戦国ジジイ・りりのブログ

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2013年12月21日
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カテゴリ: 上野と寛永寺
やっと輪王寺宮のご登場となりましたが、



輪王寺は、日光山に対して与えられた号。
今でこそ明治の神仏分離令というハタ迷惑なお達しのおかげで
「二社一寺」・・・東照宮とニ荒山神社と輪王寺に分かれてはいるものの、
神も仏も一緒だった当時では、日光山すべてが輪王寺だった。

少し前の記事で、勝道上人が立ちあげた「紫雲立寺」は、
「四本龍寺」となった後に「輪王寺」になってるみたい・・・
と書きましたが、「輪王寺」になる前に「満願寺」の号をもらってたようです。


鎌倉期に入り、皇族の住職を迎えるようになるが、戦国の終わりに衰退。

江戸期になって寺おこしのプロ(笑)、天海を迎え、
さらに公海を経て後継者に守澄法親王を迎えたことで
再び朝廷より寺号を賜り、現在まで続く繁栄の基礎となる。
日光山とは、こうした古い歴史と由緒を持つ霊場です。


で、「輪王寺」の名称ですが、『寛永寺』では輪王寺宮が三山管領宮となり、
仏教界の頂点に君臨する象徴的な存在となったという紹介の後にこんな説明が続く。


 【今、そのことを何よりもよく示しているのは「輪王寺」という門室号の勅賜だろう。
  「輪王」とはもともと古代印度の理想の君主「転輪聖王」に由来する名前である。
  釈迦が仏法を説くことを「転法輪」というが、輪とは本来戦車の車輪の意味である。

  従って、転法輪とは、ちょうど優れた大王が戦車に乗ってすみやかに四方を

  こうしたことから、後に釈迦自身を表わすのに輪宝を用いた訳である。
  従って、仏教界全体を統轄する理想の僧の名としては、「輪王」の名が
  最も相応しいことになる。】
  (『寛永寺』より)


はあ、そんな奥深い由来があったなんて・・・


最後の方で「理想の僧の名としては」とありますが、
「輪王寺宮」は特定の個人を指す称号ではありません。
守澄法親王の後、幕末まで寛永寺には代々親王を山主に迎えたので、
守澄法親王以後の歴代山主が皆様輪王寺宮になります。

前回も少し書きましたが、日光の山主・輪王寺宮になることは、
同時に寛永寺の山主になることであり、
輪王寺宮を辞職する時は寛永寺の山主を辞職することでもあります。
つまり、江戸期の寛永寺と日光輪王寺は完全に同体と言えるでしょう。

これに天台座主がからむとちょっとややこしくなってくる。
なんでかというと、天台座主の歴史もまた長いからなのだ。

「天台座主」というと、大抵の人が「天台のトップ」をイメージすると思う。
おおむねそのイメージは間違ってはいないんだけど、
江戸期に関してだけは事情が違う。

歴代輪王寺宮の中には天台座主にならなかった方もいた。
なら、「三山管領宮」じゃないじゃん!て言いたくもなるけど、
あくまでそれは形式上のことであり、天台座主にならなかった、
あるいは天台座主を兼ねていない時期があったとしても、
実質的な権威は変わらず輪王寺宮にあった。

要するに、江戸期の天台を統轄していたのは叡山ではなく、
東の叡山=寛永寺だった。
なので、他の寺の僧が天台座主の地位にあった場合でも、
それは叡山だけを管理したという意味になり、
天台座主になろうがなるまいが、天台宗のトップの地位は
江戸期を通じて輪王寺宮のものだった。

明治期になると、トップの地位は再び叡山に戻ったので、
通算して天台座主をカウントする都合上、
江戸期も含めて「天台座主」と表記しているが、
ちょっと誤解を招きやすい、とウィキペディアになかなか丁寧な解説が載っている。

簡単に言うと、江戸期を除いては天台座主=天台宗のトップ、
ただし江戸期には寛永寺(輪王寺宮)が天台のトップになるそうなので、
この辺りの事情をきちんと踏まえておく必要がありますね。


ちなみに、『輪王寺 宝ものがたり』にはこんな話が載っている。


 【輪王寺の寺名はどこから

  奈良の吉野山に、こんな伝承があります。
  天海大僧正が家康公から慶長19年81614)に吉野山の管轄を任され、
  そこの金輪王寺の住職となりました。

  この寺は南朝の御所となったところで、その名を日光山へもってきてしまい
  輪王寺と改称したというのです。宮様を住まわせるには適切な格式の寺名と
  いうことになります。ただし日光側にはこの伝承は伝えられていないのですが。】


ほお、南朝!?
と思って軽く検索してみたら、結構この話はネットでも紹介されているので
驚いた。

なんでも、吉野にこもった後醍醐天皇は実城寺を皇居としたが、
その際に寺名を金輪王寺と改めたという。
そして、後醍醐天皇は金輪王寺で薨去した。

秀吉は吉野に対し柔軟な姿勢で対応したが、
家康の時代になると警戒され、天海を学頭に置いて日光の支配下に置き、
寺名は没収、以後も厳しい統制を敷き吉野の寺院勢力を削いでいった。

と、こんな感じになるようです。

ここでは別に、伝承の真偽を問うつもりはありませんが、
なかなか興味深い話ではある。
仮にこちらが本当の話だったとしても、そりゃ日光サイドでは
こんなエピソードを由来として紹介するワケないよな(笑)。



