの部分には家光の評価が来る。


  当将軍様(家光)は利発な方で、理屈っぽい面も強いので、
  御伽をするにも気が詰まるわい。

  と天海大僧正はおっしゃられた。


アハハハハ・・・

これまで私は、家光がどんな人なのかはほとんど知らなくて、

なかなか政治的手腕にも優れた人だったみたいね。

オヤジの遺言もあったから、遠慮なく思うがままに振舞い、
祖父が造り上げた政権を、父が地道に固め、それを家光が完成させた。
「徳川3代」ってのは、実に的を得た言い方だと思う。

ただ、正室・ 孝子 とのエピソードに代表されるような、
クセのある一面を持つ性格であるとも言える。


天海からすれば、子供の頃から家光を見てきて
孫かひ孫も同然といった感覚だったろうけど、
その天海にしてこの評価だからちょっと笑えましたね。


家族のような思いもあったからこそ、逆にお互いに物言いにも遠慮がなくて
こういう評価になったのかもしれないけど。


ウィキペディアには、こんなエピソードが載っている。


「天海、ほら、柿」

「おお、これは美味そうですな。
  どれ・・・(モグモグ)
  うん、うまい」

  「・・・?
   天海、柿の種なんか包んで、どーすんの?」

 「持って帰って、植えます」

 「プハッッッ!!
   て・・・天海、今いくつ!?
   もうすぐ100歳じゃん!!
   桃栗3年、柿8ね・・・」

  「天下を治める方が、そのように性急ではいけませんな」


   数年後。

 「上様、おひとついかがですか」

 「あ、柿。
   天海、どうしたの、これ?」

 「いつぞや戴いた柿の種が、実を付けました」 

   としれっと答えたという。


真面目な秀忠に対しては、天海は長寿の秘訣としてリラックスを詠んだ歌を
プレゼントした。
一方、対照的なその息子には、説教的な歌を送っている。
それが、 「上野第二編(12)」 の両大師の門の解説にあったもう一首の歌。


   気は長く つとめは堅く 色うすく
           食ほそうして 心ひろかれ



ハア・・・

わたくしには、これといった座右の銘はございませんが、
どれか選べと言われたら、これを挙げたでしょう。

「輪王寺1」 でも書いてますが、日光で三仏堂に寄った時は
観光客の立ち寄らない暗い隅っちょへ必ず行って天海坐像に挨拶し、
坐像の前に小さく書かれているこの歌を読み返しては心に刻んで帰る・・・
たとえ、無理な訓示であっても。

その長年にわたる思い出の歌が、まさか家光へ贈られたものだったなんて。

「ワシャ、家光か!!」

と爆笑しましたね。

うう、耳が痛いからこそ、心に刻んでなるべく努力しようと思う訳で、
つまりは家光と私は性格および生活態度が似てるってこと・・・?

いやいや、深く考えるのはやめよう。
世の中には、耳の痛い人間なんか山ほどいるハズだ(←決めつけ)



寛永寺の立ち上げに実体を与えたのは、秀忠。
が、着工の年に家光が将軍職を継いでいるので、
将軍在位でいうなら、家光の代から寛永寺がスタートしたといえる。

本坊ができた寛永2年(1625)から寛永16年(1639)の間に、
家光の後押しを受けて諸大名や御三家などからの寄進も相次ぎ、
主要な堂宇はおおむね出揃っている。

ただし、開山堂は天海を祀るものだから当然天海の死後の建立だし、
根本中堂は上野第一編の方で書いたように、綱吉の代を待たなければならない。

オヤジが天海と始めた事業を、家光が引き継ぎ整えていった。


天海最晩年の大仕事は、この寛永寺の整備、
それから 「上野第二編(11)」 で書いた家綱の誕生祈願といえるだろう。


寛永17年(1640)時点で、家光に子はいたが女子だった。
家光はすでに36歳。
早いとこ手を打っておかないと、後がヤバい。

で、天海が子宝祈願に乗り出した訳だけど、
『輪王寺 宝ものがたり』によると、良源さんの画像とともに天海自ら日光にこもり、
サポート役に日光輪王寺・寛永寺の僧のみならず
修験僧まで参加しての一大イベントだった。

たぶん、この最中の出来事じゃないかと思うんだけど、
家光が別件で天海に祈祷の依頼をしたという話がある。


「なんかさ~、江戸城に火事の危険があるっていうんだけど。
  天海、ちょっと防火の祈祷もしてくんない?」

「ワシャ、若君誕生のための大事な祈祷中なんですけど。
  この上防火の祈祷なんかした日にゃあ、
  祈祷の効果が半減しちゃうし~。

  考えてもみてくだされ、上様。
  お城は燃えてもまた建てればいいが、
  1日も早く若君がお生まれにならなければ、
  天下のピンチです。

  ワシには若君ご誕生の方が大事ですからな、
  火事の祈祷はお断りです。
  ま、よくよく火の用心に努めることですな。フン」

  この天海の見識に、かえって家光の信頼は増したという。


上野編は他のシリーズよりも色々なエピソードを持ち出してますが、
雰囲気を出すために相当脚色入ってますので、
100%このセリフだと信じないようにね
(いちおう言っておかないとね)

