戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年02月18日
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カテゴリ: 上野と寛永寺
ここからいわゆる「神号問題」に入ります。

これについて世間で多く語られるものは、後世の編纂に基づく俗説だと
曽根原氏は書いておられますが、まずは事の経緯を戦国ジジイ脚本のドラマ仕立てで
ご紹介しましょう。


 元和2年(1616)4月20日、秀忠の御前にて。

 崇伝:このたび、御遺命により大御所様を吉田神道で久能山へ
     明神としてお祀り致しました。


天海: 大御所様は、明神で祀れなんて言いませんでしたがの(ボソッ)。

 正純:な、なにを言われる、ご老体!
     ついにモーロク(←80歳)されたか!?


 天海:シツレイな!その辺の若いモンにゃあ、
     まだまだ負けませんぞ!!ホレッ!ホレッ!


 崇伝:・・・・・・・・・

 秀忠:(あ~、びっくりした)
     天海、それでは大御所様は何と仰せになられたのだ?


 天海:山王一実神道で、権現として祀れとの仰せでした。

 崇伝:山王一実神道?ナニソレ!?

 正純:我ら3人で御遺命を承った時には、
     そんなことこれっぽっちも言ってなかったじゃろうが!
     ワシャ権現なんて話、ちいとも聞いとらんし!!


 崇伝:まあまあ本多殿、熱くならないで。
     ここまで明神で進めてきたものを、
     今さら権現はないでしょう。
     ご老体は何か勘違いされているのですよ。


 天海: 明神は縁起が悪い(ボソッ)

 崇伝:は?何か言いましたか?

 天海:子孫が滅亡した豊国大明神の例をお忘れか。

 秀忠・正純・崇伝:あ・・・・・・・・



てな感じで、天海が持ち出した秀吉の話が効いて、
秀忠は権現とすることを決定し、天海の大逆転勝利・・・


でもさ、これっておかしくない!?

「明神って、先の太閤と同じだよな・・・
なんかやだな」


ぐらいのこと、崇伝なら気づくだろ?

まあ、神式だったら吉田神道=明神、ってのが固定観念だったので
何も疑問に思わなかったという可能性もあるけど、ホントに家康が

「明神じゃなく権現にしてね」

って言ったのなら、とっとと言えよ、天海!ってカンジだよね。


てことで、この有名な話はやはり俗説の域を出るものではない・・・
ただし、明神から権現への変更があったことはもちろん否定しません。

 【実際は、一ヵ月近くの熟慮を経て秀忠の決断が下されており、俗説のような単純な
  話ではない。また、判断の際に山王一実神道の性格が重視されたとも推測されている。
  山王一実神道は天台宗の神道であるため、現世秩序を肯定する国家鎮護的性格が 
  強いというのである。】



これは『上野寛永寺 将軍家の葬儀』の著者で寛永寺のお坊様でもある
浦井正明氏の研究をベースにした文章らしい。

で、その浦井氏は神号が変わった理由についてどう見ておられるかを要約すると、

 1.何よりも明神号は不吉だった。「明神号はつい先頃滅亡した豊臣家の秀吉に用いた
   神号であり、その豊国廟を破却させたのは他ならぬ家康公自身ではないか」、


 2.明神号と豊臣家の滅亡には何の関連もないと幕府が判断したとしても、
   まだ天海には奥の手があった。
   家康を秀吉と同じ明神号で祀れば、2人は同格の神になってしまい、
   家康を類い稀れな偉大な神とする幕府の方針そのものがぐらつく事になる。

   それは崇伝が「権現号を採用することは、日本国中を山王一実神道に塗り替える
   ことになる」と述べている事からも裏付けられるのであり、後の歴代将軍の誰一人
   として権現号を用いなかったことからも明白であろう。山王一実神道が東照宮神道と
   呼ばれるゆえんである。

 3.かつて梵舜は秀吉の使者に、明神号と権現号には優劣がないと語っている。

 4.一旦状況が変わると、梵舜が豊国廟の社僧であったことが不利に働いた。また、
   唯一神道よりも山王一実神道の方が家康と神がより直結する。加えて、状況の変化に
   伴い家康の遺言に「日光」の言葉があったことが急に意味を持ち始めた。
  (『徳川家康の葬儀と天海の役割』より)


とな。

山王一実神道とはなにか?
天台の神道です。以上(笑)。

いや、ものの本には色々書いてあるんだけど、
なんかよくわからないんだよね~(←相変わらずバカ)

ま、後でちょっと出てくるかもしれませんが、
ひとまずここはわたくしらしく素朴に考えてみたいと思います。


崇伝は確かに優秀な人だった。
優秀であるがゆえに、外交僧としての近侍から始まったのに、
僧侶という立場にありながらも開幕初期の重要な法令の立案にも参加するなど、
政治面での実務者的性格の方が強かったんじゃないだろうか。
だから、家康のブレーンという表現は天海よりも崇伝の方がしっくり来る。

