戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年03月01日
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カテゴリ: 上野と寛永寺
今日から3月ですね。
抜歯手術 からちょうど1年経つんだなあ。

今日はちょっと出かけてきましたが、関東だから電車も1時間に2本ぐらいは
あるだろうと思っていたら、なんと昼間は1時間に1本しかない路線だった。
前の電車が行ったばかりだったので、イナカの駅で50分くらい待たされましたよ。 
今日はせっかく早目に行動を切り上げたのに



さてと、今回は東照宮の広がりについて『神君家康の誕生』(曽根原理著)と
『東照宮信仰の広がり』(高藤晴俊著)あたりを参考にざっとご紹介します。

が、今回の本題に入る前にちょっと前回の補足をば。

たった今気がつきました(笑)。


 【慶長19年(1614)3月、家康の命によって京都五山の僧侶18名が、
  駿府に呼び出され、「論語」為政編冒頭の「政を為すに徳を以てするは、
  譬へば北辰の其の所に居て、衆星の之に共(むか)ふが如し」との一説を
  題材に作文を命ぜられている。(中略)その内容は基本的には、「天体は
  北極星を中心に周回するように、現在の政治は家康を中心に動いている」
  として、家康を北極星に見立て、治政の王として讃える論調である。】


この前年には天海が日光に入っている。

前回の私の推測、日光を早くから国家鎮護の祈祷場としての霊場に
据えるつもりだったろうという見方は変わらない。

その上で、こうした出来事があったのであれば、

当代の磧学に意見を聞きたかったんじゃないだろうか、って思った。

高藤氏は続けて、日光が江戸の北にあること、
空海が「二荒」を「日光」に改めた際に北極星が出現したという伝承、
頼朝が日光を信仰していたこと、など家康の求める「北方」には
日光がふさわしいと天海が家康に説明しただろうとしておられる。


北極星だの鬼門だのって理屈はあくまで後付けのものだと思うんだよね。



さて、それじゃ今回の本題に入ります。


元和3年(1617)、日光に東照社が完成。久能山の方も同時進行で
            工事が進められた。

元和4年(1618)、秀忠が「日光、遠くて不便」と言い出し、
            江戸城西の丸東北の紅葉山に東照社を勧請。

元和5年(1619)、尾張家の義直(家康の9男)が名古屋城三の丸に勧請。

元和7年(1621)、水戸家の頼房(家康の11男)が水戸に勧請。
            紀伊家の頼宣(家康の10男)が紀州に勧請。


ここまでが将軍家および御三家による勧請の先駆け。
「兄ちゃん、ずるい~!」と言いたげに、弟たちが競うように勧請しまくる。
導師はすべて天海が務め、水戸家の時には縄張にも参加している。

それぞれの東照社は若干の違いもあるものの、日光に準じた規模で、
紅葉山の正遷宮の際は将軍・勅使・公卿・在府の諸大名が束帯の正装で参列。
水戸家の儀式の時には、尾張家に「ねえねえ兄ちゃん、いくらかけたの?」って
法会の費用の明細を送ってもらっているそうで、
横並びに格調高く法要が行われたらしい

紅葉山には、秀忠以降歴代将軍の御霊屋も造られた。
寛永13年(1636)には紅葉山へ参詣する際の服装を定めた命が出され、
家康の祥月命日の4月17日、それから正月17日の時には直垂大紋、
5・9・12月の17日には長袴のやや略式スタイルが大名達の服装とされた。
そして、これをもって江戸詰めの際の大名達には年5回の紅葉山への
参詣が義務付けられた。

これらの東照社の別当には、天海の法統を継ぐ天台僧が任じられた。



寛永2年(1625)、寛永寺創建。

寛永4年(1627)、上野に勧請。

寛永9年(1632)、八日市場(千葉県匝瑳市)に勧請。

寛永10年(1633)、天海が仙波喜多院の隣に勧請。

寛永11年(1634)、天海が叡山に勧請。

寛永13年(1636)、日光で「寛永の大造替」始まる。

寛永21年(1644)、日光の大造替で撤去された社殿や多宝塔を移築して
             上州世良田に勧請。


ここまでが、天海の発案による勧請。

いきなり八日市場なんて関係なさそうな地名が出てくるけど、
これは家康が鷹狩りに出かけた際、家康の鷹が行方不明になってしまい、
真言宗医王寺の僧が祈祷をしたところ、鷹が降りてきて境内の松に止まったという
伝承があり、調伏させられた鷹が止まった松を「御鷹松」と呼んだ。

それを聞きつけた天海が松の根元に少祠を建てて東照社を勧請したと
いわれているもので、医王寺は勧請した時に天台に改宗したという。


最後の世良田は自称・新田氏の子孫の徳川氏発祥の地とされていたもので、
長楽寺の境内に勧請された。
長楽寺はもとは臨済だったが、天海が寛永16年(1639)に
天台に改宗させたという。

天台への改宗は家康の下命があったとも言うけど、
家康の死から20年以上経ってるからな(笑)。

まあこれは、世良田が徳川氏発祥の地とされたことから
「家康公の御遺命」と天海が大ボラ吹いて改宗させたような気もするけど、
他の理由もある。

寛永21年ったら天海はもう死んでるけど、あくまでそれは正遷宮の年で、
寛永19年には社殿などの移築が始まっていたと思われる。
だから天海の発案としても別に不思議じゃない。

