戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年02月17日
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カテゴリ: 上野と寛永寺
基本的に、歴史を見る上でわたくしは
精神世界というのは無視できない事柄だと思っています。
歴史ファンの書いたものを読んでいても、精神世界を軽く見ている方の文章というのは
どうも薄っぺらいもののように感じてしまいます。

ただ、特に天海の周辺などは、たとえば江戸の町を風水で造り上げたとか
日光遷座なども風水によるものだとか色々言われますが、
江戸の初期については現実的な面がほとんどだろうと思ってます。

風水とか精神世界だけに浸りきる・・・というか、それだけで説明しようとすると
逆にこれまた薄っぺらいものに感じてしまって、

違和感がありすぎて(笑)途中でやめました。

ここ数回の記事では『神君家康の誕生』(曽根原理著)から多く引用させて頂いてますが、
これも見方によっては精神世界の文章が多いものの、
異様なまでの回数の御前論議とか、家康以外の徳川将軍は神になっていないことなどの
様々な疑問について対応できるだけの素地を備えている本だと思っていますので、
本文を多く引用させて頂いております。



さて、3番手・家康さんに移ります。

トップバッター・信長が神になる意図を持っていたかの確証はありませんが、
安土城の造りを見ても宗教の融合の意志も感じられるし、
生前の神志望者第一号としても差し支えはないものと個人的には考えます。
ただ、完成に至る前に滅ぼされてしまった。


家康が自ら滅ぼした。
前の2人、特に秀吉の二の舞を演じないためにはどうしたらよいのか。

ここからは前々回の家康神格化の通説も押さえながら、
皆様もご一緒にお考えください。



元和2年(1616)4月2日、家康は本多正純・崇伝・天海を呼んで


4月15日、梵舜は秀忠に駿府城に呼ばれ、「神道仏法両義」について諮問を受ける。
崇伝の日記によると、この日の内容は事実上、葬儀の作法についてだという。
梵舜は崇伝を通じて呼ばれたので、崇伝もその場に同席してたって事だろうな。

4月16日、秀忠は家康の葬儀を神式で行うこと、久能山へ祀ることを正式に発表。
4月17日、家康死去。


『徳川家康の葬儀と天海の役割』の中で浦井正明氏は

 【常識的に考えると、まだ死んでもいない家康の葬儀について、こうも手際よく
  段取りが進められていること自体にも、大きな疑問の余地があると言わざるをえない。】

とヒントを与えているものの、ここでもその回答は割愛されているので、
これも自分で考えなきゃならない・・・

冗談ヌキで、書きながら考えてる部分も多いので、
書いてるうちに考えが変わる可能性もありますが、
単純に考えられることとしては、「死者を祀るなら吉田神道」という認識があるように、
神式なら他に選択肢がない。

そして、葬儀について諮問を受けたのは吉田家出身の梵舜であり、
実力者・崇伝も同席している。
崇伝と梵舜は仲良しだったって言われるんだよね。
ついでに言うと崇伝と本多正純も仲良しだったと言われるんだけど、そうであれば

「う~ん、崇伝。
そ、葬儀のことなんだけどさ・・・」


「あ、そうですね。
じゃあ、梵舜呼びますよ」


そうだね・・・」


て崇伝が秀忠に梵舜をプッシュした可能性だってある。

梵舜の側でも、先代の天下人・秀吉の葬儀から祭祀まで深く関わった実績があり、
吉田家ではお呼びがかかるのを今か今かと待っていたかもしれない。

何しろ、将軍の霊廟や祭祀を管理するとなれば、幕府からの援助はもちろんのこと
吉田家にもハクが付いて世間からも尊崇され、売上だって伸びる。
現に、日光は今や「世界のNIKKO」だし、菩提寺となった寛永寺や増上寺の
江戸期の地位は大変なものだった。
ここは吉田家にとっても正念場と言える。

故人の祭祀については、吉田家は業界NO.1。
あとは神式とするか仏式になるかの問題があるけど、
これはあるいは4月2日の遺言を受けた崇伝から

「どうやら神式になりそうだぞ。
頑張れよ!」


ってリークされていたかもしれない。

その辺りはわたくしの平凡な推測ですが、家康自身に神になる意志があったのなら
当然神式での祭祀になるし、神式であれば他の選択肢はないから、
迷いがなかった可能性はある。
ただ、ちょっとおかしいと思う部分もあるけど。


家康が死んだのは、4月17日の午前10時頃だったという。
死はすぐには公表されなかった。
その日の夜、雨の中をついて遺骸を久能城まで運び上げた。
お伴は本多正純を含めた重臣数名、それに崇伝、梵舜、天海のわずかな者のみ。

久能山へはまだ行ったことがありませんが、TVでなら観たことがある。
なんかすごい所にあるよね、アレ。
浦井氏によると、1,156段もあるそうな。
真夜中・雨の中・急な坂道と三拍子揃った悪条件の中をなんでわざわざ運んだのか・・・
家康の神格化にあたってそれは必要な要件だったのだと、浦井氏は語る。


 【秀忠や幕府の首脳部にとっては、ただ一つ、一体いかにしたら、家康を類い稀れな
  偉大な神に祀ることができるのかということだけが当面の課題だった訳である。

  そのためには、家康の遺骸はなるべく早急に人目から隔離しなくてはならないのである。
  家康の神格化がすみやかに行われる為には、遺骸の状態で置かれることははなはだ
  具合が悪いのである。家康はその死の瞬間を以て、直ちに類い稀れな偉大な神に
  昇化しなければならないのである。両者の間に繋ぎの時間が存在することは絶対に
  避けなければならないのである。

