戦国ジジイ・りりのブログ

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2013年12月22日
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カテゴリ: 上野と寛永寺
「出家」というと、俗世での一切は捨てて基本的に皆同じ立場の僧侶になる、

輪王寺宮の場合は、宮様のお立場にあることは変わりません。
宮は僧侶であると同時に、「輪王寺宮家」という宮家の当主でもあるんだそうな。

親王を寛永寺に迎えた理由として、ウィキペディアにはこんな記述がある。


 【敵対勢力が京都の天皇を擁して倒幕運動を起こした場合、徳川氏が朝敵と
  されるのを防ぐため、独自に擁立できる皇統を関東に置いておくという
  江戸幕府の戦略だったとも考えられる。

  こうすれば、朝廷対朝敵の図式を、単なる朝廷の内部抗争と位置づけることが



「東武天皇」について知りたい方は、ウィキペディアの「北白川宮能久親王」の
ページをご覧ください。
北白川宮は最後の輪王寺宮で、上野戦争で寛永寺の寺地が没収された際、
強制的に還俗させられた方です。


『神君家康の誕生』(曽根原理著)には、
徳川家菩提寺・増上寺の僧である源誉存応(げんよぞんのう)が
浄土宗の僧侶を公儀のスパイとして活用する策を家康に提案した話が紹介され、
その後にこんな話が続く。


 【さらに浄土宗の門跡については、逆に家康から、次の相談があったと記されている。

    このたび上洛されたなら朝廷に申し入れ、新たに知恩院(京都の浄土宗の
    中心寺院)の門跡職を設け、現天皇の皇子を就任させ、部下となる僧俗をつけ、


    その上で、将来もし天皇や朝廷が徳川家を見限り、別の大名に倒幕の綸旨を
    出すようなことがあれば、幕府側で知恩院門跡を天皇に即位させ、
    対抗すれば良い。

 (中略)存応は、浄土宗のためにも天下万民のためにも良策であると答えたという。
  知恩院に准門跡を設けたこと自体は史実であるが、その意図は浄土宗寺院の

  (『神君家康の誕生』より)


スパイと対朝廷策の話は、存応の弟子である暁誉源栄(ぎょうよげんけい)が記した
「暁誉覚書」からのもので、著者の曽根原氏は暁誉覚書のこの記述は
フィクションであるとしているが、当時からこういう見方もあったという点では
興味深いものだと思う。

私の印象では、どちらかというと朝廷との対抗策というよりは、
上記引用の最後の部分にあるように、寛永寺のハク付けと天台トップの座の確保、
それから朝廷との融和策の狙いの方が強いような気がするんだけど、
裏にもしものためのカードという意図がないとも言い切れない。

開幕初期の頃は特に、朝廷との軋轢も多かったからね。
公武融和の一環として将軍の御台所を京から迎えたように、
宮にも朝廷とのパイプの役割が期待された部分もあったろう。



では、ここからはエピソードなどを交えながら
宮の話をしましょうか。


宮の通常のお住まいは、寛永寺。
本坊が宮の住居でもあったので、現在のトーハク(東京国立博物館)の場所に
住んでおられた訳ですね。
宮が寛永寺におられる間やお出かけの時には、 山同心 が警護を務めた。

が、定例の日光でのお勤めもあった。
それが、正月と5月・9月の厄月の祈祷。
この3ヶ月・・・どこかで見た覚え、ありませんか?

「上野第二編(16)」 で「落穂集」から浅草寺が初めに祈祷寺として
ご指名を受けた際の話を紹介しましたが、当時、江戸城中で行われていた
定例の祈祷会が同じ月なんですよね~。

正月は物事が生じる月であり、5月は物事が最も勢いよく興る月であり、
9月は物事が実を結ぶ月。
やっぱり昔の事だから、農業との関連を思わせるようないわれだな。

この3つの月は、それぞれ「三齊月」「三長月」「善月」とも言われ、
中国において「天」が下界の善悪の判定を下す月とされていたため、
その期間中は殺生や結婚なども慎んでいたんだそうな。
庚申信仰とちょっと似てるな。

その一方で「神通月」とも言われ、この期間に加持祈祷を行えば
悪鬼の影響を追い払い、逆に願いが叶うとされた。


こういう月だから、日光で宮が幕府のために祈祷をするようになっても、
恐らく江戸城でも厄月イベントは続けられたのだろう。

江戸の風俗や芸能などを記録した「嬉遊笑覧」(きゆうしょうらん)には、
猿回しの記述も出てくる。
面白いことに、厄月のやはり正月・5月・9月には猿曳きが江戸城の厩に出かけて
祈祷をしたんだそうな。その他、諸大名の厩にも赴いたという。
猿は馬の守り神だからね(  「山口編(18)」 もご覧ください)。


厄月とはまた別の話だけど、毎年正月の6日には
全国の僧侶および神職が年頭のあいさつに江戸城へ登城する決まりがあった。

でも宮はその時、極寒の日光で幕府のために大事なお勤めを果たしていたので、
その中に宮の姿はない。

いやあ、ダウンもフリースもホッカイロもない時代、
厳冬期の日光はさぞ寒かっただろうな~・・・と、
真冬の日光の寒さが身にしみているわたくしはちょっと宮に同情してみる(笑)。

けど、日光輪王寺の所蔵品には青銅製の「犬型温湯器」なるものがあって、
垂れ耳の犬が「伏せ」をした格好をしていて、大猷院に伝わったものらしい。
その写真が日光輪王寺の宝物殿で買った『日光山と徳川四00年の文化』という
図録に掲載されているんだけど、もしかしたらいずれかの宮も
これで暖を取ったかもしれないよな~って、
相変わらずそんな妄想ばっかりです