「上野第二編(13)」 で天海の前半生を紹介しましたが、
会津で稲荷堂の別当になった後、長楽寺で「葉上流灌頂」の伝法を受けたそうな。

そういう、徳川氏と天海のダブルのゆかりがあったので
世良田の長楽寺が選ばれたんじゃないかと思う。

ここまでのうち、日光・上野・久能山・紅葉山は幕府の直轄。



今度は大名達の国許への勧請。


元和3年(1617)、弘前藩(津軽氏)が勧請。

寛永17年(1640)、加賀藩(前田氏)が勧請。寛永寺から御神体を迎える。

正保2年(1645)、岡山藩(池田氏)が勧請。光政君は天海の生前に勧請を
            依頼していたらしいが、天海の没後に将軍家から特別の
            許可をもらって勧請したそうな。開眼供養は公海が務めた。

正保3年(1646)、広島藩(浅野氏)が勧請。

慶安元年(1648)、鳥取藩(池田氏)が勧請。
            宇都宮藩(奥平氏)が勧請。

承応元年(1652)、福岡藩(黒田氏)が勧請。

承応3年(1654)、仙台藩(伊達氏)が勧請。


津軽氏、はええなあ~(笑)。
津軽さんちの信枚(のぶひら)さんは、家康の養女・ 満天姫 を妻にしてるからな。
ちなみに、津軽さんちにはこんな伝承があるそうな。

 【「天海は津軽信枚に、城内に東照宮を勧請しておけば、もし南部が津軽に
  敵対したとき、これは徳川に弓を引いたことになるからと、東照宮の勧請を
  幕府に願い出るよう勧める一方、将軍秀忠には、津軽は家康の養女満天姫が
  嫁いでおり、また南部や佐竹を抑える北方の要であるからと、願い出を許可するよう
  助言。さらに、南部はけしからんから、仮に東照宮勧請を願い出ても、これは
  認めるべきではない」と進言したという。】
  (『東照宮信仰の広がり』より)


相当うさんくさい話だと思うけど、高藤氏によると今日までの調査では南部家による
勧請は確認されていないという。

ここまでは比較的初期の、それも結構な規模の社殿を有する勧請例。
それぞれ、各地域の他の寺の石高を越える東照宮領、もしくは祭祀料が寄進された。

トータルで見ると、天台以外の寺でも東照宮の勧請があるらしいが、
やっぱり重要なところは寛永寺や天台僧が別当になっている。


勧請した大名各家によっても色々違いはあるらしい。

たとえば黒田氏。
日光にも デカい石鳥居 を吉兵衛長政が奉納してるけど、
吉兵衛が国許に戻った際には香椎宮や大宰府などの古刹よりも先に
まず東照宮に参詣してるんだと。

弘前藩を除く上の大名家では、東照宮の祭礼を城下町の重要な行事として位置づけ、
祭礼には藩主が観覧したり、町人の練物行列が華やかに行われたりしたらしいが、
岡山・鳥取の池田家組は藩主の威光を示すことに重きが置かれ、
仙台藩では町人との交流の方が大きかったんだと。



高藤氏の調査・研究によると、神社境内の末社となったものまで含めると、
全国の東照宮の数は600にも上るという。
ある程度の地域の偏りはあるものの、北は択捉島から南は沖縄まで、
全国津々浦々に東照宮があったらしい。

私がこれまで旅先で見た東照宮は、名古屋が2つと 忍領 だったかな。
忍は結構譜代があれこれ入っているから当然だよな~と思ってたんだけど、
『神君家康の誕生』によると、意外なことに大名家による勧請は全体の2割ぐらいだそうで、
【とくに譜代大名は臣下の分際を配慮し勧請を遠慮した】だそうな。

まあ、忍領には多く譜代が入ってるとはいえ、元々は奥平松平氏の勧請だから、
一門によるものってことになるのかな。


家光の腹違いの弟・保科正之については 「上野第二編(41)」 で少し紹介してますが、
忠義者だけあって東照宮も熱烈に信仰していた。

東照宮ファンでかつ熱心な朱子学信者だった正之の考えは、
原則東照宮を祀ることができるのは将軍や領主から認められた場合で、
藩が城下で祀るべきというものだったらしい。

たとえば、会津領内の日光輪王寺の末寺が、

「権現様から家光公までのお位牌を安置してましたが、
寺が破損しちゃったので臨時に薬師堂を修復して
仮置き場にしてるんです。
ちょっと修復費が足りないので、お金ください」


って願い出たところ、

「権現様と縁もゆかりもないイナカにお位牌を置くのは
かえって権現様を汚すようなものだ!」


として却下。
また、別の浄土宗の寺から

「うちは増上寺の存応上人から権現様のお位牌を賜ってるんです。
由緒がある寺なんで、『殺生禁断』の高札を揚げても
いいですか?」


と上申したところ、正之は

「由緒~?ハッ
別にお前んとこは将軍家やワシから認められたものでもないし、
単に僧侶内での由緒じゃないか。
だいたい、田舎の小庵なんかに権現様のお位牌を置くなんざ、
かえって権現様に無礼じゃないか!」


としてこれまた却下。
なんか、わかりやすい人だよね


そうは言っても、会津でも民間で祀られた例もあったようで、
他の地域、特に家康にゆかりの深い東海・関東などでは
民間の東照宮も多かったそうな。


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最終更新日  2014年07月28日 21時30分07秒


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