戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年03月09日
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カテゴリ: 上野と寛永寺
与右衛門と前京都所司代の板倉勝重がその行方を見守っていた、
元和6年(1620)2月26日の朝廷の話し合いはどんなものだったか。

まずは食事の後でまろ軍団がそれぞれ意見を言い合い、
夕方になって国母と近衛信尋が除服宣旨を受けて参内、
議論の末に「近頃目出度事也」という結論に至り、
夜が明けてから参加者は退出したという。

長い時間をかけて徹夜で議論が行われ、ようやく解決を見たようだけど、
実は国母(近衛前子)と近衛信尋が途中参戦したことは大きい。


この数日前の2月18日、とある女性が亡くなった。

この方は誠仁(さねひと)親王の女房だったが、ウィキペディアによると
【実質においては妃に近い存在であった】という。

誠仁親王は帝位に就く前に亡くなったが、晴子は親王の子を9人産み、
その中の1人、後陽成天皇が即位したためのちに「新上東門院」と呼ばれる。

つまり、後陽成天皇の妃である近衛前子からすればお姑さんであり、
前子の子である近衛信尋からすると実のバアちゃんにあたる。
ので、前子と信尋は晴子の喪に服していたそうなのだ。

だから、本来であれば当分この2人は喪でおこもりしてなくちゃならないのが、
「除服宣旨」・・・すなわち、忌明けで喪服を脱いで参内したようなんだな。
晴子の死からまだ一週間。
それを、強制的に除服して参内しなければならないと思わせたほど、


しかし、晴子バアちゃんにはお気の毒だけど、この選択は適切だった。

与右衛門が2月28日に幕府に送った報告書からすると、
やはり処分を受けた公家衆の赦免が帝にとっての争点だったらしい。

ホントは入内前に赦免を行って欲しいというのが譲れない条件だったようなのが、
母と弟が説得に加わったことで2月27日夜には

「いかにも御機色よく相済」、6月中に入内の方向で話がまとまった。
公家衆の赦免の件については、入内後に全員に適用させるよう
与右衛門から申し添えられている。

そして、すべて済んだので自分はこれから大坂へ向かい、
大坂城工事に加わる、と報告している。



以上の経緯を見るに、与右衛門と板倉勝重はギリギリの段階まで
穏便に、しかも朝廷方の意向を極力尊重しつつ事の調整に当たっているように
見受けられる。

これのどこが「恫喝」なんじゃい!?と思ったら、
久保氏の解説にはこんな風に書かれていた。


 【最後に高虎の恫喝と慰撫には天皇側も折れざるをえなかったようである。
  恫喝とは多分天皇の左遷、島流しまでも考えているという言辞であろう、
  慰撫とは朝廷と公家衆への経済的な面倒見などであろう。

  朝尾教授は京大所蔵の「藤堂家記」を引き、その史料性に、ことに表現に
  いかがわしい点をみとめられながらも、その内容の真実に近いことを
  認められたのは諸般の事情から考察されてのことであろう。

  恐らく前後の事情から考えて、天子は左遷、高虎は責任上腹を切るということを
  におわせたことは、ことこの段階に至っては充分にありうることである。
  国母と信尋が新上東門院の服喪中にもかかわらず「為別勅除服宣旨下」を得て
  参内し、天皇の姿勢を極力なだめ、秀忠の申出を承服した背景には「藤堂家記」
  の内容に似たやりとりがあったのではあるまいかという朝尾説は説得力がある。】
  (『徳川和子の入内と藤堂高虎』より)


え~、私は「藤堂家記」は読んでませんが、これを見るに、
つまり通説にあるような恫喝野郎・与右衛門のイメージは「藤堂家記」、あるいは
その周辺史料に書かれているところから来ているらしいな。

確かに、最後は意地とプライドのぶつかりあいみたいなもんだから、
これに折り合いをつけさせるためには色々な駆け引きもあっただろう。

与右衛門と板倉勝重の最終目標は、「とにかく入内を成功させること」。
ここは動かない。
これを成し遂げるには、朝廷側には少し折れてもらわなきゃならないし、
幕府側には朝廷に対する心証をこれ以上悪くしないために
とりなしをしなきゃならない。

そうなると、久保氏の解説する朝尾説のような経緯もやはりあっただろうし、
やんわりと匂わせただけにせよ、一種の恫喝と言うことはできる。

ただ、実際の中身はこれまで見てきたようにあちこちと連携を取りながら
大坂城工事の始まるホントに直前まで最善を尽くしたものだったと思われる。

それを、「恫喝」というチョ~大雑把な言葉で、
しかもよりによってなぜ藤堂家サイドの記述としたのか
理解に苦しむところではあるけど、まあ武家だから、
与右衛門の功績を武家風に男らしくカッコ良く表現したつもりだったのかもしれないな。

が、結果的にはこの言葉だけが一人歩きをして、
後世では転職回数の多い変節漢というイメージに
さらに悪印象を植え付ける結果になってしまったように私は思う。


スケジュールが詰まっている中、ようやく直前になって万事良いように
解決を見た与右衛門は、武家伝奏役の広橋兼勝に

「これで老後の面目も果たせましたわい」

と書状を送り、2月28日には苦労を共にした板倉勝重へあてて

「ゆんべはゆっくり眠れましたわい」

と書き送っている。


 【先ず自分がゆっくりと眠れたことを述べ、次に勝重の御心中を察せしめ候と、
  高虎としては思わず本音が出たのであろう。万事に配慮深い高虎のこと故、
  幕府の重臣、然も年長者の勝重を先にして次に自己の情を述べるのが、
  高虎の有り様であるが、この書信には、心身共に安堵した真実が如実に
  語られている。】
  (『徳川和子の入内と藤堂高虎』より)


