戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年02月19日
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カテゴリ: 上野と寛永寺
元和2年(1616)5月26日、天海は秀忠に呼ばれ、
家康を権現号で祀ることを告げられた。
家康権現の誕生です。
天海は仮の神号として、「薬王大権現」という名を付けたともいわれる。


 【大師が説いたのは、家康という実在の英雄(「君」)と、死後に昇華した東照大権現
  (「神」)の背後には家康の本地仏としての薬師如来(「仏」)が存在するという思想で、
  これは天台宗の空仮中(くうげちゅう)という三諦(さんたい)が圓遊(えんゆう)
  するという思想に基づくものである。】
  (『寛永寺』より)



天海は板倉勝重らと共に次なるダンジョン・京へ向かった。
5月30日頃出発し、6月11日頃には到着したと思われる。


公家の社会というのは、とにかく先例を大事にする。
例えばわたくしのブログの中では、 象へ官位を与えた なんて話もありましたね。

案の定、権現号に決定したことを上奏した天海には

「権現どすか!?
まろはてっきり、先の秀吉と同じ明神かと・・・」


「まろもそう思っておじゃりましたぞ。
権現なんて、先例がないでおじゃる!」


「そうじゃそうじゃ。
まろもそう思いますぞ」


・・・と、まろ軍団からブーイングが集中した。


 【当時の朝廷(公家衆)においては、まず山王一実神道というあまり耳馴れない習合神道
  への反撥が強く、加えて、かねてからの崇伝や梵舜らによる強力な根回しもあったから、
  なぜ前例のある唯一神道で勅許を奏請してこないのかという意見が多かったのである。】
  (『徳川家康の葬儀と天海の役割』より)



この辺りの日付でも何やかやと崇伝が日記に書き遺したりしていて
およその経過は把握しているようでもあるので、
朝廷内部にパイプを持っていたらしいことは窺える。

が、浦井氏は天海の方でもそれまでに禁中論議などを通じて
朝廷に強い発言の場を持っており、さらに幕府の強大なバックアップがあったので



まろ軍団の方でも色々会合が持たれたらしいが、
天海もこれが家康の遺志なのだと説明して頑張ったらしい。

7月13日、朝廷から権現号の勅許が下りる。
『寛永寺』によると、周囲はもっと説得に時間がかかるだろうと読んでいたらしい。
天海はプレゼン上手だったんだろうな



めでたく、第2関門もクリアした。
朝廷からは勅許と同時に「ナニ権現」とするかの案が示された。
候補は4つ。


まずは二条昭実(あきざね)から2つ。

この方は秀吉に関白の職を譲った方だそうで、
自分の養子には家康の偏諱を受けさせて康道とし、それ以後、
二条家の歴代当主は徳川将軍家からの偏諱を受けるのが通例となったそうな。
ついでに言うと、信長様の養女と実の娘を娶っており、
武家政権と良好な関係を築いた方らしい。

昭実からは「東照大権現」、「日本(ひのもと)大権現」が提示された。


それから、菊亭晴季(きくてい・はるすえ)から2つ。

この方は戦国ファンにも有名ですね。
娘を豊臣秀次に嫁がせており、真田昌幸の正室・山手殿も晴季の娘とされています。
ただ、山手殿の出自は諸説あるし、晴季の娘の可能性は低いとされてもいるけど。
この方も武家と友好的な間柄にあったと言えるでしょう。

晴季からは「威霊大権現」、「東光大権現」が提示された。



9月に入った頃、天海らは江戸へ戻ったと思われる。
4つの案を書いたものには、「どれでも将軍様のお好きなものをお選びください」との
御内證が添えられていた。

崇伝はその辺りを板倉勝重から聞かされたものの、
「まだどれにするとも聞いてない。使者たちが戻ってから相談して決めるのだろう」と
9月7日の書状に書いている。
その後の文章には

 【吉田殿は不被指出、何もかも南光坊之神道と相聞え申候】

とある。

「吉田殿」は吉田家のことだろうな。
えっと、この時はもう兼見は死んでるから兼見の子かな。
完全に流れが変わって、もう吉田家はお呼びじゃないって雰囲気が窺われる。

権現交渉の正使は板倉勝重。
崇伝とともに、のちの寺社奉行にあたる職務に就いてたからまあ当然かな。
副使は法印永喜。
しかし、まぎれもなく交渉の主役は天海。
秀忠が帰りを待っていた「使者たち」も天海が主眼だろう。

9月7日に崇伝がどこにいたのかちょっとわからないんだけど、
9月3日には天海が江戸に入ったという記述がある。
天海から勅許が下りたと報告を受けた秀忠は大喜びしたという。

9月17日、たぶん江戸城で天海が七五三の膳を振舞われる。
饗応については新高山城の遠足イベントでさんざん書いてきたから、わかるよね。
(忘れた方は 「新高山城(18)」 以降をご覧ください)

その翌日の崇伝の書状には

「まだ神号が何になるか知らないんだ・・・
近頃は大御所様が生きてらした時のようには忙しくないし、
なんかもう疲れちゃったな。
ここ1週間ばかりは食欲もないし・・・」


って弱気な発言が見られる。


10月に入ると、藤堂高虎が日光の社殿造営を仰せつかり、
その縄張のために天海と共に日光に向かう。
ウツウツとしていた崇伝とは対照的に、天海は忙しく立ち働いていた。


