戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年02月16日
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カテゴリ: 上野と寛永寺
前フリその2。

「織田信長は神になろうとした」とはよく言われるところですが、
『信長公記』の中では鬼柴田に対し、

「とにかく私を崇めろ!
絶対足なんか向けて寝るんじゃねーぞ!!」


と言ったというエピソードがあるし、あと神社だか門だかの上に石を置いて

「これを私と思って敬え」

と参拝させたとか言われますね。


この話自体が事実かどうかはわからないけど、近年では様々な方面からのアプローチにより、

 【当時の大名が死後時を隔てず祀られた例は、すでに識者の指摘がある。戦国時代に
  大名を「菩薩の分身」「氏神」などと見なした例も存在することから、信長の場合も
  こうした「超越的絶対者」への志向に連なるものとして論じられている。


  する傾向(「人神化」)に連動する形で信長の神格化を把握する説も提出されている。
  (中略)権力者の神格化は当時にあって決して異様な現象ではなかったというのである。

  信長の神格化については根拠となる資料に難点があり、彼が本能寺で志半ばに斃れた
  こともあって、正確な把握が困難である。(中略)しかし近年は、当時流行の
  諸教一致説(仏教・儒教・道教・神道等を究極的に一致するものと見なす考え方)
  に基づき、個別宗派のカミを超越した絶対的神格を求めた動きとして考えられる
  傾向にある。(中略)信長自身の意図としては、神格化の動きを認める方向で議論されて
  きている。】
  (『神君家康の誕生』より。中略の他に一部省略した箇所あり)


なんだそうな。

なるほどね。

決定的な違いがある。

権力者が神や仏とされるのは、本人が死んでから。
みんな周囲に祀られて、死後にバージョンアップしているのだ。
例外は天皇家や本願寺だけど、これはこれで「誰々の子孫」という条件が付いている。

最初に挙げたエピソードが事実ではないにしても、


だとすると、血筋に頼らず、一代で権力を築いた生身の人間が、
生前に神、もしくは超越的絶対者となる意志を持っていたと言うことができる。
これはある意味画期的で、別の立場の者からすれば脅威でもあったろう。




信長様が生前に神となる意志を持っていた可能性は、
2番手である秀吉の動向からも窺えるように思える。

秀吉の施策は、すべてが信長のコピーじゃない。
が、そのエッセンスの多くは元主君・信長から学び取り、
秀吉独自の方法で展開させていったように私は思っている。

『神君家康の誕生』を読むまで私は知らなかったんだけど、

 【<慶長4年>正月時点での梵舜の日記には、神号はただ「大仏」の「鎮守」とのみ
  記されていた。東大寺大仏の鎮守は、神仏習合の先駆けである八幡大菩薩
  (手向山八幡)であった。

  それに倣ってか、やがて秀吉も「新八幡」と呼ばれた。この神号が秀吉本人の遺志で
  あったことは、キリスト教宣教師だけでなく日本側の記録にも記されており、
  事実であろう。そして宣教師の記録では、神号の意図は八幡=軍神だから、と
  書かれている。】
  (<>内は戦国ジジイが追加)

だそうな。


しかし、何でまたこうも次から次へと神になりたがるのか・・・
権力者の傲慢?


「上野第二編(44)」 で

 【当時、巷には「天下は回り持ち」という考え方から、天下人の子の世襲を
  認めない風習がありました。】
  (『お江と徳川秀忠101の謎』より)

という話を紹介しましたが、これって結局、「天道思想」のことを言ってるのか、と
記事を書いた直後に気が付きました。

「天道」は仏教の用語に由来するものだそうで、のちに儒教や道徳的観念もプラスされ、
「天の意志に叶った者がそれにふさわしい結果を与えられる」とか
「徳のある者に天下の支配が許される」とかいう風に発展していき、
中国の革命なんかも天道思想があったから思い切りよく前政権を打倒したりできた。

日本の戦国時代は中国の革命ほどドライではなくても、
やはりこの思想に支えられて下剋上を是とした。
簒奪者を罪の意識から救う宗教と言ってもいいのかもしれない。

しかし、一方で「天」は無慈悲。
徳のある者が徳のない者を滅ぼすことを許したように、
自分にも徳がなくなれば他の徳のある者に滅ぼされる、というのが天道。

自己の政権、あるいはのちの子孫に至るまでそれを維持するには
どうしたらよいのか・・・


 【天道は、新たな秩序を作りだす上で有効性を持ったが、それを固定化するには
  向かなかった。そのため、天道に代わる新たな人格神が求められた。政治権力者の
  神格化が始まった必然性はそこにあった。

  そこで求められたのは、権力者の子孫永続を擁護する存在である。天道思想が理念
  (道徳性など)を為政者の要件としたのに対し、血統を用件とする新たな人格神が
  必要とされた。】
  (『神君家康の誕生』より)



梵舜と吉田神道について前回紹介しましたが、
秀吉の政権と吉田神道は密接な関係があったらしい。
ゆえに秀吉の葬送に関しては吉田家と梵舜が主導権を握ったようだけど、
梵舜の日記によって秀吉の死から神になるまでの経緯が詳しくわかっている。

