戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年02月14日
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カテゴリ: 上野と寛永寺
いやあ~、また積もっちゃいましたね~。

先週の雪かきの際、隣のダンナが自分ちの雪をうちの前に捨ててった疑惑があり、
それを聞いたうちのオヤジが怒って「今度は雪かきは俺はやらないよ」とか
おかしな事を言い始めて、頭のおかしいのは伝染するのか・・・と
げんなりしたんですが、その言葉通り今日は何もする気配がなかった。

ので、腰の弱い母親とこれまた腰の強くないかよわいジジイ(わたくし)が
雪かきをしたんですが、雪が雨に変わったおかげで少し雪は減っていたものの、
水分を含んで重い
チョ~疲れました。


道々雪かきをしている人達を見ていたら、結構、ケッコーな人が多かった。

私の感覚だと、せめて道の手前側半分くらいは自分ちに寄せるべきかと思うんだけど、
すべての雪をお向かいの家に寄せてる人も結構いたのだ。
それどころか、小道に入ったところに家のある人が
わざわざ表通りまで雪を捨てに来ているのも見た。

過去には雪かきが原因で殺人事件まであったそうだし、
こーゆー時に人柄とか色々出てくるもんなんだな~と思いました。

娘さん(大)の方は、散歩ではわざわざ雪の上を歩いてたので楽しんだらしいけど、
(小)の方は家の近くまで来て全く雪かきしてない場所の前で立ち止まってしまったので、
抱っこして帰りました。
(小)は薄毛で寒がりなので、しょうがないよね。




さてと慶長19年(1614)、再建された方広寺へ奉納する鐘の銘に難があると
家康が豊臣秀頼にいちゃもんを付けた、いわゆる「方広寺鐘銘事件」が起こる。

これは豊臣家を何としてもつぶしておきたかった家康の意を受けて
崇伝が献策したものというのが有名な話だけど、
ウィキペディアによると家康は五山の僧や林羅山に鐘銘文を解読させており、


「いや、これマズイっしょ~」

と回答したので、家康のこじつけとは言えないし、
崇伝の直接の関与も史料の上からは見られないとしている。

確かに、鐘の銘文を作ったのは南禅寺の僧だから、
家康のブレーンとして活躍する一方で自らの属する臨済(とくに南禅寺)の
地位を高める活動も行っていた崇伝が、同じ南禅寺の僧の発案に対して
難癖つけるようなことするかな~って気はするんだよね。

ま、事実はどうであれ、チャンスをつかんだ家康は
狙い通り豊臣家、および関ヶ原での敗者群を一掃することに成功した。


その翌年早々、家康発病。
その辺のことは 「上野第一編(4)」 で書いてますが、
死が目前に迫った元和2年(1616)4月2日、
本多正純・崇伝・天海を呼んで例の遺言を託す。

これは崇伝の日記『本光国師日記』に書かれているもので、
これによって神へ祀られることは家康自身の考えだったということがわかるのだけど、
なんかしっくり来ない部分もある。

まず、『徳川家康の葬儀と天海の役割』の中で浦井正明氏は

 【ところで、この遺言の席に、家康の側近中の側近である正純と崇伝が呼ばれたのは
  ごく当然のこととして、なぜ、すでに江戸における菩提寺として確定していた
  浄土宗の増上寺(遺言では葬儀も担当するはず)の住職存応が呼ばれないで、代って
  一見何の関係もなさそうな天台宗の南光坊天海が呼ばれたのかということも
  大きな疑問の一つである。そして、その理由は、やがて家康の神号問題が表面化
  した時に明らかになってくるのである。】

とする。

なるほど、確かにここは源誉存応(げんよぞんのう)を呼ぶべきだよな~。
で、どう明らかになってくるのかと思いきや、
どうも『徳川家康の葬儀と天海の役割』の中でははっきりと書いてくれてない
しょうがねえ、自分で考えるか・・・(←他力本願)


んじゃ、まずは「家康の神号問題」から。
一般的には次のように言われます。


家康の遺骸はその夜のうちに久能山に運ばれ、祭祀は梵舜が取り仕切り、
  吉田神道方式で「明神」として祀られる方向で進められた。
  ところが天海がこれに異議を唱え、秀忠の御前で崇伝・正純VS.天海の大論争となった。
  結局、天海が勝利し遺骸は久能山から日光へ移され、天海の主張する「権現」号で
  祀られることとなった。



最初は私も、もちろんこの有名な説から入ってます。
しかし、色々読んで考える中で「なんかこれ、変じゃね!?」って思う部分が出てきた。
少し長くなるかもしれませんが、ひとつひとつ見ていきましょうかね。


