戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年02月14日
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カテゴリ: 上野と寛永寺
あ~、マタいてえ・・・

のっけからすみません。
今日は雪の中、人間ドックだったんです。

去年のドック は色々つらい思いをしまして、
今年はバリウムを胃カメラに変えたんですが、
ある程度の本格的な検査となるとそれなりに身体に負担がかかることは変わりません。

胃にポリープがあるのは以前からだったけど、
さすがに直接胃の中を覗くと色々わかるもので、
一気にあらたな病名を3つ言われました(笑)。

自分のポリープの写真、面白かったなあ

で、冒頭の下品な発言は婦人科検診によるもので、
なるべく力を入れないようにしたのにまたもや痛かった。
婦人科検診を終えたと思われた女性たちはみんな変な歩き方をしていたので、
今日のドクターはヘタクソだったんだと思います

すべての検査が終わって食事をしていた間も、マタは痛いわ
胃カメラの前に飲んだ薬のせいかお腹にガスは溜まるわ
心なしかみぞおちの辺りも痛くてテンション最低でご飯を食べていたのに、
隣の女性2人はドック終わりたてで昼間っからビールを2本飲んで
盛んにおしゃべりをしている・・・
人間、色々です。




この辺りの話は『神君家康の誕生』(曽根原理/吉川弘文館)を
主な参考文献としてますので、詳しくお知りになりたい方はそちらをご覧ください。
ここではかいつまんで紹介していきます。


各宗派の論議の中で最も多く開かれたのが、天台。
天台論議とはどのようなものであったのか?



  論議の場で自宗教学の優越を示すのは避けられない課題であったため、良源
  (911-985)以降、天台宗では論議を盛んに行った。大小さまざまな
  法会の場での論議が重視される中で、論題の整備も進められた。

  天台宗の論題は大きく三つのカテゴリーに編成される。それぞれのカテゴリーは、
  さらに分類され数百の論題に整理された。

  この世の中が空であることを、すべては虚しいと解釈し、ともすれば厭世的になる
  傾向は、仏者にとって望ましいものではなかった。そこから、この世の中にこそ
  真実を見出し、前向きに生きるべきと説く思潮が発生し展開した。

  そうした中で、人間おのおのには本来真実が備わっていると説く思想が生まれた。
  煩悩を無くしたところに悟りはなく、煩悩の中にこそ悟りがある(「煩悩即菩薩」)
  といった主張はその典型である。】
  (『神君家康の誕生』より抜粋)


「上野第二編(14)」 などで天海の現実主義的側面を、
やはり『神君家康の誕生』を参考に紹介してますが、
上の文章によると天台宗そのものも現実肯定の考え方があったようですね。

そして、よりによって大坂の陣の前後に多く天台論議が開催されていることから、
この時期にこそ御前論議の必要性があったのだろうと曽根原氏は語る。


戦国武将には実にマルチな人が多いけど、
さすがに仏教にまで関心や知識が高かった人はそういないらしい。
そう言われると、大内義隆の特異性が鮮やかに浮き彫りにされてくるんだけど、
ちょっと大内氏のことはここでは我慢しましょう(笑)。

で、数多くの論議を開いた家康さんはというと、
論議のテーマを自ら指定するなど積極的に論議の運営にも関与しており、
他の武将とは違って仏教への関心が高かったらしい。

 【天台論議の論題には、罪悪や救済、成仏に関するものが多く見られる。単なる経典解釈に
  とどまらない、実戦と関わる内容が扱われている。さらに別の論題の中には、
  「君臣の関係は一生のみか、それとも生まれ変わっても変わらないのか」といった、
  およそ仏教とは縁遠く、武家の立場でしか考えられないような題も扱われていた。】
  (『神君家康の誕生』より抜粋)


こういう現実的なお悩みに現実的な対応ができる要素を天台宗が持っていたので、
家康は好んで天台論議を開いたのだろうと曽根原氏は語る。
が、加えて論議の中心になったのが天海だったからこそ、
天台論議が家康のハートをわしづかみにしたんじゃないかと私は思う。


あ、途中で言うなって感じですが
ここでの歴バナは東照宮のことに加え、これまでの上野編の歴バナの
総まとめ的な意味もあります。

が、やはり天海は「謎の怪僧」と呼ばれるにふさわしく、
まだ理解できないことも多いし、色々な面から考える必要があるので、
現時点では性急に答えを出そうとは思っていません。

ので、広島の旅の記事でも多くそうしてきたように、
ここまで読んだものや考えたことを書き留めておくぐらいの位置付けで
中途半端な内容もあると思いますがそこはご了承ください。



え~、それで天海。

曽根原氏がカウントした御前論議は慶長16年(1611)から始まってるけど、
16年・17年は真言宗のみで天台論議が顔を出すのは慶長18年(1613)。

慶長12年(1607)の家康との出会い以降、
天海は叡山で地位をゲットし、川越喜多院および関東天台を統轄する立場となり、
慶長18年には日光を任されるところまで来た。