天海も、天台の統轄や外部・・・特に朝廷との折衝などに当たり、
わずかな期間で実力を発揮していった。
その一方で、前回「茶飲み友達的」と表現したけど、
最晩年の悩める家康の心に寄り添ったのが天海だったろうと思えてならない。

遺言を聞いたのが4月2日。
家康が死んだのが、4月17日。

死の前日、家康を神式で送ることが発表され、
死の2日後には久能山に遷宮され、葬送の準備はとんとん拍子に進んでいった。
明神号うんぬんというより、吉田神道方式で祀ることを恐らく誰もが疑問に思わなかった。
当時の吉田家の勢力というものは、結構なものがあったのだろう。

浦井氏の推測その3「山王一実神道が東照宮神道と呼ばれるゆえんである」・・・
数種類ある東照宮の縁起書の解説を読んでると、
どうも急ごしらえのような印象を受ける。

おそらく、天海はずっと考えていたのだ。

論議などを通して家康の心が読み取れた天海は、
どうしたらその願いを叶えてやることができるのか、一生懸命考えていたのだ。
その結果、それまで茫漠としていた山王一実神道の教義を
急いでまとめ上げたんじゃないだろうか。

ただ、現実はどう転ぶかわからない。
事の成り行きを見守っているうち、やっぱり明神になってしまうことが判明したので、
意を決して

「ちょおっと待ったあああ~!!」

と声を上げたんじゃないだろうか。

おそらく、

「権現にして」

とは家康は言ってない。

天海もそんなウソは持ち出してないだろうと思う。
でも、天海には勝算があった。

山王一実神道の教義について、秀忠がどこまで理解し、賛同したのかはわからない。
それでも、秀吉とは違う権現にして幕府の精神的中心部へ据えることには
秀忠も納得しただろうし、あるいは家康が最後の数年間でどんなことを考えていたのか、
天海は説明したかもしれない。

天海は家康にとってのエンディングノート・・・
自分の気持ちを天海が理解してくれていると感じた家康は、
タテマエでもある遺言の奥の真意を汲み取って、

「天海ならきっとやってくれる」

と信じて遺言の場に存応ではなく天海を呼んだんじゃないか。


ただ、「権現号が大御所様の望みでした」とは言わなくても、
「御遺命」とは言ったかもしれない。
その場合、言葉(遺言)による御遺命ではなく、天海が読み取った「御遺命」になる。
こうなるとあながちウソとも言えない。

さらに後押ししたのが、浦井氏の推測その4「日光の言葉が急に意味を持ち始めた」。
家康の死の時点で、日光は天海が管理していた。
つまりは、天海による祭祀を家康が望んでいたという意志表示とも取れる。

まあ、ここはビミョ~な表現だけどね。
遺言では、「1年経ってから小さな堂に勧請」だったから。
でもその言葉通りにしたら、前回の引用文で浦井氏が力説したように、
「家康は神になった」感が薄れてしまう。

ので、総合的に考えた上で、権現として日光で祀るのを秀忠が許可したんじゃないかな。



『東照宮信仰の広がり』の中で高藤晴俊氏は

 【「神号問題」の本質は、徳川王権構想ともとられかねない日光山選定の意図を隠蔽
  するために、崇伝から持ち掛け、天海と二人で演じられたと筆者は推測している。】

とちょっとびっくりするような説を提示しておられる。

これ自体についてはその根拠の説明は省かれているけど、
秀吉神を越える神格を求める者にとっては明神号は初めからあり得ない選択肢であり、
ゆえに秀忠も崇伝も権現号とすることをすでに了解済だったとしておられる。

根拠を読んでいないので何とも言えない部分はある・・・

天海のことはこれまでも色々書いてきたし、考えてもきたので
難解ながらも少しは自分なりに想像(妄想)できるようになってきた。
が、崇伝がこの辺りで何を考えていたのか、まだ自分の中で消化できてない。
ただし、自分と一緒に遺言の場に呼ばれたのが存応でも梵舜でもなく
天海だったことから、あるいは崇伝も早い段階で家康の意図に気付いた可能性はある。


ウィキペディアの崇伝の項には、

 【優れた学僧であったが、その権勢の大きさと、方広寺鐘銘事件に代表される強引とも
  思える政治手法により、世人から「大欲山気根院僭上寺悪国師」とあだ名されたという。
  ただし家康没後は後ろ盾を失い、天海にその地位を奪われたとの評価もある。】

とある。

方広寺の鐘銘事件はともかく、次々と公布されたお触れは
対象者からすれば厳しい内容だった。
その法案の多くを崇伝が起草していることから恨まれる対象となり、
こんなあだ名があると言われたり、神号問題では敗者となって以後は落ち目になった、
って辛辣な言われ方をされる部分があるように思える。

でも、崇伝の案を決裁したのは家康と秀忠だし、崇伝は別に悪い人じゃない。
この問題をきっかけに失脚した訳でもない。
高藤氏が推測するように、案外この問題のキーマンは
天海よりも崇伝なのかもしれないな。


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最終更新日  2014年07月28日 21時33分49秒


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