戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年02月21日
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カテゴリ: 上野と寛永寺
天海の独自の主張は、プレゼン上手なこともあってまろ軍団に受け入れられた。
もちろん、禁中并公家中諸法度などでこれまでとは全く違う強い意志を持って
天下の経営にあたろうとしている幕府の強大な力をまろ軍団が認識していたことも
大きな後押しになっただろう。

それ以外に、家康の生前に天海がお使いをしたことで
朝廷に顔も知られていたことが助けになった。

ここまで何度か、天海が朝廷との折衝にあたっていたと書いてきましたが、
実際どんな事をしていたのか『江戸時代初期の朝幕周旋について』(安藤良平)
を参考に少しご紹介しましょう。




この方の父は、織田家と親密だったとされる誠仁(さねひと)親王。
誠仁親王が天皇に即位する前に若くして亡くなってしまったので、
その子が祖父の跡を継いだ。

この帝は当代一流の学識を持ち、また皇室の回復を強く願う方だったそうな。
英邁な天皇は一見いい事のようでもあるけれど、歴史の中では
後白河院、後鳥羽院、後醍醐天皇など、頭のキレる方は政治への意欲も強く、
武家政権にとってはぶっちゃけロクなことはなかった。
家康の心中も穏やかではなかったかもしれない。

特に秀吉は関白・太閤という地位を利用したため、自分のために
朝廷の権威を高める必要があった。

その後で天下を手中におさめた家康は、朝廷への対応も慎重だった。


当初は朝廷に対していくぶん控えめに対処していた家康は、
大坂の陣で豊臣家を滅ぼした直後からバシバシと厳しい法令を公布した。
もう誰にも遠慮はいらない。
統制の対象には朝廷も入っていた。



後陽成天皇の侍医は、「帝には著しい神経症のケがある」という診断を下したらしい。


秀吉らしいハデな歓待を受けたりして、幸福のさ中にあった。

それが家康の代になると一転、一応礼は尽くしていたものの、
あくまで天下を治めるのは徳川で、帝はどうぞ学芸に精進され、
お静かにお過ごし下されという風に家康にクールにあしらわれ、

「キイッッ!!」

と御機嫌ナナメの日々が続いたらしい。


大坂の陣より少しさかのぼった慶長14年(1609)、
朝廷でとんでもないスキャンダルが発覚した。
俗に「猪熊事件」(いのくまじけん)と言われる。

主犯の猪熊教利(のりとし)は光源氏や在原業平にも例えられるほどの、
当代きってのイケメン公家。
顔だけじゃなく、下半身も光源氏のようだった
ま、要するに女グセが超悪かったそうな。

慶長12年(1607)には大坂へ出奔。
これは女官との密通が原因とのウワサがある。
その後京へ戻ったらしいが、光る君がいいトシしてまで最愛の紫の上を泣かせたように、
コイツも懲りねえ。

ある時、ある公家が後陽成天皇の寵愛を受ける女官と密通してるのを
耳ざとく聞きつけた猪熊は、チャンスとばかりに他の公家や女官を誘って
宮廷のあちこちでイチャイチャやり始めた。
公卿8人、女官5人、地下1人。
こんな人数であれこれやってれば、バレないはずがない。

7月、ついに後陽成天皇の耳にまでウワサが届いた。

「なっ、なんてことを・・・
死刑じゃ!
み~んな死刑じゃ~~~!!」


ウィキペディアによると、当時の公家社会には死罪はなかったらしい。
事件を聞いた家康の命を受け、京都所司代の板倉勝重とその子が調査に乗り出した。
ところが、

「大御所様・・・
マズイっす。
思ったより多くの人間が関わってるようですよ。
全員を死罪なんかにしたら、大変なことになりますよ」


「ああ、そう・・・しょうがないか。
どうでしょう、帝?
先例もないことですし、ここは軽い処分に収めましょうよ」


「キイイイッッ!!!」


結局、猪熊と他1人は死罪、2人は赦され、残りは流罪になった。
怒りの収まらない後陽成天皇は関係者の処分が決まった1ヶ月後の11月、

「朕、もう天皇やめる」

「あ、そーですか。
どうぞお好きなように。
次は第三皇子の政仁親王がいいですな」


「こ、政仁(ことひと)!?
朕は我が弟の八条宮に譲ろうと・・・
キイキイキイ、家康め~!!」



もともと、後陽成天皇は秀吉の勧めで第1皇子の良仁親王を東宮としていた。
後陽成天皇の弟の八条宮は秀吉の猶子となって将来の関白を約束されていたが
秀吉に子が生まれたことで契約は破棄。
八条宮家を創設し、細川藤孝から古今伝授を受け、
さらに作庭の才もあったそうで、領地の下桂村に別邸を作り、
これが現在の桂離宮だそうな。

結局、良仁親王を強引に出家させ、家康の意向通り政仁親王に譲位した。
これが後水尾天皇。


こんな経緯で譲位が行われたものだから、院となった後陽成氏と
新たな帝となった後水尾氏の仲もおよろしくなかったらしい。
心配した母后は家康に調停を依頼した。

この任にあたったのが、天海。
慶長19年(1614)、天海は上洛し院を諌めた。
『駿府記』によると、夏頃には家康は天台論議ばっかり聞いている。
11月頃には院のお心も少し和らいだ。

