戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年02月23日
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カテゴリ: 上野と寛永寺
え~、日光遷座の話に戻ります。


元和3年(1617)3月15日、久能山を出発。
同日、富士の善徳寺にお泊り。

16日、三島着。ここで2泊。
18日、箱根越え。小田原に2泊。
20日、中原(平塚)着。ここで1泊。

21日、武州は府中へ到着。ここで2泊。
23日、仙波着。天海の喜多院があるから当然だな。
    ここで天海が法会を催している。そのまま4泊。


28日、館林で休憩した後、佐野に到着。
    ここではあらかじめ本多正純がお迎えのための御殿を用意しており、1泊。
29日、鹿沼へ到着。ここで6泊。
4月4日、日光到着。


これは『日光市史』によるお引っ越しのスケジュールだけど、
浦井正明氏は『徳川家康の葬儀と天海の役割』の中で遺骸を掘り起こしたのが2月8日、
着いたのが4月8日で丸2ヵ月をかけているとしておられる。


 【それは死の直後の極秘裏の扱いとは対照的で、今や偉大な神に昇化した幕府創業の
  英雄家康の神威を広く天下に認知させるための一大デモンストレーションであったと
  考えるべきであろう。】
  (前掲論文より)



浦井氏の説はちょっと厳しくなってくるけどね。

それより、この行程・・・
江戸には寄らなかったんだな。
確かに、江戸に入ると効率は悪いけどね。

ただ、デモンストレーションの意味合いが強いんだったら、

もう神になってから1年経つんだから、死穢も関係ないだろうしな。

ところが、平塚から先は海の近くを通らず、ぐぐっと北上している・・・
これは、この行程の重要な目的地が天海の仙波(川越)だったためじゃないかと
思われる。

仙波では天海みずから法会を行い、4日もの長逗留をしている。
天海もさぞ鼻高々だったろう。


その後、忍(行田)を経て佐野へ。
忍では城内に入ったらしいが、佐野では惣宗寺(そうしゅうじ)という寺に入っている。
本多正純は寺の中にお迎えの御殿を用意したんだそうな。

このお寺ね・・・
寺名だけを言われてもわからない人が多いと思うけど、
いわゆる「佐野厄除け大師」のことなんです。
はい、ここのお大師さんとは、 良源さん のことですよ。

惣宗寺の歴史は古い。
当初は法相宗としてスタートしたが、鎌倉期に入って天台へ改宗。
良源さんを祀るようになったのがいつからなのか、
ネットで調べただけじゃわからなかったけど、なんかこの辺、クサイ。

忍から佐野までは23キロぐらいなのかな。
でも、もっと長い距離を移動している日もあって、むしろ忍~佐野間は短いぐらい。

領主の本多正純がわざわざ御殿を新調するぐらい気合が入ってたんなら、
自分の城で神輿を迎えたいと正純は思ったんじゃないのか。
でも、惣宗寺へ入った。
なら、すでにこの時点で惣宗寺では良源さんを祀っており、
それゆえに天海が惣宗寺を指定したんじゃないだろうか。
ま、それは想像ですが。


その後の鹿沼での滞在が異様に長いけど、これはもう日光入りを目前にして
日程調整のためだったとも考えられる。



『東照宮御鎮座之記』によると、天海が行列の先頭に立ち、
続いて叡山の高僧や学者などがつき従った。
お供は綾錦を着て、目を見張るほどの美しさだったそうな。

『御鎮座之記』を書いたのは公家の烏丸光広。
また余談になりますが、この方は色んなエピソードをお持ちです。
たとえば、こんな話がある。


  光広が江戸に長く滞在して、京に戻ろうという段になって
  留守を預かっていた雑掌が何を思ったか蔵を破壊し、中にある光広のお宝を
  他の家臣にすべて分け与えてしまった。しかし、帰った光広は何も言わなかった。


  「おっかしいな~、なんで何も言わないんだろ・・・
   よし、こっちからつついてみるか」


  と雑掌が

  「殿は長く江戸におられましたので、急に狭い我が家へ戻ったら
   不便に思うんじゃないかと思って蔵を取っ払って庭を広くしておきましたよ」


  「あ~、そっか~。
   で、中にあった物はどうしたの?」


  「みんなで分けっこしました」

  「うんうん、いいね。
   で、お前は何を取ったの?」


  「私は何も取りませんでした」

  「お前も欲がないな。
   ヘンなやつう~!!」


  とからからと笑ったそうな。


「変なのはオマエだろ」 とツッコミ入れたくなりますが、
他にも風呂が大嫌いで無理に入れようとすると子供のようにむずがって
泣き出すことさえあったなんて、変人丸出しのエピソードも多い方です。

妙な性格は書体にも現れ、「寛永の三筆」に並ぶ能書家でありながら
独自のユニークな書体を持っていたそうな。

歌人でもあり、『御鎮座之記』はなかなかの美文だと思う。

この方は御水尾天皇から信頼され、朝幕間の交渉にあたって
ちょいちょい江戸を訪れている。
武家に好意を寄せる公家の中でも、とりわけ幕府寄りだったそうな。

まあ、それも納得いく部分もある。
光広御年30歳の時、あの 猪熊事件 に関わり、恩赦により許されているのだ。
光広が許された経緯はわからないけど、一歩間違えば自分も遠国へ流罪だったし、
多少なりとも幕府に恩義は感じていただろう。




