戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年02月13日
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カテゴリ: 上野と寛永寺
やっと社殿の前まで来ましたが、この後もまだ写真は沢山あって長いので
一旦境内の紹介は中断しまして、しばし歴バナに入ります。
上野編全編を通してまとまった歴バナはこれが最後になります。

上野東照宮ですので、ここでの内容はもちろん東照宮関係。
皆様ご存知の通り、東照宮は日光が本廟ですので
本来であれば日光のところで書くべきなのかもしれませんが、
あちらは写真館という位置付けでもありますし、
寛永寺を勉強する中で、やはり東照宮も寛永寺の記事の中で書くのが
ふさわしいと思うようになりましたので、上野に限定せず


プラス、これまでの歴バナの内容もあちこちで顔を出すと思いますので、
忘れた方は 「上野第二編(9)」 以降しばらく続く歴バナを
おさらいしておいて下さいね。



「上野第一編(4)」 で徳川家康の死の前後について簡単に書いてますが、その中で

そして自分の死後の処理についても、本多正純・南光坊天海・金地院崇伝を召して、
  指示を出した。すなわち、

  ・遺体は駿河国の久能山に葬ること
  ・葬儀は江戸の増上寺で行うこと
  ・位牌は三河国の大樹寺に納めること
  ・一周忌が過ぎてから、下野の日光山に小堂を建てて勧請すること

  そして、神に祀られることによって八州の鎮守になろう、とな。

という話を紹介しました。

戦国を好きになって最初の頃は、家康ってあまり好きじゃなかったし、
もっと前は「人が神になるって・・・」って思ってましたが、
家康には家康の考えがあったらしい(当たり前か)。


天海と家康のエピソードのひとつとして、 「上野第二編(15)」
論議のことを紹介しましたね。

この論議、上記リンク先でも書いてますが慶長末年の数年間だけで120回・・・
安定した時期ならともかく、まだ豊臣家も健在なこの時期にこの回数ってのは
フツーに考えても尋常じゃない。


私、従来の説通り、関ヶ原後の豊臣家はイチ大名に転落したんだと思ってたんだけど、

オヤジの余波で朝廷からも厚遇されたし、独自の確固たる地位を築いていて
周囲からも期待されていたって見られてるらしいね。

関ヶ原で秀吉子飼いの武将たちがこぞって東軍に付いた理由が
どうも理解できなかったんだけど、
中国方面に関心を持ってからは、戦国のラストを飾る最も華やかな
中央の動向からは遠ざかってましたので、
逆に今では以前よりもクールにこの頃の出来事も見られるようになりました。

で、秀吉の死から大坂の陣までのことを江戸幕府の動きなども含めて考えてみると、
結局はやっぱり世間一般で言われるように、三成憎し・・・
はちょっと表面的すぎるけど、政権の運営方針の違いで
いわゆる武断派が家康に加担したってところが妥当なのかな、と思うようになった。

関ヶ原ではどちらの軍も、「秀頼様のために」を名目として掲げていた。

一見、徳川方に寝返ったようにも見える加籐清正や福島正則などの中にも、
将来の秀頼に期待をかけていたように思えるフシもある。
彼らは豊臣家を裏切った訳じゃない。

家康も、そんなことはわかっていた。
秀吉子飼いの武将たちを多く抱き込んで関ヶ原に勝利し、
彼らを大藩に封じた徳川政権は、燠火を抱えたようなものだった。



 「織田がつき 羽柴がこねし天下餅 
      座りしままに 食ふは徳川」


という有名な落首はかなり後になってから作られたものらしいけど、
織田の天下を見たかった戦国ビギナーのわたくしは、この歌を見るたび

「チッ!!」

と思ったものだった。
が、今となってはなかなか的を得た歌だと思う。
家康はいつも三番手なのだ。

もちろん、三番目なら誰でも成功した訳じゃない。
前の二手をじっくり観察した上で、三番目に大きな花を開かせた家康は
やはり偉大な人物だったと思う。

以前はその老獪さが気に入らなかったんだけどね。
石田三成の仇でもあったしね(←三成ファン)。



さて・・・
織田家は王手に手をかけようとしたところで頭打ちになった。

秀吉は得意の「たらし」でついに天下までたらし込み、
草履取りが天下人にまでなった。
実に鮮やかなサクセスストーリー。
しかし、秀吉には致命的ともいえる欠陥があった。

以前、懐かしの東西条編で 「やっぱ戦国武将には寿命と繁殖力が大事」 と書いたけど、
秀吉の場合は

「チミは女は大好きだけど、
子種を持っとらんじゃろ!?」


だった。

公式発表では秀頼が実子ってことになってるけど、
誰が見てもおかしいでしょ。
ま、とりあえず秀頼を子としたところで、たった1人。

沢山いればいいってもんでもないけど、
やはり数少ない親族である秀次を死に追いやるべきではなかった。

そして、秀吉の後継者である秀頼がまだ幼かったのが幸いして
天下は家康の手に転がり込んできた。
いや、もぎ取ったってのが現実だけど(笑)。


現代の私達からすると、天下人の子が天下を受け継ぐというのは
別に不思議とも思わない。
鎌倉幕府の初期もそうだったし、室町幕府もそうだった。
ところが、

 【当時、巷には「天下は回り持ち」という考え方から、天下人の子の世襲を
  認めない風習がありました。】
  (『お江と徳川秀忠101の謎』より)

