戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年02月26日
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カテゴリ: 上野と寛永寺
ところで、なぜに東照宮は日光なのか。

家康が自分の死後を天海に託したから?
でも、それだったら仙波でもよくね?
なんでまた、江戸から遠い日光なのだ?

世間で多く語られるものには、江戸城から北にあり鬼門にあたるという説。
それから、北極星がうんたらという説。
ま、いわゆる風水っぽい説明が賑やかに語られる。

私は占いだとかは好きな方だけど、なぜか東照宮に関するそのテの話は受け付けない。
ゆえに、そういう類のものはほとんど読まない。


まあ、そういうちょっとアヤシゲな話でも執筆者の方々は入念な考察の上に
書いてるんだとは思うけど、私はどうも性に合わないので、そっち系の話は書きません。
別にそういう説をバカにしてるんじゃないので誤解しないでね。

何話か前に、アマテラスから東照大権現の名を選んだんじゃないかという
思い付きの案を書きまして、「東を照らす神」なんだから
「日光」の地名がふさわしいという考え方もできますが、
天海が寛永年間に入って天台の教義や伝承などを基に「東照社縁起」をまとめたように、
あくまでそれも後付けの理論だと思う。



少し前に日光輪王寺のサイトを見ていた時、こんな記述を見つけました。


 【日光山に帰依していた源頼朝は、従兄弟であり熱田神宮大宮司の子である
  観纏(かんてん)を座主職に任じます。観纏は早々にその職を退きますが、

  絆は深まり、頼朝が父義朝の菩提を弔うため鎌倉に創建した勝長寿院別当の
  貴族座主が日光山座主を兼務するという新しい形態が成立しました。

  日光山第24世弁覚法印(在位1209-51)が日光山を統括する本院として
  光明院の称号を得てより、光明院院主は、常には鎌倉に住し勝長寿院別当と兼務で
  日光山の寺務を執ります。】



光明院主は、弁覚以降は親王家または鎌倉将軍家の一族が院主を務めたという。
皇族出身者が日光と鎌倉を兼務し、院主は普段は鎌倉に住んでいた・・・
そうです、のちの輪王寺宮と同じスタイルなんですよ。

てことは、すでに日光には山主を兼帯する前例があったわけだ。


私が読んだ本などはどれも「天海が日光を任され、その後寛永寺を創建して
東叡山と日光を兼帯した」という簡単なことしか書かれていなかった。

日光の山主になったのはいい。
寛永寺を創建したのもいい。
でも、なんで両方を兼務するわけ?

私の素朴な疑問を解決してくれる解説書には出会わなかった。
でも、上の文章を読んで



ってやっと納得がいった。


日光は関東随一の霊場だし、歴史も古い。
家康自身は生前は日光へは行ったことがないみたいだけど、
天海からその様子は聞かされていただろう。
そうしたことに加え、頼朝が帰依していたことがポイント高いんじゃないだろうか。

家康は頼朝に私淑していたと言われる。
家康が開いた江戸幕府は、一般論として鎌倉・室町に続く第3の武家政権。
そう、ここでも家康は3番手なのだ。
頼朝の政策を見て自己の様々な政権運営に役立てた可能性もある。

小田原攻め以降、日光は秀吉に寺領を没収されて衰退した。
日光輪王寺のホームページにはそんなこと書かれてないけど、
闕所も同然の状態だったかもしれない。
それを、家康の命を受けた天海が復興させた。

寛永寺創建プランと宮を迎えるプランを建てた時期については
あれこれ思考の波に揉まれましたが(笑)、
今はやはり家康の生前、それも結構早い時期に発案したんじゃないかと思っている。

あるいは、鎌倉期に山主兼帯の例があったことから
宮を迎えることを思いついたかもしれない。

その前例は家康が天海に教えたのかもしれないし、
逆に天海が家康に教えてそれじゃウチらも真似っこしちゃおって
2人で盛りあがったかもしれない。

ともかく、家康が日光を指定したこと、天海が日光と寛永寺を兼帯して
公海を経てそのまま輪王寺宮に引き継がれたことは
頼朝の前例と無縁だとは私には思えない。




さて、ちょっと話は変わります。

日光輪王寺の上の文章からヒントを得たのはごく最近のことですが、
それまでなぜ2つの寺を1人の山主が持たなければならないのか、
という疑問をずっと引きずっていました。

で、櫛田良道氏の学位論文『近世における将軍家祈祷寺について
-護持院を中心として-』の要旨をまとめたものに出会って、
寛永寺と日光輪王寺にはそれぞれの役割があったことを理解したので、
学位論文の要旨をさらに要約してご紹介します。


まず、徳川将軍家の祈祷寺に関する研究は、制度史・宗教史の両面から
進められることがほとんどなかったんだそうな。
つまり、「祈祷寺」って言ってもその詳しい内容はわかってなかったって事だな。

 【先論の緻密な研究蓄積により護持院については様相が解明され、その性格は
  「奥向」とされている一方で、寛永寺については明確な史料提示がされないまま
  将軍家祈祷寺として認知され、その性格は「表向」とされている。表・奥これら二つの
  性格を合わせてこそ、将軍家祈祷寺の全体像は浮き彫りとなる。】

とした上で、寛永寺に関する問題を挙げている。

 【1、寛永寺における祈祷実態の様相を伝える日鑑や年中行事記などの寺院史料不足。
  2、祈祷寺でありながらも菩提寺の性格を有したことによる機能の曖昧化。
  3、寛永寺門跡が輪王寺門跡・天台座主を兼任したことによる機能の同一視。】