わずかな期間にどんどこ出世をしていることからして、
かなり家康に気に入られ、信頼された様子がわかる。


歴史ファンの書くものの中では、天海は「黒衣の宰相」と紹介されることが多い。
しかし、天海が政治に重きをなすようになるのは家康の死後らしい
(『江戸時代初期の朝幕周旋について』/安藤良平)。

えっ、そうなの!?と意外に思ったんだけど、
実は「黒衣の宰相」とは金地院崇伝(こんちいん・すうでん)の異名でもある。

前回、家康の遺言の場面を再掲しましたが、
天海・本多正純とともに家康の枕頭に召された3人のうちの1人が崇伝さんです。

崇伝と天海は年も全然違うけど、経歴も全く違う。
以下、大きなことだけを紹介すると


 ・慶長10年(1605)
  崇伝:36歳で京都五山派トップ南禅寺の住持となり、慶長15年まで勤める。
  天海:長沼宗光寺に在籍。

 ・慶長12年(1607)
  天海:家康との対面。叡山に登る。

 ・慶長13年(1608)
  崇伝:家康より駿府に迎えられ、外交往復文書担当となる。

 ・慶長14年(1609)
  天海:叡山の復興に関わる。探題執行となり、のち朝廷より権僧正に任じられる。

 ・慶長15年(1610)
  崇伝:家康から駿府に土地が与えられ、金地院を建てて常駐。家康の書記となる。

 ・慶長17年(1612)
  崇伝:板倉勝重とともに寺院行政(のちの寺社奉行の職務に相当)を担当。
  天海:無量寿寺北院の再建に着手し、喜多院へとあらためて関東天台の本山とする。

 ・慶長18年(1613)
  崇伝:家康の命により一晩で「伴天連追放令」を起草。
  天海:日光山貫主を拝命。

 ・慶長19年(1614)
  方広寺鐘銘事件起こる。
  天海:家康の命により上洛して後陽成院と後水尾天皇の仲裁にあたる。朝廷から家康へ
     名香が下賜された際、お使いの役にあたる。

 ・元和元年(1615)
  崇伝:秀忠の命により「武家諸法度」を起草。禁中并公家中諸法度も起草したとされる。
     寺院法度でもその任にあたる。
  天海:後水尾天皇と女院の調停にあたる。


崇伝という人は、大変に頭の切れる人であったらしい。
若くして南禅寺のトップに着いた後、先輩の後を受けて初めから家康の側近く仕え、
その才能が認められてわずか数年後には徳川幕府の重要な法令の起草をするなど、
大寺の高僧と呼ぶにふさわしい活躍をしている。

対する天海は、家康に出会う前の71年間に比べたら
確かに短い期間に出世はしている。
が、崇伝のように政権の運営に直接関わったというよりは、
天台への干渉と朝廷との調停・・・あ、ヤバい
とにかく、嫌な言葉を使えば外部対策の手駒のような立場とも言える。

そう考えると、「黒衣の宰相」の名は崇伝にこそふさわしい。
なら、なぜ家康は天海の論議に魅かれたのか?


上記リンク先で、家康の晩年に出会ったからこそ天海は重用されたんじゃないかと思う、
と書きましたが、それがここにかかってきます。

天海は家康よりも年上で、70年以上生きてきた。
実のところ、他の高僧と言われる人達に比べて
天海がどれほどの学識を有していたのかはわからないけど、
学識もさることながら、長い人生で培ってきた天海の柔軟さや現実的な面を
論議でいかんなく発揮したんじゃないだろうか。

2人の出会った慶長12年は、天海:71歳、家康:64歳。
崇伝は38歳。

天台論議が盛んになり始めた慶長18年は家康は70歳で、
自分の死と豊臣家の処遇を含めた徳川の行く末が気にかかって
しょうがなかったかもしれない。
そういう心のすき間を埋めたのが、人生経験豊富な天海だったんじゃないのか?


天海は家康と出会うまで、大きな歴史の上では田舎者の無名の僧だった。
後水尾天皇なんかは、天海のことを「天海者凡僧也、田舎之老也」とこきおろしている。
ここには個人的感情も含まれているけど、これが当時の貴人にとっての天海だったろうと
ものすごく納得できるのだ。

そして、論議を通して家康は天海に魅かれ、
天海から個人的に天台の教義を受けるまでになる。


『神君家康の誕生』での論議の項目は、次のように締めくくられる。

 【家康が関与した結果、論議の場は単なる経典解釈ではなく、いかに生きるべきかが
  問われる場所となった。(中略)家康にとって、自らが理想的な秩序を作り上げる
  ことは、自己の来世と子孫や徳川家中の将来に対する最大の貢献と考えられたのでは
  ないだろうか。家康が目指したものは、自己の救済・成仏とともに、子孫繁栄・
  政権永続であり、論議はそのための功徳を積む場であったと考えてみたいのである。

  万事多難の時期、あえて論議を行った家康の意図は、そう考えた時はじめて無理なく
  理解されるように思われる。(中略)家康の意識の中で、神格化の選択肢が
  大きな部分を占めてきたことを示す事件だったといえよう。】


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最終更新日  2014年07月29日 20時59分18秒


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