  と言うのは、繋ぎの時間が存在することによって、家康はその死を以て直ちに神と
  なったということにならなくなり、一度その死が確認された家康を、また改めて神に  
  祀ることになって、家康=神という一体感がひどく薄れてしまうからである。
  従って、家康の生身の遺骸が一般大名などの目に晒されることは、絶対にあっては
  ならないのである。】
  (『徳川家康の葬儀と天海の役割』より)


そういう意図があったために、死の発表後も諸大名からの香典の類は
一切受け付けなかったそうで、そうした点も含めて浦井氏の説については
『神君家康の誕生』の曽根原氏も支持しておられるし、
私も基本的にはこの説を基に考えを進めている。


ちなみに、冒頭で途中で読むのをやめた本があると書きましたが、
その本、『魔都江戸の都市計画』(内藤正敏著)だとこういう表現になる。

 【遺言のとおりに家康の遺体はその日のうちに久能山に移され、急造された仮殿に、
  梵舜らによって京都・吉田社の唯一(ゆいつ)神道の方式で、神に祀り上げられました。
  そのため増上寺での葬式はおこなわれませんでしたし、諸国の大名からの香典も
  受け付けませんでした。家康は死ぬとすぐ神になったからです。】


内藤氏が個人的に本心から「家康は死んですぐ神になった」と思っている訳ではなく、
当時の状況を端的に語っているものだ(と思う)けど、
浦井氏の説と対比させて読むと、よりはっきりわかって面白い。

「も~っ、雨降ってるし足元は全然見えないし、
それにこのずっと続く急な坂!!
なんでこんな中死体を担がなきゃならないんですか~・・・」


って当日の夜に家康の遺骸を運んだ人間のうち、家康の死を悲しみながらも
1人は心の中でボヤいたかもしれないセリフを表現してみましたが、
苦労した甲斐あって、「家康の死=神への昇化」の演出が見事に実を結んだ結果が
内藤氏の文章になると言っていいんじゃないでしょうか。



家康の看護に当たった者の中に、久能城(久能山東照宮ができる前に存在していた中世の城)
の城番をしていた榊原清久がいた。
清久は家康の死を看取ったが、家康は自分の死後、
清久が神職となりこれまでと変わらず仕えるよう遺言したとされる。

4月18日の朝までには、家康を久能山へ運び上げた。
そして、すぐさま仮殿の建設が急ピッチで進められる。

4月19日、山頂に造られた仮殿に御霊を遷宮。
仮殿は三間四方、鳥居・玉垣・燈籠一対と神社に必要な様式は
ちゃんと整っていたというんだから、驚くべきもの・・・
てか、やっぱり秀忠の正式発表がある前に、梵舜が手配してたね、コレ。
祭主は梵舜、それから榊原清久。

4月20日、大工頭中井正清が久能山への神社造営を命じられる。
4月25日、秀忠は榊原清久を神官に任じて、父の最期を看取ったことを褒めてやった。



さてね、家康の遺言では、増上寺で葬儀を行うことになっていた。
増上寺で遺言通り家康の葬儀が行われたと書いている人もいるけど、
前後の状況から考えて、内藤氏の文章通りそれはなかっただろうと思うんだよね。

時の増上寺の住職・存応は遺言の場に立ち合っていない。
懸命に看護した榊原清久は、神職になって引き続き自分に仕えるように言われている。
そして、タイミングはともかく家康自身に神に祀られる意志があった。

てことはつまり、家康としては神式での葬送を考えていたとも考えられる。
増上寺で葬式を上げてほしいとは思っていなかった。
だから存応を呼ばなかった。
なら何で、増上寺で葬儀を行うようになんてめんどくさい事を言ったのか・・・

結局のところ、増上寺のメンツを保ってやるためなのかな、って推測しました。
最初から増上寺をカヤの外に置いてしまうと、
江戸開府以来徳川家の菩提寺として歩んできた増上寺の立場がなくなってしまう。
しかもそれが家康の遺志となれば、いくら存応が憤慨したところで
もうどうしようもない。

イチ国人からスタートして戦国武将として多くの苦難を乗り越え、
最終的に権力の座に上り詰めた家康は各方面への配慮も怠ることはなかった。
自分の言葉の重みもよく理解していた。

しかし、自分の死後、一悶着あったとしても残された者たちが決めたことであれば、
結果は同じであっても、自分の遺言として初めから増上寺を無視するよりは
いくらか収まりもいいのではないか・・・
そんな感じでどうでしょう?



そして、遺言に立ち合った3人のうち、家康が真に自分の死後を託したのが
天海だったんじゃないかと思うのだ。

神式を考えていたのなら、梵舜を呼べばいい。
けど、呼ばれたのは天海だった。

論議のところで「心のすき間を埋めたのが天海だったんじゃないか」としましたが、
天台や朝廷対策での実務的な駒でもあったものの、私の中では
老後の様々な悩みを抱えた家康にとっての
茶飲み友達的な間柄でもあったんじゃないかという気がする。

吉田神道による家康の葬送の準備が進む中、
家康の複雑な心のひだを読み取って、その意を充分に理解していた天海は
静かに事の成り行きを見守っていた。


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最終更新日  2014年07月29日 20時58分26秒


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