さて、4月4日に日光入りした家康の遺骸は8日に奥院に葬られ、
14日には御仮殿に神霊が遷された。

ここでいう御仮殿は、残念ながら現在日光で見られる 御仮殿 じゃありません。
あれの建築年代ははっきりしてないものの、少なくとも家光による
寛永の大造替の際に建て替えてるからね。

16日の夜から17日にかけて正遷座祭が行われ、秀忠も列席。
以上をもって、東照大権現様のお引っ越しが完了です。
興味のない方には「家康は死んで神になった」の一言で充分でしょうが、
そんな言葉じゃ済まされないほど、沢山の人の色々な思いが複雑に交差して
ここに至っています。


家康の遺言の話が本当であれば、
故人の遺志に反する形で物事が進められた結果になります。
天海にあまり好意を持たない(と思われる)人に言わせると、

 「自分の権勢をより高めるために、遺言だとゴリ押しして
  強引に日光への遷座を進めた」

という感じの説明になるけど、ここまで読んだ皆様はどう思います?

まあ、私が天海を中心にした内容で書き進めてきたので、
悪感情を持った方はあまりいないのかもしれませんが、
実はわたくし、天海が好きという訳ではありません。

気づいてた方もおられるかもしれませんが、
好きというなら、天海より崇伝の方が好きだな

なんでかはわかりません。
崇伝のことは、現段階ではろくろく知りません。
ま、好きになるのに理由なんていらないし(←いつものパターン)

それでもああいう記事になったのは、わずか数年であの家康に引きたてられ、
その後も家光の代で死ぬまでその地位を保ったのはなぜなんだろう?
という素朴な疑問を自分なりに考えたからです。


前々回、「天性明るく寛容」という安藤良平氏の天海に対する評を紹介しましたが、
天海はただの大らかで明るくて寛容でのんきなジイさんではありません。

天海が家光に託したとされる5つの遺言の中に、
「天台宗を繁栄させること」 という項目が入っていましたね。

天海の遺言の話が事実じゃなかったとしても、少年の頃に出家して以来
天台ひとすじだった天海はそういう思いを確かに持っていました。
それは、他の寺に対する天海の行動から窺えます。
要するに、一つでも多くの寺を天台に引き込もうと結構強引な事を
している訳です。

そういう面も確実にあるため、多少の悪意を含んだ
「天海は自分のために家康(のホネ)を奪った」という説明も
あながち的外れではないと私は思っています。


その一例として、日光輪王寺所蔵の什宝を2つご紹介しましょう。

ひとつは「御案」(ぎょあん)。
え~、書物などを載せるお盆に天蓋がくっ付いてるようなもんだと思ってください。
木製ですが、金箔が貼ってあるようです。

 【寺伝に徳川家康公が久能山より日光山に遷座の折りに用いられたと伝える。
  青貝摺に透金具で、美しく仕上げられている。】


もうひとつは、「行事壇(ぎょうじだん) 伝天海所用」。
天台の護摩とか法要を見たことのある方はわかるかもしれませんが、
平たく言えば導師の仕事場です。
真ん中に座る場所があり、その前に細長いテーブル、
左右の両脇にサイドテーブルがあり、密具などが置かれます。
蓮唐草蒔絵、寛永18年(1641)作。

 【金剛盤の裏面陰刻銘「寛永辛巳四月十七日 日光山東照社御宝前」により、
  寛永18年東照宮法要の折り新調された一具であることがわかる。
  天海大僧正入滅の2年前、大僧正晩年の壇具である。堂宇の復興に尽力した
  大僧正は、法具・荘厳具なども整備、徳川氏の祖廟を荘厳(しょうごん)するに
  ふさわしい、当代記述の粋を極めた工芸品を現在に伝えている。】
  (【】内はいずれも『日光山と徳川四〇〇年の文化』より)


まあ、徳川将軍初代の廟を管理するとなれば管理人もそれなりの体裁を整えるのは
当然のことでもありますが、現実問題として廟を管理することは
その分だけ収入もアップするし、名声も上がる。
これほどいいテはないとも言えるでしょう。

だから、自分と天台のために日光遷座を計画したという面も
確かにあるんだろうとは思います。
ただ、その比率はそう高くはないんじゃないかと思うけど。

個人的意見をあえて言いますと、天海が何を考えてたかは
ここではあまり問題にはならないと思います。

家康の遺言はムシ、崇伝と吉田家を出し抜いて権現号を認めさせ、
自宗の繁栄のために家康を日光へ連れ去った。
事実がそんなえげつないものだったとしても、いいんです。

家康の遺言のエピソードが事実だったのであれば、家康は死後を天海に託した。
たとえ不純な動機であったとしても、天海は自分のトシもかえりみず奔走して
日光へ権現として祀り上げることに成功した。
「東照大権現」はその後、幕府の精神的支柱として君臨し続けた。

ちゃんと結果を出してるんです。
だから、結果オーライなんです。

ここまであれこれ書いてきたくせに、今さら何てこと言うんだ!と
呆れる方もおられるかもしれませんが、自分なりに事の推移を分析・想像するのとは
また別のところにある意見です。


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最終更新日  2014年07月28日 21時31分33秒


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