さて、神号。
秀忠は最終的に「東照大権現」を選び、元和3年2月21日、
天皇よりその通りの諡号が下された。

この名称については、先人が力を入れて解析にあたっておられます。
ただ、それに関するものだけを読んでると、ものすごく失礼な言い方だけど
なんか言葉遊びのように思えてきちゃって、
あまり真面目に考えようという意欲がなくなってきます。
(先人の努力をバカにしてる訳じゃないですよ。決して。)

ひとまず浦井氏の説だけを紹介すると、

 【筆者はこの試案の撰定については、天海の主張がかなり採り入れられていると
  考えている。と言うのは、まず朝廷が四つの神号案を撰んだ上、その最終的な撰定を
  幕府(実質上は天海)に一任したことであり、更に、それ以上に大きな理由は、
  この四つの案の中で、「威霊大権現」という、きわめて月並な神号以外の三案が、
  すべて「東」にかかわりをもっているということなのである。(中略)

  実は、家康はその生母於大の方が三河の鳳来寺(峰の薬師)に頑掛けして授かった子
  なのである。しかも、薬師如来は紛れもなく 東方 薬師瑠璃 光 浄土の教主なのである。
  この場合、光と照はほぼ同じ意味の言葉と考えていいであろうし、更に薬師如来は
  天海の属する天台宗の総本山・比叡山延暦寺の根本中堂の本尊でもある。

  その上、家康自身の遺言の中にも「八州の鎮守」となるとの言葉がある。この場合の
  八州が関 東 八ヵ国であることは疑う余地がない。こう考えてくると、東にかかわる
  三つの神号とが無関係であるとすることの方が、むしろ無理だと言えよう。】
  (『徳川家康の葬儀と天海の役割』より)


これが呪術系に重きを置く説になると、緻密すぎて頭の悪いわたくしにはもう
何言っちゃってるのかさっぱりわかりませぬ。
生理的に受け付けないんだろうね、たぶん

ので、東照大権現の名についてはさらりと流すつもりでいたのですが、
昨日の朝、出勤前に鏡の前で支度している時にふと

「あ、アマテラス(天照)か・・・・・」

って湧いてきました。
別にその事を考えてる訳でもなかったのに、なんでいきなりそんな事を思ったのかは
皆目わかりませんが、とにかく思いついてしまった。

アマテラス説はすでにどなたかが書いてる可能性も高いですが、
ひとまずちょっと考えたことだけ書いておきます。



現代において天皇家がどういう位置付けにあるのか正確なところはわかりませんが、
身分制度がなくなった現在でも天皇家だけは別格。

去年(2013)伊勢神宮の式年遷宮があって、TVで大々的に放映されましたが、
私の記憶にある限りではこれまではあれほど大仰にTVに映ることはなかったし、
あれ自体は古式ゆかしい世紀の大イベントって感じで感動的ではあったけど、
その一方で長い歴史の中ではもっとわびしい、形だけの遷宮もあったろうに・・・
と思いながらニュースを見てました。

アマテラスの子孫は日本で最も古い家系であり、
激動の時代を生きた昭和天皇および今上陛下の努力の甲斐あって、
天皇家は今でも国民の尊崇と、子が親を慕うような愛情を集めている。

天皇が日本のトップに立つのは、天照大神の子孫だから・・・
しかし、その天照大神を祀る伊勢神宮にも様々な変遷があった。


ここからは『神君家康の誕生』の要約です。
古い時代には天照大神は至高の神として位置づけられ、
一般人の祈祷は受け付けない天皇専用の神だった。

それが、中世に入ると武家の寄進を受け、伊勢からは御師(おし)が全国に出張し
神府を配って歩く、庶民にも開かれた神となる。

さらには仏教思想の影響を受け、大日如来や観音菩薩の変身した姿だとされたり、
あるいは男神と言われ、あるいは留守居の神を残していなくなったと
説かれたこともあるそうな。

伊勢神宮は外宮(豊受大神)と内宮(天照大神)から成り立ってますが、
驚いたことに中世には内宮よりも外宮の方が格が上だとする説が優勢だったという。

江戸期に入ると、正月6日に全国の神職や僧侶が江戸城に年頭の挨拶に登城したが、
内宮よりも外宮が先の順番になっていた。
寛永12年(1635)、内宮の神職がこれに異を唱えた。

まず幕府内で検討され、ついで朝廷に先例を問うた。
その回答は、順序は祭神の優劣ではなく属性によるもので、外宮が優先というものだった。

それに対し、幕府は再度朝廷に諮問を行った。
朝廷に対して再検討を依頼すること自体が異例で、
その内容は順番ではなく、神位の高下を問うものだった。

再度の諮問に対し、朝廷では当時の常識だった外宮優位を覆して
内宮が優位にあるとした。
幕府もそれで納得した。


つまり、江戸初期頃は朝廷は天照大神のことをさほど重視していなかったんだそうな。
なら、寛永寺を「東の叡山」としたように、東照大権現を東の天照だとした可能性だって
あるんじゃないのかな。

現代の感覚からすると、どれほど徳川政権が力を持っていようとも
東の天照はないだろ~!!ってカンジだけど、上の例にもあるように、
さしもの天照大神も大したことない(と扱われていた)時期があった。

であれば、諡号を選定した朝廷側でも、天照の名を持ち出すことに
さほど抵抗感はなかったかもしれない。

ま、想像です、想像・・・


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最終更新日  2014年07月28日 21時33分23秒


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