戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年03月14日
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カテゴリ: 上野と寛永寺
ゆんべは珍しい所で大きめの地震があったようで驚きました。

瑠璃光寺の五重塔 は大丈夫だろうかと大内ファンのわたくしはすぐ考えました。

まあ、震度5弱といっても最大震度で限られた地域だし、
山口市を含むその他はせいぜいが震度4のようだから、
盛見の塔がゆらぐ訳もないだろうとは思いますが。



さて、だいぶ上野東照宮も近くなってきました(笑)。
境内にあった解説は こちら をご覧ください。


「上野第一編(4)」 で書いてますが、
ざっと流れをおさらいすると、元和8年(1622)、
現在の上野公園の地が選ばれて寛永寺創建が動き出す。
当時、上野の地には藤堂高虎・津軽信枚・堀直寄の3人の大名の下屋敷があった。
この3人から、徳川秀忠はそれぞれに替地を与えた上で上野の地を収公して
天海に上野を与えた、というもの。


大昔は現在の地形でいうとかなり内陸にまで海が入り込んでいて、
家康が入府した頃も東京駅付近まで海で日比谷は入江だったという。

江戸の標高は低いものの、この辺りは結構坂や崖が多く、
比高は大したことなくても急な地形。

江戸城のすぐ北にある神田はかつて神田山と呼ばれ、

小田原攻めの後、家康が入府して江戸の大改造が行われる中で
神田山は切り崩され、その土で日比谷入江を埋め立て、
台地にならした神田には旗本達の屋敷が立ち並んだ。

駿府から移ってきた家臣が入ったので、
それでそこらへんは「駿河台」の地名になったという。


神田にそんな歴史があることはつい最近知ったので、
そうか、「神田のお山」がなくなったのなら、上野の高台って結構重要なんじゃないか、
そこに与右衛門が配置されたってことは意味ありげだよな・・・
って思ったものの、上野の山内で最も高いところは15mくらいなのに対し、
神田駿河台より少し南東の御茶の水付近は20mくらいのところもある。

なんだ、切り崩してもなお上野より標高が高いのか

まあそれでも、与右衛門たちが上野に入ったのはまだ江戸城の初期の頃で、
江戸城にほど近い神田には譜代の家臣を配し、そのすぐ北東にある高台の上野には
信頼の厚い外様を置いたという推測はアリだろう。


寛永寺創建前に上野のお山に入っていた藤堂・津軽・堀の3家は、
慶長年間(1596-1615)に屋敷地を与えられたという。

堀家の立場が今ひとつつかめないんだけど、
藤堂家はこれまで書いたように家康から相当信頼されており、
津軽家は家康の養女であり実の姪でもある満天姫を娶っているので縁戚関係にある。
堀直寄も家康にはずいぶん尽くしたようで、信頼を得ていたものと思われる。
つまり、いずれも徳川家から信頼を置かれていた外様達ということになる。


浦井正明氏の『上野寛永寺 将軍家の葬儀』によると、
寛永寺にはこの頃の各家の配置を記した古図があるらしく、
それにはこんな風に描かれている。
山内の配置図



(A)がその古図で、『上野寛永寺 将軍家の葬儀』に掲載されているものを基に
大ざっぱにわたくしが作成したものです。

ただ、浦井氏によるとこれは後世の想像図らしく、
この古図自体も明治後期の写しということなので、どうも信用がおけないとある。

それよりは、史実に基づいて屋敷地を推定する方がより正確だろうとした上で、
各家の建てた子院や寄進した伽藍などの位置から浦井氏の推定する配置を
図にしたものが(B)。

堀家についてはこの後で少し出てきますが、
山内を歩くと不忍池に近い南の方が堀家関係のものが多いし、
私も浦井氏の推測された配置にまったく賛成いたします。


で、ここでは上野東照宮についてなので藤堂家の場所ですが、
(B)で緑の藤堂エリアは上野東照宮のある場所。
藤堂家菩提寺の寒松院は東照宮の表別当で、
かつては東照宮のすぐ北側にあった。

後でご紹介しますが、このエリアには今も藤堂家ゆかりの史跡が残ってます。
なので、屋敷地がどの程度の範囲まで広がっていたかはわからないものの、
確かに東照宮付近はかつて藤堂家の屋敷があった場所だと言っていいと思います。
そもそも、東照宮自体が藤堂家の屋敷地の名残りの可能性もあるしね。

境内にあった解説、【藤堂高虎は上野山内の屋敷の中に、徳川家康を追慕し、
家康を祭神とする宮祠を造った。これが上野東照宮の創建といわれている】
がそれです。
ただ、これもちょっとよくわからない部分があるんだけどね~。



ところで、 「上野第二編(2)」 で「上野」の地名が藤堂家の屋敷があったことに
ちなむという説を紹介し、記事を書いた当時もどうもアヤしいと思っていたものの、
やっぱりそれは違うのだという記述を『魔都江戸の都市計画』(内藤正敏著)の中に
見つけました。

この本の中に、なんと内藤氏と浦井氏の対談が収録されてまして、
浦井氏はこんな風におっしゃってます。


 【上野というのは、古くは「忍ヶ岡」という地名をもった丘陵地だった。
  「上野」という名前はずっとあとにつけられるのです。昔は「忍ヶ岡」ないしは
  「忍(しのび)の岡」といい、それに対して「不忍池」という名前が出てきた
  というのが通説になっています。