遠慮なく天海が家光の依頼を却下して子宝祈願に集中したことで、
めでたく4代将軍・家綱が誕生。
これを皮切りに、綱重・綱吉と家綱の跡を継ぐ男子がボロボロ生まれ
(綱重は将軍にはならなかったが、その子が6代将軍になった
⇒  「上野第二編(4)」 参照)、ひとまず将軍の血脈は保たれた。



寛永15年(1638)には川越で大火があり、喜多院が全焼する。
家光はただちに喜多院の再建に取り掛かり、
「家光誕生の間」と「春日局化粧の間」を移築する。

これは江戸城唯一の遺構と言われているらしい。
遺構って言っても色々あるから、ここでは御殿建築の意味だと思うけどね。
江戸城の御殿は最終的に本丸・二の丸・西の丸すべてが焼失しているので、
喜多院に残る貴重な遺構は、家光の天海に対する愛が時空を越えて
現代に伝わったと言えるのカモ・・・(笑)。




家康の死後、日光で年忌の導師を勤めたり
大蔵経の出版に取り掛かったり東照宮の縁起絵巻を完成させたりと
100歳を過ぎてもなお精力的に活動を続けてきた天海だったが、
さしものスーパージジイにも最期の時がやって来る。

天海の死については、「教科書が教えない歴史有名人の死の瞬間」(新人物往来社)
に詳しい。
一部抜粋してご紹介しましょう。


天海が体調を崩して病床についたのは、寛永20年(1643)7月14日。

家光は医師4人を付け、歩卒20人を病状の報告のために配置して
逐一容体を報告させた。

寛永寺では、天海の回復のための祈祷が始められたが、
天海はすぐそれと気づき、

「今はまだ軽いが、やがては定められた寿命が尽きる。
それは祈祷や薬で治るものではない。
この世には、できないこともあるのだ」

と言って祈祷をやめさせた。

9月29日、家光が見舞いにやって来て手ずから薬を飲ませた。
そして、日頃気になっていることがあれば、きっと実現させようと家光が言うと、
天海は5つの遺言を託した。

家光は遺言を涙ながらに聞き入れ、狩野探幽に命じて天海の肖像画を描かせて、
それを天海に見せたところ、天海はにっこり笑っただけだった。

10月1日深夜、死期の迫ったのを悟った天海は高弟たちを呼び寄せ、
天台の奥義を口述筆記させてそれを自ら校閲した後、家光へ届けさせた。

10月2日、朝10時頃から唯識論をひもといていたが、
昼になって口をすすぎ、手を洗った。
そして新しい清潔な衣に着替えたが、それも弟子に手伝わせてやっとの状態だった。
瀕死の身ながら威儀を直して呼吸を調え、しばらく数珠を握って経文を唱えた。

天海の目には、文殊師利菩薩の来迎姿が浮かんだらしい。
数珠を三度鳴らして深く礼をしてから、

「今、百余年の修行は終えて仏界に進むのだが、すべて何ごとも自然に思える」

と言い、弟子を一人一人名を呼んでは合掌して、別れを告げた。

「今こうして死に臨むが、もしも自分に恩を返したいと思うことがあれば、
いっそう学道に励むがよい。現世の出会いの縁はここだけに限らない。
さらに浄土で再会したいものだ」

この一言を言い終えると、眠るように息をひきとった。
すでに夕方のことだった。


天海の訃報はただちに江戸城に届けられたが、家光の姪である明正天皇の譲位問題があり、
家光への報告は4日の午後になった。訃報を聞いて家光は落涙して悲しんだ。

天海の最後は、半跏趺坐のまま姿勢を崩さず、
表情は微笑が漂っているようだったという。
家光はその姿に名残は尽きず、再び狩野探幽に画像を描かせた。

5日の夕方、天海の遺体を拭き清めて入棺した。墓所はかねての予定通り
日光大黒山に移して、家康の許に殉葬と決まり、6日に千人の葬列で出発した。

川越仙波、世良田、佐野春日岡、鹿沼薬王寺を経て10日に日光に到着。
これらは遺言だったという。

日光では金綾で覆った棺に百味珍華を供え、水銀、朱、塩で封じて埋葬したが、
それ以来、水の出なかった大黒山に清水が湧き出すようになったそうな。

慶安元年(1648)閏正月11日、「慈眼大師」号が勅許された。
家光は同年4月、彼の最後となる日光社参で天海の墓前にそれを報告した・・・



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最終更新日  2014年08月02日 22時55分22秒


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