戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年03月10日
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カテゴリ: 上野と寛永寺
うう、もう歴バナやめたい・・・
けど、エピソードをあともうひとつだけ(笑)。


「上野第二編(60)」 で幕府から朝廷に対する締め付け法令を紹介してますが、
前回の最後にちらりと顔を出したいわゆる「紫衣事件」について
少々書きたいと思います。

ただ、この一連の問題って思ったより色んな要素がからんでいるようで、
まともに書くと崇伝が主役の話になっちゃいそうなので
なるべく崇伝のことは抑え、与右衛門のことについて書きますのでご了承ください。



まず慶長18年(1613)の「勅許紫衣法度」。

勅許の前に幕府に知らせること、その上で幕府の選考に合格すれば
紫衣の勅許を認めるという内容だった。

その後の元和元年(1615)、「禁中并公家諸法度」では対象を限定せず、
全宗派本山にまで拡大して紫衣の勅許に干渉している。


 【紫衣は本来天皇が自由に決めることであり、紫衣が売官ゆえ天皇家にとっては
  最大の収入源であった。】
  (『崇伝の生涯』/圭室文雄より)

圭室氏によると、各宗派本山への紫衣の発給は膨大な数に上っていたそうで、

 【紫衣(宗内第一位の僧階)・黄衣(第二位の僧階)の僧達が巷にあふれ、
  人々の嘲りもかっていたと記している。(中略)さらにそのほか京都の門跡寺院は
  全国の寺院僧侶の資格のうち、僧正(大・正・権)、僧都(大・正・小・権)、


  これは本山のみでなく全国の寺院を対象とするのでその収入は莫大であり、また
  それを取り次ぐ伝奏家(公家)の収入も同様である。幕府側はこれらの特権を
  細かく制限し、その収入の削減を図った。】
  (『崇伝の生涯』より)

だそうな。

目的のひとつに入っている。

ところが、後水尾天皇はこれに従わなかった。
ウィキペディアによる事件の経緯は、

 【後水尾天皇は従来の慣例通り、幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えた。
  これを知った幕府(3代将軍・徳川家光)は、寛永4年(1627)、事前に勅許の
  相談がなかったことを法度違反とみなして多くの勅許状の無効を宣言し、京都所司代・
  板倉重宗に法度違反の紫衣を取り上げるよう命じた。

  幕府の強硬な態度に対して朝廷は、これまでに授与した紫衣着用の勅許を無効にすることに
  強く反対し、また、大徳寺住職・沢庵宗彭や、妙心寺の東源慧等ら大寺の高僧も、
  朝廷に同調して幕府に抗弁書を提出した。】


沢庵宗彭(たくあん・そうほう)は大徳寺の僧。
「たくあん漬け」はこの沢庵氏に由来するという説もあるけど、
漬け物のようなべったらのんびりした方という訳でもなく(笑)、
大寺の高僧らしくプライドも高くまたなかなか激しい一面を持った人であったらしい。

「上野第二編(45)」 で崇伝の履歴を簡単に紹介してますが、
慶長17年(1612)からは板倉勝重とともに寺社を統括する役割を与えられている。
崇伝は絶大な権力をふるったと言われるが、大徳寺とはいくつかの因縁もあり、
大徳寺と妙心寺についてはちょっと簡単に手が出せない状況でもあったらしい。


「禁中并公家諸法度」を発布した同じ月、大徳寺と妙心寺に対して
同じ内容の法度が出された。
それは5つの内容に分けられ、そのうちの1つ、
出世の条件として30年の修行+1,700の公案透過を課すというのは
特に厳しいものだった。

出世、はコトバンクによると現在使う意味などのほかに
【禅寺の住持となること。特に、紫衣を賜り、師号を受け、
あるいは勅宣を蒙って官寺の住持となること】とある。

公案は一口で言うと、禅におけるなぞなぞみたいなもの?
つまり長く修行して沢山勉強しないと昇進できないぞ、みたいな感じかな。



ただ、この法度は真面目に守られなかったようで、寛永3年(1626)、
幕府は大徳寺と妙心寺に対し厳重注意の上出世の儀を禁止し、
秀忠の口から伝えられた。

ところがその翌年4月、沢庵はおもむろに但馬から京へ出てきて
大徳寺の僧を出世させた。
いい根性してるじゃん。

当然これは問題になり、7月、幕府は元和の法度以降に出世した者は
無効などとする通達を出した。
今度はこれに大徳寺と妙心寺が反発した。

といっても、山内でも意見は恭順と抵抗の2つに分かれたらしいが、
沢庵は強硬派で、大徳寺の僧連名で沢庵が意見書を書いた。

この内容がまたキョーレツで、特に30年修行と1,700公案の件については

「それは家康様のお考えですかね?
それとも、法度の作成者が寺院の事情を知らなかったんですかね?
だいたい、1,700もこなしたなんて自称する奴がいたら、
そいつは嘘つきでしょ~よ!」


てな感じらしい。
ま、「直江状」みたいなもんかな

「禁中并公家諸法度」は崇伝が起草したともされる。
その後の7月の通達を出した際にも崇伝は会議に参加しており、
要するにこの件については崇伝が深く関わっている。

なもんだから、沢庵の痛烈な抗弁書に崇伝が怒るのは無理もない。
京都所司代・板倉重宗経由で江戸へ渡った抗弁書を見せられた崇伝は、
その日の日記をぷりぷり怒って書いている。

大徳寺と妙心寺の穏健派はその後も詫び状を提出するなどしたが、
大徳寺強硬派は相変わらずとんがったままだった。


寛永6年(1629)2月、沢庵は江戸へ召喚される。
秀忠は当初、沢庵らを島流しにするつもりだったとも言われる。
江戸に入るとまず沢庵は小堀遠州らを通じて与右衛門の居所を尋ねたそうな。
して、幕府は天海、崇伝、そして与右衛門を集めて対応を協議した。


 崇伝:ご法度に背いたことを自ら白状してるんだから、
    こりゃもう全員きつ~くお仕置きすべきでしょう!