で、さむ~い日光での祈祷の内容は、『上野寛永寺 将軍家の葬儀』によると
天下泰平・将軍と幕府の安泰、万民豊楽など。
皇族である宮が、徳川幕府のために祈る訳です。
見ようによっては、力関係がわかるとも言えますね。

この祈祷に際して読んだお経の内容は巻数(かんず)という目録にされ、
御祈祷のお札、それから日光東照宮にお供えして御祈祷した鏡餅と一緒に
宮が江戸へ持ち帰ります。

日光でのお勤めを終えて、宮が登城するのが2月の1日。
この日が宮の年始めの登城になると思われます。

上野から江戸城までの間を私はまだ歩いたことはありませんが、
直線距離にして約3kmだから、1時間くらいで着くのかな。
不動産屋さん方式でいけば、40分くらいで着く計算

その1時間の道のりを、宮は網代の溜塗(ためぬり)のお駕籠に揺られて
進んでいきます。

網代の溜塗というのは、竹や杉などの皮を編んだものに下地を塗って
その上に赤い漆を塗り、さらに透明な漆を厚く塗る漆塗りの技法で、
深みのあるワインカラーの駕籠のようです。
これは将軍と宮にしか許されていない駕籠なんだと。


江戸城には多くの決まりごとがあり、大名たちの登城する門も決まっていました。
宮がお使いになる門がどれだったのかは現時点ではわかりませんが、
やっぱ大手門あたりでしょうかね。

一部の大名、役高500石以下の者、50歳以下の者(笑)などは
大手門前の橋の手前で駕籠や馬から降りて歩きますが、
宮は駕籠に乗ったまま通過します。

その奥の大手下乗所から高家、交代寄合、50歳以上の者を含め
おそらく全ての大名が歩くようになると思われますが、
宮はそのまま通過します。

次の大手中の門か、さらにその先にある玄関前の書院門のどちらかで
同じ将軍家の菩提寺である増上寺の法主(ほっす)は下乗します。
御三家は中の門の前で下乗したともいうから、増上寺も中の門で降りたかもしれない。
少なくとも、増上寺が御三家より奥の地点で降りるということはないハズ。
でも、宮は駕籠のままスルーします。

んじゃ、宮はどこで駕籠を降りるのか?
『上野寛永寺 将軍家の葬儀』(浦井正明著)によると、
表玄関にじかに駕籠で乗りつけたそうなんですよ。

ものによっては、宮も中の門で降りたとする人がいますが、
『寛永寺』にも表玄関に駕籠のまま横付けできる特権を持っていたとあるし、
私はこちらの説を信用しますね。
(ただし、浦井氏は寛永寺のお坊様なので、
『寛永寺』の編集に浦井氏も参加してる可能性は十分にあるんだけど。)


通常、宮の格式は御三家に並ぶ。
が、法要などの儀式となると、御三家をもしのぐ格式があったという。

そういう訳だから、定例の大名の登城の際は通勤ラッシュで大変だったろうけど、
大名が御三家と道でバッティングしちゃった場合は、
脇に寄って道を空けて駕籠から降りて礼を尽くして御三家に道を譲ったというし、
御三家が勅使に行き合った場合でも、片道を空けてすれ違うだけという
権力をかさに着て・・・あやや、強大な威厳を持ったさしもの御三家も、
もし宮と行き合うことがあったなら、それなりの礼を尽くしたかもしれない。

ま、そういうケースがあったのかどうかは知りませんが。
とにかく、宮の格式は御三家を下回るものではなかったとご理解ください。


さて、表玄関に到着して宮は駕籠を降ります。
御殿に入って謁見の間まで進むと、将軍が自ら下段へ降りて、宮を迎えます。
言うまでもないですが、通常は将軍はこんなことしません。

そして2人で上段へ上って、上段で宮と将軍が対坐します。
わかります?
上段と下段・・・いわゆる、上座と下座に着くのではなく、
上段で2人が向き合うんです。
つまり、宮と将軍はほぼ対等の立場という訳です。


寛永寺を出てからここに来るまでの宮の登城スタイルは、平時も同じ。
別に、年頭だからこの日だけ無礼講って訳じゃありません(笑)。

さて、上段に2人が落ち着くと、宮が日光みやげを渡します。
上に書いた、巻数とお札と鏡餅の3点セットね。

他の厄月である5月と9月にも、同じように巻数とお札は献上したそうですが、
その2回については宮がご自身で登城されるのではなく、
名代である子院の凌雲院の住職が献上するという決まりになってました。

凌雲院の住職が重要なポストであったことは 「上野第一編(12)」 で
紹介しましたが、要するに「学頭」のことであり、
唯一宮の名代を務める資格があった方のことです。

学頭がおみやげを献上しに伺った際のことまでは『上野寛永寺 将軍家の葬儀』には
書かれてないんだけど、おそらく宮個人の特権以外の部分の流れは
2月の宮の登城の時とほぼ同じでしょう。

てことは、将軍に謁見する機会もあった訳で、
そういう重要な役職だからこそ、当代一流の僧が選ばれ、
しかも宮と将軍の2人の同意がなければ学頭になることはできなかったというのも
うなずけます。

2月の献上の場合は、鏡餅のおみやげもあるので、
この献上の儀式を「日光御鏡頂戴」(おかがみちょうだい)といったそうです。



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最終更新日  2014年08月02日 22時54分30秒


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