なんだそうな。

これには若干の疑問もなくはないけど、そういう認識が秀吉の中にもあったんだとすれば
死を間近に控えた秀吉が

「ひ・・・秀頼を、秀頼を頼むぅぅぅ・・・
オネガイ・・・」


と最大のライバル(イエアス)にまでなりふり構わず頼みちらかしたことも
別の意味で納得がいく。


さて、次の天下人となったイエアスさん。
諸方面での政権の地盤を固めつつ、秀吉の轍を踏まず徳川の世を
末長く存続させるためにはどうしたらいいか考えた。

何しろ、健康オタクの甲斐あってまだピンピンしてるものの、
征夷大将軍に任じられた時点で57歳。
世間的にはそろそろ老齢に差しかかる頃。

対して、秀頼はまだこの時幼いものの、火種を抱えてのスタートでもあるし、
この先、豊臣恩雇の武将たちがこぞって秀頼に走る可能性もある。

まず家康は2年で征夷大将軍の座を秀忠に譲り、
自身は大御所として引き続き駿河で指揮にあたった。
これにより、政権を譲る意志はないこと、
徳川の子孫が天下人となることを表明した。

そして様々なお触れを出したりして天下を整えていく訳だけど、
家康が征夷大将軍になってから大坂冬の陣までが13年。
自分は日に日に年老いていくのに、秀頼は立派な青年に成長した。
財力もかなりある。

天下を治めるには色々やることがあるし、
秀頼は大きくなってきて徳川の行く末が気になるし、ああ忙しい
そんな中で、論議三昧?


可能性のひとつとしては、「死」を現実のものとして感じる年になったので、
来世の幸福を考え始めたということも考えられる。

それにしたって、回数多すぎね?

それに、往生を考えるなら浄土宗で充分じゃね?
松平時代から、徳川家は浄土宗。
どんな人も、「なんまんだ~」の念仏さえ唱えてれば
阿弥陀様の極楽浄土への切符を手にできるのだ。
浄土宗はその手軽さ、わかりやすさがウケたのだ。



先日(2014年1月)の旅で、とある浄土宗大本山の朝の法要に出仕いたしました。
わたくし。

その内容については上野編の次シリーズで紹介しますが、
長いお経の中で何度も「なんまんだ~」が出てきた。

その後で法話があったんだけど、結局のところ、
弥陀の慈悲におすがりすれば来世の幸運が約束される、という内容だった(と思う)。

法話の内容をバカにするつもりは毛頭ありませんが、
正直言って世間にもまれた現代人にはその教えを丸ごと受け入れるのはキツイな、と思った。

そう思いながら法話を聞いていて、やっぱり家康の御前論議は
死後の幸福だけを願ったものじゃないな、と感じた。

だからと言って、そういう意図が皆無だったとは言いませんよ。

三河の小せがれは、今川家での人質時代から出発して
死の前年まで数多くの戦陣に立ってきた。
その中には恐怖のあまり馬上でウンコもらしたとか愉快なエピソードもあるし、
大坂の陣で家康が使ったとされる網代の駕籠は今も日光東照宮の宝物館で
見ることができる。

そうした人生を振り返って、罪業消滅を願う気持ちもあったかもしれない。

それから、『神君家康の誕生』によると、
僧侶の管理・統制や寺院勢力への干渉が論議の目的だったと
従来から言われていたそうで、これもまたひとつの側面ではあるだろう。
この中には、人材の発掘という点を加えてもいいかもしれない。

何しろ、参加する僧の立場からすれば論議は自分の学識を披露する絶好のチャンス。
あの良源さんも、論議法要でその知力を存分に発揮し
周囲にその才能を認められたそうなのだ。


しかし、ここまで上げたいくつかだけを理由とするには、
家康の論議にはちと偏りがある気がする。

『神君家康の誕生』の中で著者の曽根原理氏がカウントした、
慶長16年(1611)から元和元年(1615)までの御前論議の内訳を見てみましょう。

 ・真言・・・35
 ・新義真言・・・17
 ・天台(山門)・・・48
 ・天台(寺門)・・・6
 ・法相・・・7
 ・華厳・・・6
 ・不明・・・2

この他にも、浄土宗や臨済・曹洞などもあったらしいが、
上の数を合計するとなんと121回。
月に2回ぐらいは論議を開催してる計算になる。

『寛永寺』では約120回の論議のうち、約90回が天台論議だとしていて、
上の数とはだいぶ食い違いもあるけど、元にした史料の違いなのかもしれない。

まあ、合算しちゃうと真言系(真言+新義真言)は52回、
天台系(山門+寺門)は54回でほぼ同数とも言えるけど、
はたして山門(延暦寺)と寺門(園城寺)を一緒にしていいものか疑問もあるしな。

現実問題としては、権力者があまり一つの宗派に入れ込むのも良くないし、
見方によってはそこそこ広く論議を開催してるとも言える。
が、単品で見ると山門は単独で半分近くを占める。
やはり、天台への関心は高かったと見ていいのだろう。


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最終更新日  2014年07月29日 20時59分33秒


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