ハハハ・・・


お疲れさんでござんした~!!」


とねぎらってやりたいところだけど、この翌日には伏見経由で大坂に入り、
3月1日から大坂城の工事に取り掛かっている。


与右衛門が整えた通り、6月には松姫が入内。
ここでも、松姫の姑にあたる近衛前子があれこれ気を配ったという。

後水尾天皇はしばらくは女性関係を控えていたのか、
在位中は松姫だけが子を産んだ。
ただ、広く知られているように、ここにも黒い噂がある。


 【御局衆之はらに宮様いか程も出来申候を、おしころし、又は流し申候事、
  事之外むごく御無念に被思召候、いくたり出来申候共、武家の御孫より外ハ、
  御位に付被申間敷に、余りあらけなき儀とふかく被思召候由に候】


これは細川忠興の書状にあるもので、のちに後水尾天皇が突然退位した理由について
世間でのウワサを書いたものだけど、要するに徳川家の子孫以外は帝位につかせない
という幕府の意向により、松姫以外にもボロボロ子はできたものの、
すべて殺されたり流されたりしたんだってよ~、と忠興は伝えている。

これについては検証する材料もその気も持ち合わせてはいませんが、
別に幕府を擁護するつもりもないものの、これが事実なのかは
相当疑わしいと思ってます。

ただ、細川忠興は崇伝とも親しかったようで宮廷の事情にも詳しかったみたいだから、
多少の事実を反映してる可能性もあるかとは思うけど、
現時点ではこれは単にウワサを書き留めたものにすぎないのではないかと
思っております。

崇伝と細川家とは何かの血縁関係があったとどこかで読んだような気もするんだけど、
崇伝の叔父と細川藤孝(幽斎)はともに足利義昭の救出に貢献してるから、
その縁で親しかったのかもしれないな。
そう、崇伝は武家の(もと)名門・一色氏の出なんですよ。


いや、崇伝はさておき、松姫は7人の子を産んだ。
このうち2人は皇子だったが、どちらも夭折したらしい。

入内の件はローレン組の奔走で落着したものの、
その後も朝幕の関係はアヤしいままだった。

寛永4年(1627)には紫衣事件が起こる。
寛永6年10月にはお福(春日局)が無位無官のくせして帝に内謁を申し出て
「希代之儀」「帝道民ノ塗炭ニ落候事候」と日記類に記される出来事もあり、
その翌月の11月8日、突然松姫との間に生まれた皇女(興子内親王)に譲位する。

ホントにこれはいきなりの事だったようで、安藤氏は

 【これは帝が幕府の不敬に対し、あえて女帝を史上にとどめることによって
  幕府への痛烈な抗議の意思を表明されたものといえよう。】
 (『江戸時代初期の朝幕周旋について』より)

としておられる。
それだけでなく、譲位の後まで幕府に対する憤りがあるということを聞いた秀忠は
「旧例の如く隠岐国に遷し参らせんかというを家光堅く諫めて止めたり」と
渋川春海の『新蘆面命』に伝えられるほど不快に思ったという。

ま、この言い伝えの信憑性についてはどうかと思う面もあるものの、
幕府の定めに従わず勝手な振る舞いもあったようで、
後水尾院と幕府とのしこりはその後も長く続いた。


細川忠興のように朝廷に同情的な見方もあれば、
当然その反対の意見もあった。

後年、家光の死後に後水尾院が突然出家したそうで、『羅山別集』によると

 【私(羅山)がおもうに、後水尾院は先年位を興子内親王に譲られた時もこんな風に唐突で、
  だれにもお計りにならなかった。これからも自儘なおこないを増していかれたならば
  末恐ろしいことであると記し、道春曰く、「嗚呼驕子の父に順はざるを如何とも
  することなし」、とあって、後水尾天皇を驕子にたとえ、武家においては朝廷に対し
  愛惜の念をもっているがこのようなことを院がせられては武家においても辛抱できぬ、
  之に由って考えるに、承久とか或は元弘の場合も必ずしも北条氏のみの罪を論ずる
  わけにもいくまいと述べた。】
  (『江戸時代初期の朝幕周旋について』より)

と朝幕間はかなり緊迫した状況が続いたらしい。


その一方で、後水尾氏の宸翰は 寛永寺 や 日光 など、各地の徳川家ゆかりの場所に
あちこちあった。

他にも、私が知るだけでも家康の13回忌と33回忌には追善の和歌を
宸筆で送っている。
特に、33回忌の方はめちゃくちゃ凝った造りになっていて、
和歌に造詣の深かった後水尾院ならではだという。

和歌の方は企画展などでしか見られないかもしれないけど、
日光にある扁額は今でも普通に目にすることができる( 大猷院 にもある)。
それらを見るたび、一体院はどんな気持ちでこれを書いたのだろうかと
いつも考えてしまうのです。

それにしても、よくこんな状況で宮( 守澄法親王 )をもらえたもんだよな・・・

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最終更新日  2014年07月27日 22時01分40秒


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