戦国ジジイ・りりのブログ

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2013年12月19日
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カテゴリ: 上野と寛永寺
天海が徳川家光に託した遺言は、5つある。


 1、東照大権現の神威を増すこと。
 2、天台宗を繁栄させること。
 3、天海の後継者には、親王を迎えること。
 4、京・山科の毘沙門堂の門室を再興すること。
 5、天皇の命に違反する罪で配流された人々の赦免を行うこと。


天海と東照宮は切っても切れない関係にあるけど、
それは東照宮のところでまとめて書きたいので、
ここでは極力東照宮以外のことに限定します。



厨房に7日間の精進潔斎を命じ、死の翌月の11月2日(天海の月命日)には
江戸・大坂・京・長崎の4大都市で軽犯罪者の釈放を行った。
これは通常は将軍の死に伴う措置だったので、異例のことといえる。
遺言その5が効いたのかもしれない。


ところで、家光は追悼のために異例のことまでしてるし、
遺言まで聞いてるくらいだから、
家光にもいよいよの覚悟があったと思うのに、
家光は天海の死に立ち合っていない。
天海の病状報告に20人も寛永寺に配置してるのに。

確かに、政務のために駆けつけられなかった可能性もあるけど、
家光個人としては天海を看取りたかったんじゃないかと思うんだよね。


これはわたくしの推測ですが、「死穢」を避けたんじゃないだろうか。
そんなに沢山の史料を読んだ訳でもないし、
そんな理由がどこかに書かれているのかも知らないけど、
後代の将軍の葬儀のルールと同じ理由なんじゃないかと思ったのだ。

将軍の葬儀の実際というのもなかなか興味深いものなので、

実は将軍の葬儀には、次代を担う新しい将軍は立ち合っていないらしい。

へえ~!!ってカンジでしょ?
これもやはり死穢を避けたものらしいので、
家光としてはずっと天海に付き添っていたかったけど、
周囲に止められたんじゃないだろうか。

まあ、家光ならあっさりそれを振り切りそうな気もするけど、
前回の最後に紹介したように、自分の姪にあたる天皇の譲位問題などが
ちょうどバッティングしちゃったので、泣く泣く諦めたのかもしれない。
そんな風に思った。



天海の遺言は、実はすでに天海の生前から取り掛かっていた内容がほとんどなので、

「上様、これをあなたがやってくだされ」

というよりは、

「上様、仕上げをたのんます」

というニュアンスが強い。
そして家光は、故人の遺志を継いでそれを成し遂げた。



さて、天海の跡は一番の高弟である公海が継いで、
寛永寺と日光の山主になった。

信長包囲網に関与した叡山は、元亀2年(1571)、逆襲を受けて荒廃した。
ウィキペディアによると、近年の発掘調査からはこの焼き討ち以前に
多くの施設がすでに廃絶していた可能性が指摘されているようだし、
叡山攻めも世間で言われているよりは対象が限定されていたようだともされるけど、
いずれにせよこの辺りでかつての姿はなくなっていた。

幅広い勉強をしながらも天台へのこだわりが強かった天海は、
これの再興に情熱をそそいだ。

「上野第一編(7)」 で少し書いたように、
自分の本拠である寛永寺の整備を一部後回しにしてまで、
家光をスポンサーにして叡山の復興に務めた。
京・山科の毘沙門堂も、天海の手によって復興がなされた寺のひとつだった。


毘沙門堂の前身・出雲寺は寺伝によると8世紀、
あの行基様の開山によるという。

もとは洛中の上御霊神社付近にあったものらしいが、
天海が山科の地に寺領を与えられ、現在地へ移転。
ただし、完成は寛文5年(1665)というから、
天海の存命中にはまだ復興途上だったのかもしれない。
公海はまずこれを継いで、毘沙門堂の復興にあたった。



寛永寺が寛永寺たる重要な要素には、2つある。
いや、色々あるんだけど、わたくしが考えるのは2つ。

ひとつは、開基である天海の存在。
そしてもうひとつが、遺言その3にある親王を迎えること。

天海が生きてる間には、これは実現しなかった。
が、天海が死を迎える以前にそれは実現へ向けて動き出していた。

一般には、天海の夢が叶ったのは親王が寛永寺・日光の両貫主を継いだ
承応3年(1654)と紹介される。
そこまでの流れを、ダイジェストで見てみましょう。


元和2年(1616)、徳川家康死去。

元和8年(1622)12月、徳川秀忠が上野の地を天海に与える。

元和9年(1623)、秀忠が高輪御殿と資金を与え、寛永寺の工事が始まる。
            7月、家光が将軍職を継ぐ。
            天海の後継者に皇族を迎えるプランがこの頃できる。

寛永2年(1625)11月、本坊落成。「寛永寺」のスタート。

寛永6年(1629)、家光の姪(5歳)が即位、明正天皇となる。

寛永9年(1632)、秀忠死去。

寛永15年(1638)、幕府から朝廷に申請し、明正天皇の弟・幸教親王
            (後水尾天皇の第6皇子:4歳)を天海の後継者とする
             勅許が降りる。