「上野第一編(8)」 で、『上野寛永寺 将軍家の葬儀』を参考に
寛永寺の寺域の変遷が大きく5つに分けられることを書き、
そのうち最後の第5期について少し紹介しましたが、
著者の浦井正明氏によると、法親王を迎えた承応3年(1654)から
万治3年(1660)頃までが第2期にあたるという。

現在確認できる寛永寺の寺領に関する文書は、
寛永11年(1634)のものが最古だそうで、
最初は秀忠からもらった上野のお山の一部に加え、
坂本(鶯谷付近)・日暮里・田端と寛永寺に近い場所が与えられている。


正保3年(1646)には寛永寺における最古の朱印状が与えられ、
赤羽・中里など少し北へ領地が延びた。
この時の山内での内訳は、本坊や年中行事料のほか、
天海を祀る慈眼堂への配当があり、「学頭料」も見える。

山内の実務のトップ・学頭には個別にお手当の支給もあったことを
「上野第一編(12)」 で書きましたね。
この配当から、山内のシステムも次第に整いつつあることが窺われる。
この時点で2,100石。


わずか8年後の承応3年(1654)、二度目の朱印状を受ける。
浦井正明氏は、これを重要視しておられる。

承応3年の時には、谷中・十条や鹿浜(足立区)などがプラスされ、
総石高は一挙に5,600石にまで膨らんだ。

倍以上になったという点の他に、浦井氏は配当の方法が
正保3年の時から大きく変わり、その後どんなに寺領が増えようとも、
基本的な配当の枠組みが変わらなかったという点に注目しておられる。

それはつまり、承応3年に配当のスタンダードが定められたことを意味する。
そして、同じ年に法親王が寛永寺の主に就任している・・・

ここから、宮を寛永寺に迎えたことで『時の幕閣もそれなりの対応が必要となり、
右のような山料関係の整備も行われたのだと考えられよう』
(『上野寛永寺 将軍家の葬儀』より)と浦井氏は推測しておられる。



内訳について少し紹介すると、この段階から「御隠居料」として
500石がカウントされている。
この御隠居料が何かというと、守澄法親王へその座を譲った
寛永寺第2代・公海に対する配当らしい。

『寛永寺』の表紙の絵図は延宝期(1673-88)のものであることが
やっと最近わかったんだけど、絵図には現在の寛永寺の北の大きな区画に
「毘沙門堂 御門跡」というのが描かれていて、公海は山科・毘沙門堂の門跡で
元禄まで生きた方なので、隠居してここに住んでいたものと思われる。

のちの輪王寺宮の中には、手持ちの資料の中では
あまり詳しいことはわからない方もおられるんだけど、
寛永寺に墓がある方もいるから、生前にその地位を譲って
寛永寺内でそのまま隠居した方もいるのかもしれない。

その一方、別の場所で隠居生活を送った方もいる。
つまりは、いつでも寛永寺に「御隠居」がいた訳ではないんだけど、
御隠居様の在・不在に関わらずこの御隠居料はそのまま固定化したんだそうな。


浦井氏は著書の中で触れておられないんだけど、
「御隠居料」と同じく承応3年の配当目録から現れたものに「目代料」がある。

それ以前から寺領の管理とか山内の警備などにあたった人は
それなりにはいたんだろうけど、「目代料」が公式に顔を出すことから、
目代 をボスとする山内の警備システムも正式にこの辺りから整えられたと
言ってもいいんじゃないだろうか。

てことは、宮を迎えたことで、幕府の配慮によりセキュリティ度が
アップしたって可能性もあるよな、と思った。



寛永寺って時代も比較的近いし、場所も江戸だし
徳川家との関係も深いから多くのことがわかっているのかと思ったら、
案外そうでもないらしい。

寺領もそのひとつで、あまり詳しい考証がなされていないために
『上野寛永寺 将軍家の葬儀』の中で浦井氏は
結構ページを割いて寺領の変遷について紹介しておられるのだけど、
今後の検討課題として幾つかの点を挙げている。

そのテーマの1つが、寺領の置かれた場所について。


 【東叡山領は、まずいわゆるお膝下の坂本・新堀(日暮里)・金杉・田端などに
  はじまり、しだいに荒川を護岸沿いにさかのぼる格好で設定されていく。
  したがって、享保期の段階で見ると、一部を除き、ほぼ荒川の護岸沿いに連なって
  寺領が存在している。これらの土地はほとんどがもともと幕府の直轄地であり、
  幕府は宮様の手前もあってか川沿いの肥沃な土地を選んで寄進したと思われる。】
  (『上野寛永寺 将軍家の葬儀』より)


これはまだ浦井氏の推測の段階だと思うけど、
幕府の宮に対する配慮の一端が窺える、興味深い記述だと思う。

大ざっぱな推測として、宮が寛永寺に来たことで
それまで以上に幕府主導で山内のシステムもより高度に整えられ、
経済的にも優遇された、ってことが言えるんじゃないのかな。


経済といえば、上に書いたような寺領などはあくまで公式なもので、
寺の収入には非公式なものもある。

各子院には 宿壇 からの毎年の附届けもあったし、
寛永寺全体で見れば将軍の葬儀を執り行った際の謝礼や、
将軍霊廟への参詣の際に関係者から贈られる謝礼など、
定期・不定期に結構な収入があった。
が、これらは表向きの石高としては一切計上されていないんだそうな。

これも、大名によって金額はさまざまだけど、
宮をお迎えして格式がアップした寛永寺への贈り物なのだから、
それなりの額は包まねばならないだろう。

だとすると、宮は経済貢献もしたといえるカモ・・・



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最終更新日  2014年08月02日 22時54分47秒


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