  「上野」という地名が最初に出てくるのは、16世紀中ごろの後北条氏の小田原衆の
  文書のなかなのです。そこに「上野の内法輪院分」とありますので、その当時から
  もうこの地にはお寺があったと思われます。】
  (『魔都江戸の都市計画』より)


だそうで、与右衛門の領地・伊賀上野から上野の地名が付いたという方が
歴史ファンにとってはロマンがあるけど、史実には逆らえません(笑)。
で、慶長年間に3大名が越してきた時には、もう法輪院はなかったそうな。
北条氏にゆかりの深いお寺だったのかな。


ただ、上野に入ったこの3大名と寛永寺創建の関係がどうも気になる。

津軽信枚は天海との関わりも何かと多く、天海に弟子入りしたとも言われる。
( 「三原編(29)」 参照)

堀直寄は『寛永寺』によると天海に深く帰依していたそうで、
恐らくそうした縁があったから紫衣事件で処罰された沢庵らが赦免された後、
彼らと天海が会う手筈を整えたりもしたのだろう。( 「上野第二編(63)」 参照)

与右衛門が天海とどこまで親しかったのかはわからないけど、
いくつか紹介したエピソードには天海との関係が浅くないことを
うかがわせるものもあった。

そして、彼らは寛永寺に有力な子院を寄進している。
津軽信枚は津梁院(厳有院:4代家綱の表別当)。
堀直寄は凌雲院(学頭寺)。
与右衛門は寒松院(東照宮の表別当)。
なんかクサくない?

いやでも、寛永寺の創建には秀忠が上野を天海に与えたっていうしな・・・
天海はあちこちに顔が広いし、この3人が天海と親しかったというのは
ただの偶然かも・・・

手持ちの材料ではこれを解決できなかったので、
ひとまずそこは保留にしておこうと昨日までは思ってました。
昨日までは。

じゃ、今日1日で何が変わったのか?

今日はね、帰りに図書館に寄ったんです。
『魔都江戸の都市計画』を1ヵ月以上延滞してたので
返しついでに浦井氏の著作『「上野」時空遊行』という本を予約してたので、
借りてきました。

浦井氏の著作は『上野寛永寺 将軍家の葬儀』の他に数冊あるのは知ってたけど、
最初に寛永寺に行く前に数冊上野の本を借りて読んでいたので、
『「上野」時空遊行』もその時借りてたもんと思ってたんだよね。

で、もう1回読もうと思って借りた訳ですが、
実物を見たらまだ読んだことない本だった(笑)。

それで早速ご飯を食べながら少し読んだのですが、
なんか意外なことが色々書いてある。

ひとまずここでヒントになりそうな事だけ簡単に紹介すると、
まず寛永寺の創建には秀忠から高輪御殿をもらってるのに、
なぜ元和8年(1622)の決定から寛永2年(1625)まで
寛永寺の最初の完成がずれ込んでいるのか、浦井氏はかねがね不思議に思って
おられたそうな。

平成4年からトーハク(東京国立博物館)で色々工事が始まって、
あわせて調査も行われたそうで、その際、トーハク付近では
土地の造成や地ならしが行われていたことが証明されたんだと。
最大で3mほどの落差があるという。


 【天海が徳川秀忠から与えられたころの上野の山は、かなり高低差のある自然の森に
  近い状態だったのだろう。それを平らに均し、広小路のほうから本坊(いまの
  東京国立博物館がある場所)まで道を通すには半年や一年では不可能だったと
  思われる。

  ただし、これも幕府の小普請方の人間を動員するなり、親交のある大名の
  全面的な協力を仰げば、これほど時間がかかることはなかったろう。それを
  あえてせず、意地を張っているかのように自分の力でやり遂げようとしている
  天海に、私はほほえましさを感じてしまう。】
  (『「上野」時空遊行』より)


ここは 「上野第二編(17)」 で紹介した、初期の寛永寺には天海の私寺的側面があった
という話と関連があるんだけど、紫衣事件で処罰された臨済宗妙心寺の東源が書いた
天海の伝記『東源記』には

 【明らかに寛永寺の建立は天海の意向によるもので、秀忠がそれに応じたと
  されている。】
  (『「上野」時空遊行』より)

とあるそうで、だとすれば天海が候補地を探していた時に上野に目をつけ、
秀忠に打診する前にあらかじめ自分で親しい3大名に根回し、あるいは交渉を
していた可能性もあるんじゃないのかな~なんて想像しました。

まあ、自分で根回ししなくたって将軍からの下命となれば
あまり逆らう大名もいないでしょうけど、浦井氏の言われるように
極力自分で手掛けたいという意思が天海にあったのだとすれば、
土地の選定から段取りまでやろうとしたっておかしくない。

それに、3大名の寄進した子院は上に書いたようにそれぞれ優遇されてるしね。

あ~、もう、天海はやっぱ難解すぎる・・・
以後は「怪僧」の一言で片づけてもいいデスカ?(←なげやり)


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最終更新日  2014年07月27日 21時59分48秒


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