戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年02月22日
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カテゴリ: 上野と寛永寺
元和2年(1616)10月、幕府は家康を祀る「東照社」を日光に置くことを定め、
10月26日、天海・藤堂高虎らが縄張を行う。
造営奉行は藤堂高虎、本多正純。大工頭は中井正清。

中井正清は、久能山東照宮の方も手掛けてるみたいね。
久能山のサイトでは元和2年5月に着工とあるから、かけもちか?(笑)
ただ、日光の工期は約半年だから、その期間だけは日光でしゃかりきに
頑張ったのかもしれないな(久能山の工期は1年7ヶ月)。


11月17日、東照社の造営に着手。
翌年の4月までには社殿を造り終えるようにとの命があり、


翌元和3年(1617)2月21日、朝廷から「東照大権現」の神号が下される。
3月9日、家康に正一位が追贈される。

3月15日、東照社竣工。
この日の早朝、天海は自ら鍬を持って久能山に仮埋葬された遺骸を掘り起こしたともいう。
遺骸は金箔を貼った輿に載せられ、300余騎、雑兵1,000人の大行列でもって
いよいよお引越しのスタート。


現在日光東照宮で行われる例大祭の中での大イベント、
「千人武者行列」はこの久能山から日光への引っ越しを再現したもので、
神のお渡りだから神事のひとつで正式には「神輿渡御(しんよとぎょ)祭」という。

私はイベント嫌いゆえこのお祭りは見たことはありませんが、
流鏑馬と同様、徳川宗家の方も参列されるそうな。




家康の遺骨の行方のナゾがある。

驚いたことに、久能山東照宮のサイトでは家康(のホネ)の引っ越しについては
一切触れていない。
久能山の方にも、日光と同じ宝塔形式の墓があるみたいだね。

久能山サイドの気持ちもわからなくはないけど、


分骨の可能性もなくはないけど、おそらくそれはないだろう。
以後の徳川将軍は、わかっているところでは最後のケイキさんを除きみな土葬なのだ。

それに、御年80才のスーパージジイ・天海が家康を権現とするために
どれほど走りまわったことか。
強い信念を持って葬送戦争を勝ち抜いた天海が、家康の骨のひとつぶたりとも
残していくことは私には考えられない。
まあ、そもそも柩は開けなかったんじゃないかと思うしね。

だから、久能山のは供養塔的なものなんじゃないかと思う。
かと言って、1年近く最初に埋葬された地ではあるし、
「久能山はカラッポで価値がない」なんてことを言ってるんじゃないですよ。
あるいは久能山の宝塔は、仮埋葬の期間に墓を務めたものの名残かもしれないな。




んでは、寛永寺とは直接の関係はありませんが、
ご参考までにここで徳川将軍の埋葬方法について少しご紹介しましょう。

以前雑談で『徳川将軍家十五代のカルテ』(篠田達明・新潮新書)という本を
(たった2行だけど)紹介しましたが、増上寺の発掘調査結果が
確か結構詳しく書かれていたと記憶にあるんだけど、
ただいま近隣の図書館が蔵書整理期間中でその本を借りられないので、
『魔都江戸の都市計画』(内藤正敏)を参考にいたします。

まずはこちらの図をご覧ください↓。


徳川家斉埋葬法



徳川11代将軍・家斉(いえなり:1773-1841)さんの埋葬の様子を
図解してみました。


最初にご本人の処理をするんですが、家斉さんについては
詳しい処理方法は書かれてないので、そこは省いて、
家斉さんを座らせます。
座っていたとは書かれてないんだけど、皆様座っておられるようなので
たぶん座っていたんでしょう。

個人的には、いつどうやって座らせたのかが気になるところだけど。
硬直するでしょ?
で、

 御肌付(おはだつき)と呼ばれる桐の箱に入れる。
          ↓
 桧の箱に入れて、間に練香を詰める。
          ↓
 さらに桧の箱に入れて、間に石灰を詰める。これで御内箱の出来上がり。
          ↓
 御内箱を厚さ三分の銅の棺に入れて、間に木炭の粉を詰める。
          ↓
 穴を掘って石垣を組む。これが御鞘(おさや)石垣。
          ↓
 御鞘石垣の中に切石で組んだ御石槨(おせきかく)と呼ぶ石室を組む。
          ↓
 御石槨の中に銅棺を入れてふたをかぶせ、上に土をかけて完成。


図の中では便宜上それぞれの箱にふたを描いてませんが、
もちろんそれぞれ密封されてます。
御肌付からスタートしてなんと5重。
厳重もいいとこです。

個々の違いも多少はあるようですが、だいたいこんな感じで埋葬されているらしい。

ただ、こういう埋葬の仕方そのものは将軍家の専売特許ではなく、
他の大名クラスなどでもよく保存された遺体が見つかっているんだと。

上以外の方法では、内部の棺の箱の外側に松ヤニが塗ってあったり、
棺と棺の間の詰め物には漆喰や抹香が使われたり、
茶が詰められていたケースもあるそうな。


 【このシックイの成分は石灰と同じである。これらの充填剤のうち、石灰には殺菌作用
  があり、現在でも農作業に畑にまかれている(また、石灰のカルシウムは
  後述する石鹸型屍蝋の生成には有効である)。木炭の粉は活性炭のような
  吸着作用があり、汚水が入ってきたときには、バクテリアや細菌を吸着する
  濾過作用がある。