これらを念頭に置いて、まずは「将軍家祈祷寺の様相」の章で新義真言宗の護持院と
護国寺の祈祷実態の内容を比較した結果、【将軍家の祈祷のみを実施する
山内機構を有する護持院の方が、将軍家祈祷寺として相応しい】と論証。

続いて天台宗の寛永寺・輪王寺・覚樹王院の祈祷事例から
寛永寺の解明にアプローチしたところ、

 【そこからは寛永寺の祈祷実施の実態は見えず、むしろ輪王寺の祈祷寺としての
  性格が浮上した。それは家康が逝去後に日本国の鎮守神=東照大権現へと
  神格化することにより構築した幕府の宗教権威に大きく係わる内容であることが
  指摘できる。このことから、輪王寺の祈祷体制が幕府の朝廷を意識した宗教権威の  
  上昇を目的として存在したと判断できる。

  よって、寛永寺・輪王寺の機能は別々に存在したと考えられ、輪王寺門跡は、
  将軍政治の中心たる東照大権現の祭祀と幕府の視点からの鎮護国家を担い、
  その門跡が江戸では寛永寺住持として存在し、将軍政治における宗教権威の
  象徴として存在する、と言うことに存在意義があったと考えられる。

  従って寛永寺の存在意義は、将軍政治の中心部分に在ったと指摘することができ、
  護持院の有する純粋な祈祷寺院の性格とは全く別次元に在ったと論証できる。】


その次の章では『御触書集成』にある諸寺院への祈祷命令のお触れを分析。
しかし、御触が表向から出されているのにそこに寛永寺の名はなく、
その他の史料からは将軍家祈祷寺の中でも護持院が代表的存在と認識されていたそうな。
つまり、同じ祈祷寺と言っても護持院と寛永寺とでは存在意義が違うんだと。
で、結論では


 【寛永寺の性格は兼任した輪王寺で実施された祈祷により判断できる。即ち、幕府が
  直面した「朝廷を超越することが不可能」という現実問題への解決策として、
  宗教権威を取り入れることにより朝廷に準拠する政治権力を形成し、国内支配を
  継続させて行くことに目的が置かれていたと判断する。

  従って、将軍家と言うよりも、幕府が打ち立てた「公儀」的な意味合いを有した
  祈祷寺であったと捉えることが出来る。従って、両寺院のどちらが将軍家祈祷寺
  として相応しいのかと言うよりも、護持院が「将軍政治の内部部分」、寛永寺が
  「将軍政治の朝廷を意識した外部部分」を担う祈祷寺として機能を果たしていたと
  言える。こうした定義付けをすれば、両者は機能を干渉することなく幕府権力の
  下に上手く調和し祈祷寺としての職務を果たせていた可能性を指摘できる。】



なるほどね~。
だから宮はわざわざ日光に出張したのか。

そういえば、天海も家綱の誕生祈願の時は日光へ行ってるよな。
せっかく秀忠が近くに寛永寺を造ってくれたんだし、寛永寺には慈恵堂もあるんだから
江戸でやりゃいいのに、わ~ざわざ寛永寺の僧を引き連れて
新たに日光に 天狗堂 まで建てて大規模な祈祷会をしている。

輪王寺宮が誕生したのも、天海が誕生祈願をしたのも、日光に東照宮ができた後。
当然、東照宮があるからこそ日光を祈祷の場に選んだのだろう。
私が知っている数少ない日光の祈祷例は、確かにどれも国家鎮護のための祈祷だよな。

天海が複数の寺を兼務したのが日光と寛永寺だけだったら、
自己の権勢キープのために日光を手放さなかったという見方もできる。
寛永寺の創建は日光に東照宮ができた後だからね。

だけど、東照宮ができる以前から天海は日光と喜多院を管理していた。
家康がなぜ日光を選んだのか、単品だけで考えるなら風水系の説でもまかなえる。
天海の寺だったから日光を指名した、という説でも単品ならアリだとは思う。

ただ、その前段階として天海が日光と喜多院を兼務していたことにまで
踏み込むと、それらの説だけじゃ納得いく説明にはならない。
日光が鬼門で江戸城の鎮護に適していて、家康が死後に日光に落ち着こうと考えたのなら、
天海は日光だけを管理してればいいじゃないか。


で、これらを踏まえてわたくしの推測をまとめますと、
家康の生前には頼朝の前例を踏襲する方向性が出来上がっていた。
あるいは初めから日光を国家鎮護の寺とする構想もあったかもしれない。
天海は日光を復興させ、ここを押さえた。

論議を通して天海の天台で神となる思いを固めた家康は、
遺言の場にも天海を臨席させ、死後を託した。
天海は頑張って権現号の勅許を得、家康を日光に移して
アマテラスに並ぶ国家鎮護の神として祀り上げた。

朝廷との軋轢などもあり、宮を江戸にお迎えするのには少し時間がかかったが、
朝廷の宗教的権威を越える存在を宮に求め、秀忠および幕閣も理解を示し、
日光は祈祷の場として位置付け、そして江戸城に近い場所に
宗教的権威の象徴である宮を住まわせるために、幕府の全面バックアップにより寛永寺を創建。
周囲も都育ちの宮のために整えていった・・・


ま、最後の宮に関する部分は我ながらちょっとゴーインかな~とも思うけどね

世間で言われるように、叡山の勢力から何から江戸に移すために寛永寺を創建して
堂宇や地名も叡山にならった、ってのが正しいのかもしれないけど、
どうも私には素直に受け入れられない。

ただ、京から遠く離れた江戸に来た宮を慰めるために叡山周辺の名称を付けたなんてのは、
少女趣味もいいとこだという気もするけど。アハハハ。

宮に関する部分の推測は今後変わってくる可能性もあるけど、ひとまず今はこれまで。


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最終更新日  2014年07月28日 21時30分37秒


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