 天海:ま、その必要はないでしょう。
    例の書付の件については沢庵殿が自分1人の責任だと
    言ってるんじゃし、玉室・東源はおとがめなしとして、
    沢庵殿はお好きなように処分したらよいじゃろう。

    大体、経緯を話すことを白状と言うもんじゃが、
    初めっから話しとるのは白状とは言わんでしょ。
    寺のためを思って己を捨てて書付を出すなんざ、
    近頃奇特なお人というもんじゃ。
    ワシの寺には今はそんな者おらんしの~。フォッフォッフォッ。

    しかしまあ、ご法度に触れるような事をしでかしたのはいかん。
    この責任を沢庵殿1人に押し付けたんじゃ~罪も重くなるから、
    ここは3人に罪を分け与えて、1人あたりの罪は
    軽くしとくってことでどうでしょうな~。


  ・・・と何やら経文などを引いて天海が申し上げたところ、

 与右衛門:そうですな。
      ワシも天海殿と同意見です。
      いかがでしょう、大御所様?(←秀忠)



て~な感じで、ここも天海と崇伝のバトルがあったように言われますが、
崇伝はあくまで幕府方の代弁者なんだよね。
ま、多少は寺院勢力の何たらとかゆー話も絡んではくるようだけど、
別に天海が善人で崇伝が悪人て訳じゃない。


今回の記事の大まかな流れは『紫衣勅許事件』(船岡誠)を参考にしてますが、
同文によると

 【今回の天海の弁護にはほかにも理由があった。この時期、柳生宗矩(家光の兵法師範)
  や堀直寄(越後村上藩藩主)らが、沢庵たちのために奔走し、天海や老中たちに
  取り成しをはかっていたからである。】

だそうだけど、一般的に柳生宗矩の尽力が有名らしいものの、『寛永寺』では

 【実は当初からこの処罪に強く反対していた大師(天海)は、両寺の僧の釈放を
  訴えて地味な運動を続けていた。】

という。

まあ、誰が一番頑張ったかってのはここでは問題ではないんだけど、
とにかく色んな人が水面下で沢庵らのために動いてたってことらしい。

結局、沢庵・玉室(大徳寺)、単伝・東源(妙心寺)はそれぞれ大名の預かりとなり、
大徳寺の江月は処罰を免れた。

のち、家光の代になって全員が釈放される。
江月は茶の弟子・堀直寄を通じて、沢庵・玉室と共に天海に礼を言いに行っている。
東源はこの縁がきっかけで天海の死後、『東叡開山慈眼大師伝記』を書いた。
( 「上野第二編(14)」 参照)


でちっとこの一連の事件の中では与右衛門の影は薄いんだけど、
『江戸時代初期の朝幕周旋について』では

 【さて朝幕関係は幕府と後水尾院との対立において、まさにその頂点に達したが、
  高虎天海の斡旋によってあやうく事をおさめ、かれらが東西折衝の緩和の役割を
  はたしたことは今迄あげた史料で多少なりとも証明できたと思う。】

としている。


紫衣事件においてなぜ与右衛門が天海に賛同したのか、その真意はわからない。
細川忠興は「崇伝と与右衛門って仲悪いんだぜ~」って言ってるけど、
どうもコイツの言うことは信用ならん。
一方で、一色氏出身の崇伝と一色氏の娘を娶っている与右衛門は
親類のよしみで仲は良かったとする人もいるし。

けど、これはまだ後水尾天皇が譲位する前のことで、
松姫の入内問題でもさんざんモメたし、朝幕の間に立って奔走してきた与右衛門としては
この件でこれ以上朝廷との間に波風を立てるのは得策ではないと判断したのでは
ないだろうか。

ただ、結局紫衣勅許の件は寺院だけの問題ではなく、朝廷の経済と権威にも
関わることだったから、与右衛門の配慮もむなしく、
沢庵らの処分が決まった数か月後に後水尾天皇は譲位する。


久保文武氏は『徳川和子の入内と藤堂高虎』の中で、
対朝廷との折衝で与右衛門が外様でありながらもこのような役を果たしたことについて、

 【秀忠の高虎に対する信頼度は茶事に托して、父家康以上のものがあったように
  思われる。これが秀忠夫妻が娘和子入内の紛糾の処置を高虎に托した第一の
  理由であろう。

  第二には、高虎が京都公家衆、ことに近衛家とかなり親近な交流を有していた
  ことも大きい理由になろう。】

としておられる。


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最終更新日  2014年07月27日 22時01分07秒


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