戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年03月15日
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カテゴリ: 上野と寛永寺
与右衛門の歴バナを書き始めたあたりから、

わたくし。

特に何の意味がある訳でもないし、古戦場などで悪いモノが出た時に
調伏しようと思ってる訳でもありまへん。
そもそも般若心経って別に悪魔払いのお経じゃないし。

だいぶ以前に、日光輪王寺で「絵説心経」なるものを買いましてね。
これも別に何かの目的がある訳でもなかったんですが、
文字が読めない人のために一字一字に絵が当てられていて、

買ったものの、そのまま数年放置・・・

しかし、ちょっと最近仏教に関わる記事なぞも多いので、
この際だから覚えてみようかなって。

寛永寺シリーズも100話越えがほぼ確実になってきたので、
このシリーズが終わるまでの丸暗記目指して少しずつ覚えている毎日であります。



さて、前回は南光坊ならぬ難解坊天海にウンザリしたとこで終わってますが、
上野東照宮の続きです。

『魔都江戸の都市計画』(内藤正敏著)の中の、内藤氏と浦井正明氏の対談で、
浦井氏は最初に秀忠が上野の地を天海に与えた時はまだ上野の半分くらいだったと
おっしゃってます。

私も、はっきりしたことはわからないものの、

あるいは天海が個別に各大名家と土地の交渉でもして、
それぞれが屋敷地の一部を提供して(ただし、形としては幕府による収公)、
寛永寺が発足してもまだ3大名は上野に土地を残していたんじゃないか、
という気がしています。

で、お2人の対談は民族学者の宮田登氏を交えての3者対談になってるんですが、

敬省略で引用してご紹介します。


  内藤:当時、上野の山から日光がよく見えたそうですね。

  宮田:日光の山が見えるんですか?

  浦田:見えたのは筑波山でしょう。

  内藤:日光連山だと思うのですが。『浅草寺誌』や『台東区の名所と文化財』に
     載る古文書に、寛永4年に家光によって正式な東照宮が上野に建てられる
     以前に、すでに藤堂高虎が上野の下屋敷から日光山のよく見える場所に
     東照社の拝殿を建てていたと書かれています。

     高虎は毎年、日光に社参していたが、老衰で日光に行けなくなり、天海に
     願って同社を建てた。その場所がいまの上野・東照宮が立つ所だと
     いうのです。昔は空気も澄んでいたし、高いビルもありませんから、
     上野からも日光の山々がよく見えたのでしょうね。

  (中略)

  内藤:歴代の将軍は拝む側の人です。ちょうど神社でいえば、江戸城が里宮で、
     日光が奥宮みたいなところがあったと思うのです。そして徳川将軍は
     神主みたいな祭祀者。

  宮田:寛永寺は、日光の遥拝所的な場所としてはっきり位置づけられるのでしょうか?

  浦井:それはどうでしょうか。
  (『魔都江戸の都市計画』より) 


浦井氏は何度も書いてるように、寛永寺のお坊様です。

内藤氏の本は、ちょっと風水・呪術系の説がどういうものか少し読んでみようと思って
図書館で借りたものの、あまりに私の体質に合わなくて結局寛永寺に関連する部分しか
読まなかったのですが、ご本人いわく、呪術的側面の説を提唱したのは
内藤氏が最初なんだそうな。

だから、内藤氏はバリバリの呪術系思考者なのかと思っていたらば、
同対談の中で内藤氏はこんなことを言っておられる。

 【最近、風水ブームで天海僧正が風水を極めた呪術者だ、などというインチキ臭いことを
  書く人が横行していますが、私は非常に腹だたしく思っています。】


内藤氏の考えを完全に理解した訳じゃないので、
どう違うのか正直言って私にはわからなかったんだけど、
そういう側面だけがさも真実かのように一人歩きしている現状を
氏は苦々しく思っておられるらしい。
微妙なニュアンスを表現するのって難しいんだな、って思いましたね。


