戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年03月08日
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カテゴリ: 上野と寛永寺
「およつ御寮人事件」に関するウィキペディアの記述は、まず与右衛門の項では

 【元和6年(1620)に秀忠の5女・和子が入内する際には自ら志願して
  露払い役を務め、宮中の和子入内反対派公家の前で「和子姫が入内できなかった場合は
  責任をとり御所で切腹する」と言い放ち、強引な手段で押し切ったという。】

とあり、およつ御寮人事件の項には

 【事件の前年、娘和子の入内を進めていた2代将軍徳川秀忠と御台所江与は、
  典侍四辻与津子(お与津御寮人)が親王(賀茂宮)を生んだことを知って激怒、
  更に与津子が懐妊したと知った秀忠は元和5年9月18日、与津子の振る舞いを
  宮中における不行跡であるとして和子入内を推進していた武家伝奏広橋兼勝と共に


  (中略)これに憤慨した天皇は退位しようとするが、江戸幕府の使者である藤堂高虎が
  天皇を恫喝、与津子の追放・出家と和子の入内を強要した。元和6年(1620)
  6月18日に和子の入内が実現すると、これに満足した秀忠は、今度は処罰した6名の
  赦免・復職を命じる大赦を天皇に強要した。】

とある。
これがほぼ世間一般での入内問題に関する通説になると思いますので、
まずここを押さえてくださいね。

久保文武氏の『徳川和子の入内と藤堂高虎』にはこのあたりの経緯が
比較的詳しく解説されているので、そちらから実際の流れを見てみましょう。



秀忠の詳しい在京期間は私は知らない。
が、前回元和5年4月の終わりに膳所まで来たことを書いているので、


その間、大坂や伏見あたりに行きながら、前回紹介した4つの目的を果たすべく
色々行動していたのだろう。


6月20日、与津子に第2子(女子)が生まれる。
秀忠が京付近にいる間にまた子が生まれたもんだから、
さすがの秀忠も内心相当怒っただろうが、すぐには大事にならなかった。


幕府の方針が後水尾天皇の耳にも入ったらしく、
9月5日付けで帝から弟・近衛信尋へ書状が送られている。


「このたびは藤堂高虎にも色々手を尽くしてもらって感謝しているけれども、
今年の入内は先送りされたと聞きました。
我らの不行跡がさぞかし秀忠公のお心にそぐわないのでしょう。

このまま入内が進まないことは双方の面目にも関わるので、
私にも弟が大勢いるしどれでもお好きな者を選んで即位させ、
私は落髪してひきこもれば済むことです。

入内を今年は引き延ばすというのであれば、藤堂高虎が譲位の件を
整えてくれればその恩は生涯忘れないと伝えてください。」



と、信尋を介して譲位の意図を伝え、与右衛門を頼りにしていると
持ち上げている。

 【後水尾天皇は当時、23・4の血気盛り、然も気骨のある天皇であるので
  事の成り行きは致し方ない事であろうし、こうなることは敢えて承知の上での
  行為であろう。

  しかし、後水尾天皇に譲位されては、幕府は家康以来の宿望は無に帰してしまう。
  何の為の今日までの入内の画策・準備であったのか。(中略)後水尾天皇としては
  宮廷内に種々昵懇の多い高虎とはいえ、所詮は幕府方であり、その高虎に叶わぬまでも
  強い望みを托していることは、幕府に対する抵抗の表明であるといえよう。(中略)
  しかし、高虎はあくまで幕府方の人間であるので、譲位の件は何としても思いとどまらしめ、
  入内実現の線で奔走したこと勿論であろう。】
  (『徳川和子の入内と藤堂高虎』より)



9月7日、秀忠は大坂城を見た後伏見へ廻り、直ちに江戸へ帰る準備を始める。
この9月には京都所司代が板倉勝重から子の重宗へと代替わりしており、
重宗も秀忠と共に江戸に帰ったらしい。

そして9月18日、秀忠が離京。同時に公卿衆への処罰を行った。
その内容は、帝の側近の不行跡を責めて6人を流罪・出仕停止としたもので、
出仕停止になったうちの2名は与津子の兄弟だった。

 【これは秀忠の滞京中に四ツ局に皇女梅宮の誕生もあり、皇子・皇女の誕生に対する
  秀忠の明らかな報復ともいえる。(中略)後水尾天皇の側近衆への裁断は秀忠の在洛中は
  ほとんど問題にされず、秀忠の帰還と同時に実行に移された(後略)】
 (『徳川和子の入内と藤堂高虎』より)


これは当然まろ軍団の反発を呼び、武家伝奏役の広橋兼勝は
「300年以来の奸佞の賊臣」であり、蘇我入鹿・物部守屋の倍も悪い奴だと
ボロクソ言われている。

もちろん、帝も怒った。
して、10月18日には再び信尋へあてて書状を送った。


「将軍に対して何ら含むところはないものの、私には器量がないから、
とにかく譲位をしたいとよろしく将軍に伝えてほしい。
今日、貴方と板倉勝重・藤堂高虎が参内したそうですね。

今度の公家衆法度はもっともなことであり、これも我らの不器用に
よるものだから、将軍もさぞ見限られたのだろうと恥じ入るばかりです。

この上は、我らの兄弟のどれでも即位させれば王法は正しくなるでしょう。
私の即位は家康公のお力添えによるもので、はや在位も8年になりますが、
もう譲位して隠居暮らしをしたいので、板倉勝重と藤堂高虎から将軍へ
頼んでくれるよう、貴方の口から2人へ伝えてください。」