翌春には表向き院と天皇の和解があった。
この頃天海はたびたび参内しては院に天台の教義を授けたりしているらしく、
家康が院の書物を借りるのに天海が使いとなっていること、
また院から家康に名香を賜った時も天海が使いに立ってることからして
天海が院の信頼を勝ち取っていたのだろうと安藤氏は語る。
その他、院と女院の仲についても天海が調停役を務めたらしい。


天海にも「人たらし」の特技があったんだろうか。
気難しい院から信頼を寄せられて万々歳・・・と言いたいところだけど、
後水尾天皇は禅宗に入れ込んでいて、かつ父院との仲もよくなかったので、
院と天海の接近を好ましいとは思っていなかった。

「上野第二編(45)」 で天海に対する後水尾天皇の辛辣な評価を紹介しましたが、
それはこの辺りの複雑な感情を表している。


オヤジが片付いたら、今度は息子・・・
朝廷と幕府のアヤしい雲行きは、後水尾天皇の代になって
さらに暗雲が立ち込めますが、そこでは別の方が登場しますので、まずはここまで。

安藤氏は前掲論文の中で、天海のことを

 【学識は崇伝、羅山にはるかにおよばなかったが、その天性明るく寛容で、その発明頓智の才は
  よく人々に親愛された。】

と評しておられる。
たぶん、人の心をよく読み取り、機転のある対応ができた人なんだろうな。



さて、寛永寺の創建についてはまず『寛永寺』で流れを学び、
おおよその事を書きました。

その後、自分で歴バナを書く中で、ホントに家康存命中から
寛永寺創建プランがあったのかとか、
宮を迎える事を思い付いたのはだいぶ後になってからなんじゃないかとか
色々自分なりに考えたりもしました。

幕府の思惑なども絡む話なので、たぶん自分で納得する結論が出せるのは
相当先になると思いますが、また少し考えたことがあるので、ここで書いておきます。


先日、日光で買った『輪王寺 宝ものがたり』を少し読んでいた時、
日光輪王寺に宮のために造られたといわれる庭がある事を知った。
その庭園は私も見たことはあるけど、当時はもちろんそんな事は知らなかったし
関心もなかったので、ちょっと驚いた。

寛永寺創建の中で私が特に引っかかるのが、諸堂宇とか周辺の地名・名所など
叡山のものをパクったという話。

「根本中堂」は叡山にもあるし、不忍池を琵琶湖に見立てたとかいうし、
これまでに紹介した堂宇の中では 「にない堂」 なんかもそう。
叡山にも「にない堂」があるのだ。


 【こうした例は挙げていけば際限がない訳で、要は天海僧正が如何に
  比叡山を東に移すということに執心していたかを知っていただければよい。】
  (『寛永寺』より)


前にも書きましたが、『寛永寺』は私のすべての出発点。
この文章を読んだ当初は、叡山のコピーから始まってしまいには叡山のお株を奪おうという、
ギラギラした天海像をイメージした。

その後で寛永寺モードで日光に行った際、大猷院の手前のお堂の名称を
初めて知って驚いた。
いや、お堂の近くにある看板などにはちゃんと名称が書いてあるんだけど、
ホントにこれまでそういうものに関心がなかったのでね

写真はいずれ日光写真館の方に掲載しますが、2つあるお堂はそれぞれ
「常行堂」と「法華堂」。
「にない堂」と同じ造りなんです。
ただ、日光は2つの堂が渡り廊下でつながれているものの、
廊下は地面に接しているので寛永寺や叡山とは少し違います。

でもほぼ同じな訳だから、「なんだ、日光にもあるんじゃん。
ホントに寛永寺のは叡山のコピーかよ!?」って疑問が湧きました。

そういう事もあって、小早川隆景の相続イベントのように
寛永寺創建についても巨大な迷いの森に入り込んだような状態に陥ったのですが、
宮のための庭が日光にあると知った時、あらたな考えが浮かんできました。


 【門跡のお庭として門主が幼少の頃を過ごした琵琶湖の景色を写したものと
  いわれています。】
  (『輪王寺 宝ものがたり』より)


その庭がいつ造られたとははっきり書いてない。
江戸初期としてあるだけ。

宮のための庭・・・
なら、寛永寺を叡山周辺に似せたのも、すべて宮のためだったって推測も
アリなんじゃないのか?
だとするなら、あるいは天海は寛永寺の創建というよりも
宮を江戸にお迎えすることを主眼にしていたかもしれない。

そうなるとプランニングの時期がどこになるかって問題になるけど、
天海が任された関東天台はすでに叡山から独立した存在だった。
ゆくゆくは天台すべてのトップに立つことを視野に入れながら、
かなり早い時期に宮をお迎えすることを考えついたとしても特段無理はない。
であれば、家康の存命中からその企画があった可能性は確かにある。

ただ、その頃の朝廷は上に書いたような感じだったし、
朝幕の関係は危うかった。
宮を下さいと言ったところで、とてももらえるような状況ではなかった可能性がある。


なんかこの問題、隆景の相続イベントと共に
墓場まで引きずっていきそうな気がしてきた・・・


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最終更新日  2014年07月28日 21時32分24秒


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