  また石灰も木炭の吸湿作用があるので、埋葬直後に棺内が湿気をおびたときに、
  腐敗しにくい状態にする効果があったのかもしれない。抹香や練香は防虫作用が
  あり、茶も殺菌作用があることは、民間療法でノドが痛いとき、緑茶や紅茶で
  うがいをする方法が知られている。】
  (『魔都江戸の都市計画』より)


だいぶ以前、お医者さんに「お茶でうがいするといいんですか?」って聞いたら、

「お茶~!?
ハッッ!!」


ってものすごいバカにされたけどね。

ま、それはともかく、こういう外側の処理以外にもご本人の処理があった。


 【津軽承祐が死去したとき藩内から朱を集めて、遺体の口、鼻、耳、肛門などの
  穴々に朱をつめたことが、埋葬に立ちあった藩士の話として伝わっていることである。
  (中略)朱とは硫化水素(HgS)のことであり、朱の殺菌・防腐効果は
  古くから知られている。

  徳川将軍の場合にも、柩の充填剤に「朱とみつかね」を用い、外側は「朱と石灰」を
  詰めたという。この’みつかね’とは水銀のことである。以前、上野の裏山を
  工事で掘ったところ水銀が出て大騒ぎになり、調べたところ将軍の棺に入っていた
  朱が流れ出たものだったという事件があったという。実際に増上寺の徳川家墓所の
  学術調査で、後述するように棺の中から大量の朱が発見されているのである。】
  (『魔都江戸の都市計画』より)


こうした処理を受けた遺体は、思ったよりも保存状態がいい。
ただし、乾燥した場所でできるミイラとは違って湿った土の中なので、
「屍蝋」(しろう)という状態になる。
土の中の水分量や地質、周囲の温度などの外的環境に加え、
本人の脂肪の量などの内的要因も色々違いがあるので、
出来上がった屍蝋には様々なバリエーションがあるらしい。

6代・家宣の場合は【顔や四肢には黒褐色の軟部が薄い板状に固着し、
顔面には一面に不精ひげが生え、さかやきにも短い黒色の生毛が生えていた。】
そして遺体の入った棺には石灰と朱が詰めてあり、中にあった朱はなんと
370キロもあったという。


家宣あたりになると、埋葬の仕方もかなり高度化されてたんじゃないかと思うけど、
じゃあ増上寺埋葬組初代・秀忠はどうだったのか?

秀忠の場合は銅の棺は使われず木棺だけだったので、
砂利が棺の中に入り込み、その重みでぺしゃんこにつぶれていたという。

『徳川将軍家十五代のカルテ』では確か「折りたたまれた提灯のように」
みたいな表現が使われていて、それを読んだのは何年も前のことだけど

「うわあ・・・・・」

って衝撃を受けたことをよく覚えている。

それでも、つぶされた事を除けば保存状態はなかなかのものだったらしく、
【半白の頭髪を正しく髷に結った上に、衣冠束帯の姿で、東方の拝殿の方を
向いて座っていた。胸の前におかれた手の先には、金地の扇子、
遺体の左には太刀、右に小刀が発見された。上・下肢部の軟部はよく保存され、
濃い生毛やイン毛もよく残っていた。】
(【】内はいずれも『魔都江戸の都市計画』より。)


「イン毛」はもちろん陰の毛と書きますが、楽天ブログではわいせつな表現として
エラーになります。
ちっ、めんどくせーな・・・
ま、秀忠も400年近く後になってから自分の下半身が白日のもとに
さらされるとは、あの世でびっくらこいただろう。

家康の死から秀忠の死まで16年。
秀忠よりは簡易かもしれないけど、家康にも何らかの処理を施した可能性はある。
ただ、家康の場合は前に書いたように、当日の夜に急いで久能山に運び上げられているので、
浦井正明氏ははたしてそういう時間があったのか
’94の時点では懐疑的に見ておられるようだけど。


科学技術が進んだ現代では、モノさえあれば結構色々なことがわかるもんだけど、
なにぶん日光埋葬組は墓の調査が行われていない。
ゆえに久能山には骨があるのかないのか、それぞれが好きに想像する余地が残されている。

なぜこんなにしてまで遺体の保存に努めたのか・・・
正確なところはわからないし、呪術系な話が好きな方だと
かなりオカルトちっくな説明も見受けられる。

ただね、上野編で一度、朱を使った埋葬をちょろっと書いてるんですが、
記憶にありますか?

それは日光埋葬組・・・ただし、将軍ではありません。
かの天海大僧正がそうなんです( 「上野第二編(18)」 参照)。

天海の埋葬に使われたとされるのは、水銀、朱、塩。
あの記事を書いた時はどういう意味があるのか知りませんでしたが、
まあこれは天海大好きの家光の指示によるものだろうな。


久能山からの改葬の際、家康の棺の中まで手が入れられたかはわからないけど、
それなりの保存処理はされていたんじゃないかと個人的には思う。

家康が東照宮に鎮座した後、天海も保存処理が施され東照宮の西の大黒山に葬られた。
ついで家光が天海の墓のすぐ近くに大猷院を構えて葬られる。
家光は間違いなくちゃんとした保存処理がされているだろう。

仲良し3人組が生きてる時とあまり変わらないような状況で
今でも日光で固まっている・・・
オカルトちっくなのがお好きな方達があれこれ推測したくなるのも、
わかる気がするな・・・とちょっと思った。


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最終更新日  2014年07月28日 21時31分59秒


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