自分が悪いんだろうと女好きの帝様に言いたいところだけど、
自分が譲位すれば幕府方だって困ることはわかっている。

前回、幕府から朝廷方への一連の法令を紹介しましたが、
じわじわと幕府からの締め付けが厳しくなる事にもいいかげん
頭を痛めていただろうし、その上将軍の娘が嫁いでくるとなれば、
今以上に幕府の干渉も増えることは目に見えていたから、
与津子のことは確かにささやかな反抗(ただし、結果は重大)だったのかもな。

与右衛門、この時62歳。
前京都所司代の板倉勝重は74歳。
後水尾天皇がやけにこの2人を頼りにしてるあたり、
それ以前に幕府方にありながらも朝廷を尊重する姿勢を見せていたのだろう。


 【高虎等がどんな奔走したか、宮中武家両方の事情にもくわしい「本光国師日記」
  にも全く知る史料がない。ただ、勝重・高虎の老練派の事故何とか天皇側の
  面目も立てて譲位を思い止まらせようとしたことは想像できる。】
  (『徳川和子の入内と藤堂高虎』より)


「本光国師」は崇伝のことです。
私はまだ『慈眼大師全集』に収められてる部分の、
さらに一部分しか『本光国師日記』は読んでないんだけど、
崇伝は板倉勝重とも色々やり取りがあるようだし、色んなことが書いてあるのに、
それでも崇伝はこの件に関しては詳しい推移を知らなかったのかもしれない。


てことで、史料がないので詳しいことはわからないものの、
ローレン組・・・おそらくは与右衛門が主導して双方に良い解決案を模索した
努力が続けられたものと思われる。


11月12日、16日、まろ軍団で話し合いが持たれる。
11月20日、与右衛門が近衛信尋へ、
「近く板倉重宗が上洛するからそれまでになんとか解決を見たい」という書状を送る。
ただし、残念ながらこの書状は残っていないらしい。

11月29日、与右衛門の20日付け書状に対する信尋の返信がある。
この書きぶりから、

 【重宗の上洛は尋常一様の上洛でないようで、その点については信尋側でも充分 
  考慮しておいてほしいというような内容のものであったと想像される。(中略)
  高虎の妥協案とも考えられる高虎案は一応天皇を満足させたものと思われる。】
  (『徳川和子の入内と藤堂高虎』より)


12月、朝廷側の意向を持って与右衛門は江戸へ帰った。
信尋からは「来春には必ず上洛してね。絶対ね」という内容の書状が送られている。

江戸へ向かった与右衛門と入れ替わるように、板倉重宗が12月に上洛する。

 【案の定、重宗のもたらした江戸の回答は高虎の危惧した強硬意向で、天皇の譲位は
  勿論みとめず、入内も既定方針通り、処罰の公家衆への赦免は早期にはないという
  方針であったと考えられる。高虎の天子へ示した案の内容は不明であるが、(中略)
  その想像がゆるされるならば「譲位は思い止まる、入内も予定通り、ただし入内前に
  勅勘の公家衆の赦免の実現を期す」という内容のものではなかったかと思考する。】
  (『徳川和子の入内と藤堂高虎』より)



明けて元和6年1月8日のある公家の日記によると、この日まろ軍団でも
相談会が行われたらしいが、その内容は「密議之故」書いてないとある。
久保氏は【重宗の提案が書記するもいまいましい内容であったからではなかろうか】と
推察しておられる。

1月20日、27日、28日、まろ軍団に国母(後水尾天皇の母)も加わって相談会。


江戸では1月18日、大坂城工事についての諸大名への割り当てが発表された。
与右衛門の縄張りはかなり秀忠を満足させたそうで、
いよいよ工事開始も間近に迫り、1日でも早くなんとか入内の件を片づけなくちゃならない。


2月24日、与右衛門再上洛。
それを待ち構えていたかのように、近衛信尋から

「先刻うかがったことを国母へも申し上げました。
色々ありがとね。今日はもう遅いし、あなたもお疲れでしょうから
これだけにしとくね」


て書状が届く。
まろ軍団では、与右衛門の上洛を首を長くして待ってたんだろうな
ただ、「先刻うかがった」と言ってもこの日に会った訳でもなさそうなので、
京と江戸の間でも密な書状などのやり取りがあった可能性がある。
電話がない時代は大変だよね~。


上洛した翌日の2月25日、与右衛門から板倉勝重へ

「書状を詳しく拝見しました。
明日、お会いして色々お話しましょう。
大坂では我らの到着を待っているというのに、
この件がのびのびになっていて困ったもんです。
とにかく、明日ね」


てな感じの書状が送られる。
文面の文言から、それまでに与右衛門と勝重のローレン組は
かなり連絡を取りあっていたのだろうと久保氏は語る。

して、2人が会った2月26日、与右衛門から勝重の子・重宗へ

「明日、江戸へ飛脚を送るということですが、ちょっと待って。
今日の朝廷のお返事を聞いてからにしましょうよ。
貴方のお父上とも相談されてはどうですか?
飛脚を送る時には、ワシにお知らせ頂けませんかの~」


てな書状が送られる。
朝尾直弘氏はこの点、

 【新所司代としての気負いのみえる若年の重宗を、高虎・勝重の老功組が制し、
  成算をもってじっくりと事の成行きを見定めようとしている様子がよみとれる。】
  (『徳川和子の入内と藤堂高虎』より)

と解説されておられるそうな。


3月1日の大坂城鍬始めまで、あとわずか。
いよいよ交渉も大詰めです。

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最終更新日  2014年07月27日 22時02分11秒


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