戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年03月12日
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カテゴリ: 上野と寛永寺
昨日から我が家に「ひかり」が導入されました。

今までのADSLでも別に不便は感じてなかったんだけど、
確かに少し通信速度は速いような気がします。

が、「ひかり」になったからといって、
別にわたくしの遅筆と長話まで早まるワケでもなく・・・



さて、朝廷との関係における与右衛門こと藤堂高虎の役割を
入内問題と紫衣事件にからめてご紹介してきましたが、
もう少し、彼の人となりを物語る小話をいくつか紹介しましょう。


『徳川実記』はどうもあまり時系列になっていないような箇所もあり、

っつても色っぽい方のじゃなく、夜会みたいのに参加している話がいくつかあった。

前回の最後で久保文武氏の言を引用させていただいてますが、
秀忠の夜会の中で、数々の武功を立て修羅場を乗り越えてきた与右衛門の話に
秀忠がよく耳を傾けたらしいことが『徳川実記』からもうかがえる。

たとえばこんな話がある。


 与右衛門:武士が武を磨くのは当然の事ですが、勇猛すぎてもかえって
      臆病者に劣ることもあります。武田勝頼なんかがいい例で、
      長篠の戦いでは勝頼の性格を利用して成功しました。
      かと言って、ホントの臆病者だったら家臣の讒言までも信じてしまって、
      これまたあっけなく滅んでゆくでしょう。

 家康:だよね~。天下人たるもの、第一に慈悲の心がなくっちゃ。
      けど、あまりに慈悲深いのも逆に冷酷に劣ることもあるよ。
      たとえば、家臣が武芸を磨くことなく朝晩酒に溺れてるのを許してしまえば、
      その悪弊は周囲にも伝染するし、家中の武勇も落ちていっちゃうよ。

      だから、あるべき君主の姿とは、そういう奴はビシビシしごいて
      周りの目を覚まさせることじゃないのかなあ。
      与右衛門、そこらへん、どう思う?


 与右衛門:大御所様の仰せ、ごもっともでございます。

 家康:じゃあさ、秀忠に夜話する時にでも、この話聞かせてやってよ。

  後日、江戸にて。

 与右衛門:大御所様がこんな事をおっしゃってましたぞ。

  秀忠:う~ん、う~ん、なるほど~。
      武勇も慈悲も、ほどほどにってことか・・・
      ん、これは子々孫々に至るまで語り伝えるべき教訓だね。
      よし、メモっとこ。
      ほらほら、どお、与右衛門!この出来栄え

  また後日、駿府にて。

与右衛門:将軍様は先日の話にいたく感心されまして、子孫に語り継ぐのだと
      おん自ら大御所様のお言葉を書き留めておられました。


  家康:へえ~・・・
      秀忠はぶっちゃけ、ちょっとイマイチなところもあるんだけど、
      孝心だけはすごいんだよね~。
      親の言葉を反故にしないように、メモったんだろうな。
      真面目な奴だよね~。
      うん、孝行息子だ




あれこれ世間の波にもまれた与右衛門の処世術を書き遺したものは
結構あるらしい。

側近が書いた『高虎遺書録二百ヶ条』には、
ふんどしの締め方から人に本を借りたら早く返せとか
武具は柿色はダメで紺がいいとか旅支度はコンパクトにしろとか


ちょっと うぜ~!! って言いたくなるようなお笑いネタもあれば、

 「自分の欲に溺れてはダメ。淫乱はやめ。勝手な態度もダメ。
  自分のしたいことはやめて、嫌なことでもやりなさい。
  主人の決まりを守り、下の者の規範となるよう心がけること。

  人が伸びるように計らい、他人に災いが起きても意見をしてやりなさい。
  主人が気に入らないヤツでも家臣が理非を正して、落ち度がない時には
  自分が咎められるようになっても他人に傷がつかないようにしてやりなさい。」


てなものもある。



与右衛門は弘治2年(1556)生まれ。
厳島の戦いの翌年に生まれたのか。
若いな・・・(笑)。

じゃなくて、とらば~ゆにつぐとらば~ゆであちこち出陣して
子を作るヒマがなかったのか45歳にしてようやく待望の嫡男を授かった。

その息子に対し、寛永2年(1625)、大名としての心構えなどを
遺書としてしたためた。

その中では「奉公の道を油断なく勤めよ」から始まって、
仁義礼智信のどれ一つ欠けても上手くいかないんだよ、
文武両道に励め、経験豊富な先輩から色々教えてもらえ、
身分に関わらず良い人の真似をしろ、よき友人と語り意見をしてもらえ、
人から招かれたら遅刻するな、親しい仲間の集まりでも長酒はするな・・・

どうも、安芸にもこんな口うるさいビッグダディがいたよな~って
つい某有名戦国武将のことを思い浮かべてしまいますが(笑)、
ウザいほどの説教の中にも、人を大切にしなさいという彼の精神が垣間見える。