が、本題に入る前に、ちょっと前フリを書く必要があります。 

まず、梵舜(ぼんしゅん)。
「神辺城(8)」 で大内義隆が吉田兼右から神道を学んでいる話を紹介しましたが、
梵舜はこの兼右の子。
吉田兼見の弟になります。
つまり、吉田神道を司る吉田家の出身で、
吉田家の次男は氏寺である神龍院へ入る習わしがあり、梵舜も神龍院の住職となります。

兼見と梵舜は秀吉が亡くなった際には豊国廟の建設で活躍し、
梵舜は豊国廟の社僧に、ついで秀吉を祀る豊国神社の別当となった人です。


豊国神社2
      (大阪・豊国神社)


豊国神社・秀吉像
      (豊国神社に立つ秀吉像) 



日本には古くから「言霊」の思想があり、「ケガレ」を嫌ったという話は
誰もがご存知のことと思います。

物語なんかでは、公家が出勤する途中、道端に犬の死体なんか転がってた日にゃあ、

「きゃあああ・・・
もっ、物忌み!
今日は休みっっ!!」


てそのまま引き返したことが書かれていて、私が同じように鳥の死骸なんかに出くわすと

「あ~、物忌み・・・
昔は良かったよなあ」


と思いながらそのまま出勤する訳ですが、
「死穢」は特に嫌われた様子がわかります。

物忌みなんて羨ましい制度がとっくに死滅した現代でさえ、
葬式から帰ってくると「清めの塩」をまくしね。
普段意識することはなくても、遠い昔から引き継がれた風習や考え方が
現代にもひそかに息づいているというのは結構あるもんです。


 【仏教は、死穢を解消するために活用された側面を持っていた。
  清浄を重視する神道は、もっともケガレを忌む宗教である。神は死穢に触れると祟ると
  観念され、神職はケガレに接触しないよう細心の注意を払った。】
  (『神君家康の誕生』より)


しかし、注意を払うったって、神職だって人の子。
一族から死者も当然出る。
そしたら、どうするのか?

『神君家康の誕生』には上の文章に続けて、梵舜の先祖である吉田兼煕
(かねひろ:1348~1402)の葬礼を紹介している。
かいつまんで流れを書きますと、


正月に発病した兼煕は、後生を思い4月26日に出家した。
   5月3日臨終の日、病床には僧侶と吉田家の面々、家来などが控えていた。まさに
   臨終かと思えた時、その瞬間を見ることのないよう吉田家で神職を務める者たちは
   庭へ降りていった。兼煕は5回、6回と念仏を唱え安らかに往生を遂げたようだが、
   庭へ降りた者はその様子はわからず、ただ念仏の声がかすかに聞こえたことで
   その死を知るに留まった。

   兼煕の遺体は板輿に乗せ人夫が担いで寺へ運んだが、神職を務める者たちは
   地上にうずくまり、輿を見ることはなかった。一族で神職でなかった兼之は、
   僧侶とともに板輿に手をかけて遺骸を寺まで運んだ。葬礼は仏式で行われ、
   一族で神職の者たちは一切関与しなかった。


てってーしてる
神道とは元々こういうものだったという、実に興味深い例です。


神職は故人の祭祀には立ち会えない・・・
この課題を克服したのが、兼煕の4代あとの兼倶(かねとも)。
兼倶の生み出した思想などにより、中世末期以降の神の観念が変わったという。


 【彼が創始した新しい神道では、遺骸の上に「霊社」と称する社檀を作り、
  僧侶を排除した神道式葬送を行い、死者を神として祀るようになった。(中略)
  しかし中世までの通常の観念では、神とは人間とは別の、祈りを捧げる対象であった。

  神を人間(の心)と一体視するのは、仏教(密教)思想に淵源を持ち、兼倶以前の
  神道思想にも全く見られないことではなかったが、それを前面に押し出して
  新たな祭祀形態を作り上げたところに、兼倶の独自性があった。

  兼倶は文明19年(1478)以降、死者の霊に対し「大明神」号を授与するように
  なった。さらに、兼倶の孫の兼右(1516~73)は、遺言で指示をし、葬送を
  子息の兼見(1535~1610)らによって執行させた。僧侶は一人も関わらなかった。

  (中略)吉田家当主たちは、死後「○○霊社」として神に祀られ、家の守護神となった。
  死者はケガレでなくなり、人を神に祀ることが始まったのである。】
  (『神君家康の誕生』より)


兼倶の創始した新しい神道の流派が、いわゆる「吉田神道」。
室町期には伊勢神道が落ち目だったこともあって、吉田神道が全体の中で優位に立ち、
とくにタブーを克服したことで、「死者を祀るなら吉田神道」と認知されるまでに至った。


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最終更新日  2014年07月29日 20時58分48秒


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