具体的な流れを見ていきましょう。
慶長3年(1598)からスタートします。


8月18日、秀吉死去。慶長の役の最中でもあり、その死は伏せられた。夜になって遺骸は
       伏見城から運び出され、ひそかに京都東山・阿弥陀ヶ峰に運ばれた。

8月22日、「大仏供養」と称して阿弥陀ヶ峰の麓にある方広寺で葬儀が行われる。

9月6日、「方広寺大仏殿の鎮守社建築」と称して廟の建設が始められる。

12月10日、島津隊が遠征から帰国し、撤兵完了。

12月18日、諸大名が阿弥陀ヶ峰に集められる。翌日からは秀吉を「神に祝う」ための
        動きが見られるため、この頃神格化の発表があったものと思われる。

4月16日、朝廷から「豊国乃大明神」(とよくにのだいみょうじん)の号が宣旨される。
(慶長4年)
4月18日、正遷宮が行われ、「豊国神社」とされた。



少し上の箇所で、秀吉自身は「八幡大菩薩」として祀って欲しかったと紹介しましたが、
結局は「豊国大明神」という神になった。

 【『当代記』に神号変更の理由を「大菩薩はいかが有るべし」(大菩薩と号するのは
  いかがなものか)と、仏教風の呼称を忌避したような記事があるのを知れば、
  変更の意図に興味が湧く。遷宮に前後して神号を変更した当事者は、吉田一族の
  梵舜であるはずだからである。この変更は、吉田家側の影響力を示すのではなかったか。】
  (『神君家康の誕生』より)


つまりは故人の遺志に反した形で祀られることになった訳だけど、
吉田家のプッシュによりこういう結果になったということは充分考えられる。
この辺り、覚えておいて下さいね。


豊国神社2
      (京都・豊国神社)


豊国神社3
      (京都・豊国神社)


ここにある国宝の唐門は、二条城にあったものを崇伝が幕府から譲り受けて金地院に置き、
それをさらに移築したという実に見事なものですが、その写真はありません。

ここへ行ったのは2010年の1月。
まずよく見てから写真を撮ろうと思っていたら、豊国神社で結婚式があって、
その記念写真を唐門の前で撮るからどけって言われちゃってさ~。

「これを見にわざわざ来てるんだぞ!
観光で食ってる町がそーゆー態度でいいのか!!」


・・・と非常に気分を害した、苦い思い出があります。
だからこういう場所でのイベントは嫌いだし、
観光名所でもある寺社でのブライダルはぶっちゃけ観光客には迷惑なので、
これまた嫌いです。


と、それはともかく、秀吉の廟の置かれた阿弥陀ヶ峰は
現在の豊国神社から東へしばらく行った場所にあります。

豊臣家の安泰を願って吉田神道方式で大明神となった秀吉さんですが、
その神威はいかに?


元和元年(1615)、大坂の陣により豊臣家滅亡。
ウィナー・家康はその直後から動いた。

梵舜は豊国神社の社領の安堵を願い出るが、家康は寺社の統轄にあたっていた
板倉勝重・崇伝、それから天海と相談の上、豊国神社の破却を決定。
神官の知行や社領は没収、方広寺大仏殿の住職はよそへ移された。
代わって天台宗妙法院常胤が方広寺大仏殿の住職となった。

神号は後水尾天皇の勅許を得て剥奪された。
「社殿は荒れるがままに、どうかそのままにしておいて欲しい」という
秀吉夫人・おねの願いを受け入れ、一部の存続が許されたが、次第に朽ちていった。
旧参道には別の神社が建てられ、妙法院常胤が神社への道を閉ざした。
また、全国20ヵ所ほどに勧請されていた分社も破却された。

夭折した秀吉の長男(捨丸)の菩提寺・祥雲寺は智積院へお下げ渡しとなり、
祥雲寺住職は捨丸の遺骨を持って妙心寺に移ったとされる。

秀吉の霊は「国泰院俊山雲龍大居士」と変えられ、仏式で祀ることになった。
御神体は梵舜がひそかに持ち出して、自宅に隠していたとの話もある。
現在は「馬塚」と呼ばれる五輪塔に祀られている・・・




秀吉の一周忌の際に秀頼が納めた方広寺大仏殿再建の願文には、
豊国大明神の加護を祈る言葉が含まれていたという。

しかし、秀吉大明神は子を守れなかったし、
それどころか生前のライバルによって自身の神号さえ剥奪され、
神社は徹底的な破却の憂き目にあった。


 【秀吉の試みは、家康に大きな教訓を残した。強力な守護神となれず、孤立して滅びていく
  神の姿を、家康は間近に見た。(中略)神の子孫とされた天皇は、神号や神階を
  コントロールする。秀吉神を「豊国大明神」と名付け、「正一位」を与えたのは
  朝廷であり天皇だった。だが、天皇家の神もその他の神々も、秀吉神を助けなかった。
  新たな神は、従来の神々を越えた力が必要であることを、家康は意識せざるを得なかった
  だろう。】
  (『神君家康の誕生』より)


次はいよいよ、3番手の登場です。


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最終更新日  2014年07月29日 20時59分03秒


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