人を大切にするというポリシーは、ある有名なエピソードにも表れている。

当時は大名が死ぬと家臣の中から殉死者が出た。
与右衛門はこれがイヤだった。
自分に殉じて死ぬより、生きてまだ年若い後継ぎを支えてほしい。

そこでまず、国許で

「ワシが死んだら殉死したいと考えている者は、
名前を書いてこの箱の中に入れよ」


と殉死者を募集したところ、40数人の名前があった。
今度は屋敷のある駿府で同じように殉死者を募ったところ、30数人いた。
これら70数人の名札を持って家康のところへ行き、

「大御所様・・・どうしましょう。
ワシに殉死したいという者がこんなにいるんですが。
これらは皆、徳川の先鋒となって子孫の代まで
将軍家のお役に立つ者たちです。
ですから、大御所様の上意をもって、是が非でも
殉死を止めていただけないでしょうか」


「だよね~。
じゃあ、殉死は許さんとワシが言っていたと説明してよ」



「・・・という訳で、大御所様からの上意である。
ゆえに、殉死は許さん。
それより、死んだ気になって徳川家と藤堂家のために尽くせよ」


と殉死志願者を前に演説したところ、皆はしぶしぶ納得したが、
戦いで右腕を失った男が1人だけ反抗した。

「どうせ私は生きていてもお役には立たない者です。
ですから、私だけは切腹を許してくださいませんか」


これを聞いた家康が重ねて

「藤堂は我が徳川家の先鋒。
ワシの命令に背いて1人でも殉死する者が出たら、
藤堂の先鋒は取り消すからね!!」


と殉死を禁止したので、家中はすべて従ったという。



久保文武氏の『徳川和子の入内と藤堂高虎』にはこんな風に書かれている。

 【天海・崇伝・高虎は家康の側近グループであった。往々、家康側近衆と秀忠側近派は
  対立したが、この三人は別であった。決定的理由は権力掌握に直接関係がなく、
  絶えず二番手としての相談役に徹していたからであろう。】


確かに、幕府内の権力争いという面では、この3人はそれぞれ僧侶・外様という
立場にあり、久保氏の言われる通りなのかもしれない。

だからと言って、3人が栄達に無関心だったかというのはまた別の話。
崇伝にその気がなければ紫衣事件はもう少しマイルドだったかもしれないし、
天海にその気がなければあるいは寛永寺は存在しなかったかもしれない。
それに、与右衛門には家中を養う責任がある。

やはり、それぞれが野心や思惑を持っていただろうとは思うけど、
それぞれのやり方で徳川家に忠誠を尽くしたのだとも思う。



ここまで与右衛門について簡単に書いてきましたが、
こんな事は書かなくても話は進められたんです。

が、「藤堂高虎は家康・秀忠・家光の3代にわたってそれぞれの信頼を得た」と
つるっと書いても、なぜあれだけ転職を繰り返してきた与右衛門が
3人の将軍の信頼を得られたのかが見えてこないので、
彼自身について少し書いておく必要があるなと思いました。


で、少し時間軸を戻しまして家康さんが病気になった時のこと。
そのあたりは 「上野第一編(4)」 にも少し書いてますが、
病人のくせに結構色んな人を病床に連れ込んでます。

ある時、与右衛門が呼ばれて

「そなたとも長い付き合いじゃ。感謝しておるぞ。
しかし、ワシとそなたとは宗派が違う。
あの世で一緒になれないのが残念でならん・・・」


「なにをおっしゃいます!
あの世でもご奉公させてくださいまし~!!
ちょ、ちょっと待っててくださいね」


とすぐさま別室にいた天海の元へ行き、「寒松院」の法名を得て改宗の儀を受けた。
その後家康の元へ戻って、

「たった今、改宗してきました
これであの世でも一緒ですからね」


「よ、与右衛門~・・・・」


と2人して涙を流しあったという。


美しい主従愛と与右衛門の転職遍歴をドッキングさせたようなエピソードで
結構多くの歴史ファンに語られているものの、ここには大いなる謎がある。

よく言われるのが、改宗して天台宗になったということ。
ただね、これまでにも書いてきたように、徳川家は代々浄土宗。
個人的に天台に帰依していたかもしれないけど、
たぶん改宗まではしてないと思うんだよね~。( 「上野第二編(15)」 参照)

しかし、天海がホントに仲介したのであれば、浄土宗に改宗したというのもおかしい。
それに、与右衛門の菩提寺となった上野の寒松院は寛永寺(天台宗)の子院。

あと、元々は何宗だったのかも意見が分かれる。

ウィキペディアでは日蓮宗→天台宗。
藤堂家の伊賀の菩提寺は日蓮宗だしな。

『戦国武将名言録』(楠戸義昭著)では法華宗→浄土宗。
天台宗東京教区の公式サイトでは、元は何宗と書いてないけど、
やっぱり天台に改宗したとある。

ま、結局家康は神になったんだから、どこの浄土にも行かなかったんじゃ・・・
てついツッコミの虫が

ただ、このエピソードがホントでなかったとしても、
最終的には寒松院が寛永寺に組み込まれてるから
天台宗に落ち着いたってことになるのかな。


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最終更新日  2014年07月27日 22時00分28秒


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