寛永20年(1643)10月2日、天海死去。

正保元年(1644)、幸教親王(10歳)が京・青蓮院で得度し、親王宣下を受け、
            尊敬(そんきょう)法親王を名乗る。のちに名を守澄
            (しゅちょう)法親王に改める。

正保4年(1647)、守澄法親王(13歳)が関東に下向。

慶安2年(1649)、守澄法親王(15歳)、一品(いっぽん)宣下を受ける。

慶安4年(1651)、家光死去。

承応3年(1654)、守澄法親王(20歳)が公海から寛永寺と日光の山主を譲られる。


ここまで、寛永寺と関係者も絡めてガスッと書きましたが、
かなり長い時間をかけてようやく皇族が寛永寺と日光を継いで
第3代山主となります。

皇族が出家するというのは古くからあることで、
タイミングによって呼び方が変わるらしい。

出家した後に親王宣下を受けると、「法親王」(ほっしんのう)。
親王宣下の後に出家すると、「入道親王」。


守澄法親王をもらう契約は天海が生きてた頃に成立しているので、
天海としては1日も早く皇族が自分の跡を継ぐ姿を見たくて、
守澄法親王の成長を首を長くして待っていたことだろう。
途中で御破算になっちゃう可能性だってあるもんね。

ま、こうして並べてみると、家光も自分の目で
皇族住職の誕生は見ることができなかった訳だけど、
関東に下向したところまでは見届けてるのだから、
天海との約束は果たしたと少し安心したかもしれない。


「一品」てのは、親王・内親王の位階のこと。
一品から四品に分けられるので、
端的に言うと最上階のステータスを与えられたってことでしょうかね。

ちなみに、法親王が名を「守澄」に改めるのは延宝元年(1673)ですが、
「守澄法親王」の名の方が広く世間に知られているので、
ここでは守澄法親王で通します。


さて、めでたく守澄法親王が東叡山・日光山の両山主となられたので、
天海の願いはひとまずここで達成されたと言っていいんじゃないかと思うけど、
まだ終わりではありません。


明暦元年(1655)10月、守澄法親王が朝廷より天台座主を宣下される。
           11月、朝廷から日光へ「輪王寺門跡」の号の勅許が下り、
           「輪王寺宮」の始まりとなる。

明暦2年(1656)、幕府により輪王寺宮が比叡山・東叡山・日光山の三山を管領する
            長として定められる。



はいっ、ここでようやく天海のプランが完成を見るのです。
同時に、「輪王寺宮」(りんのうじのみや)の誕生でもあります。
ばぶう~っ!!

守澄法親王が輪王寺宮を名乗る以前から、
寛永寺が日光山の山主を兼帯する道はできていました。
つまり、寛永寺の住職になることは、イコール日光の住職になることでもある。

そこに叡山が加えられることで、
天台を完全に寛永寺が掌握したことになるんだそうです。
『神君家康の誕生』によると、天台の掌握だけでなく
日本の宗教界の頂点に立ったともある。

輪王寺宮と天台座主とは必ずしもイコールではないので、
ちょっとややこしい所もあるんだけど、
ほとんどの輪王寺宮が天台座主も経験してるようです。


以後は、幕末まで寛永寺の山主は親王(輪王寺宮)が務めることになる。

「輪王寺一品法親王」は三山を管領したことから「三山管領宮」とも呼ばれ、
その他に「上野宮」「日光宮」「輪門様」「日門様」など様々な別名がある。

ウィキペディアによると、朝廷や公家からは「輪王寺宮様」と呼ばれ、
幕府や武士からは「日光御門主様」、江戸っ子からは「上野宮様」と呼ばれたとある。
さらに、漢文の教養のある文士たちからは「東叡大王」(とうえいだいおう)とも
呼ばれたそうな

輪王寺宮が三山を統轄するようになった時点で、
天海の遺言はすべて果たされたと言っていいだろう。
遺言その5の特赦は、家光に留まらずその後の輪王寺宮にも引き継がれた。


太田道灌が最初に江戸城を築いたといわれるのは、長禄元年(1457)。
家康が江戸に入府した頃は、まだ江戸の町は野原のようだったともされる。
地形も今とは全然違っていた。

それが、江戸に幕府を開き、日本一の巨大な城を築いてあらたな都となったが、
京に比べ当然歴史は浅い。

そういう町に住む江戸っ子にとっては、
将軍様と上野の宮様・・・政治と宗教のトップがともに江戸に住んでいるということが、
何よりも誇りだったらしい。

だから、 「上野第二編(12)」 の宮のお練りなんかは、
そりゃみんな見に行っただろうな~と思ったんだよね。



実は、日光の長い歴史の中では親王を迎えた例もある。
が、輪王寺宮は、それまでとは格が全っ然違う。
だからこそ、寛永寺における歴史の中で、開山である天海とともに
非常に重要な存在だったと私は思うのだけど、
どう違うのか、宮がどんな存在だったのか、
それはまた次回以降に・・・



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最終更新日  2014年08月02日 22時55分03秒


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