で、対談の内容ですが、私もさすがに上野から日光は見えんだろ~と思うんだけどね。
私は柏育ちで、条件のいい日には小学校の上階からは筑波山も富士山も見えました。

上野は柏よりも筑波山からは遠くなるけど、
この辺りから北東にかけてはホントに遮るもののない、いかにも関東平野という地形だし、
寛永寺からすぐ北西にある諏訪台からも筑波山が見えたっぽいから
( 「プチ日暮里編(12)」 参照)、寛永寺からも筑波山は見えただろう。

私が日光に行く時は、 東武鉄道のタダ券 を使って地道に鈍行や快速を乗り継いでいくんだけど、
とにかく朝早く出ていくので、晴れてる日なら東武日光線の車内から富士山が見える時もある。
記憶は定かじゃないけど、たしか板倉東洋大前(群馬県邑楽郡)あたりまでは
見えてたような気がするな~。
あるいは新大平下(栃木県栃木市)あたりでも見えた気もしないでもないけど、
ちょっと正確な記憶じゃないかもしれない。

とゆーことで、結構北上しても富士山は見えるもんですが、
そこまでの間にはせいぜい丹沢山系が横たわるぐらいで遮るものもないし、
なんたって富士山は日本一の山(3,776m)だからね。

しかし、日光連山は高いところでも標高は2,000m前半だし、
ちょっと寛永寺からは日光は見えないんじゃないかと思うんだけど・・・


対談の中では、ヨボヨボになって日光に行かれなくなった与右衛門が
天海のはからいにより上野の屋敷内に東照社を勧請したとなっているけど、
与右衛門は晩年に失明したそうだから、それとの関連かと思ったら、
「藤堂高虎公入府400年記念事業実行委員会」様の公式サイトによると、
与右衛門が失明したのは寛永7年(1630)のことで、
同じ年の10月に74歳で亡くなっている。

上野東照宮の始まりは

 【藤堂高虎は上野山内の屋敷の中に、徳川家康を追慕し、家康を祭神とする
  宮祠を造った。これが上野東照宮の創建といわれている。
 あるいは寛永4年(1627)、宮祠を造営したのが創建ともいう。】

と境内解説板にあるように、時期がはっきりしていない。

が、寛永4年には上野東照宮の前身があったのは確かと言ってもいいようだし、
寛永4年以前だったとしても当然元和3年(1617:日光東照社のできた年)
以降の話だけど、紅葉山に東照社を勧請した元和4年(1618)以前だとは
考えにくい。

それに、与右衛門は元和5年(1619)~6年は 徳川和子の入内問題 で奔走してるし、
そのまま大坂城の工事に突入、その翌年には二条城の修築にも関わってるようだから、
元和年間の勧請だとしても最後の最後か、寛永に入ったあたりがせいぜいのような
気がする。

その頃になれば、御三家の勧請も終わった頃だし、
まだ東照社の初期で特別な扱いだったにせよ、勧請しやすい環境は
ある程度はできていたかもしれない。

とすると、寛永4年(1627)以前に上野に東照社があったとしても、
可能性としては元和8年(1622)以降と見るのが妥当だろうと思われるものの、
元和8年っつったら、天海が秀忠から上野の地を与えられた年ですよ・・・
これって変じゃない?

せっかく上野の屋敷地内に与右衛門ジジイが東照社を造ったのに、
その直後に秀忠に土地を巻き上げられて

「そんなご無体な~!!」

って泣いた可能性もなくはないけど、それだって一番早い想定建立年代での話だし、
私はもう少し後の勧請、寛永年間(1624~)に入った頃じゃないかと思っている。

しかし、寛永に入ってからの勧請だとするとますますおかしい。
その頃には確実に寛永寺のために土地をあけているハズだから、
上野の自邸内に東照社を勧請するということはどだい無理なんじゃないのか。

だから、寛永寺のために提供した土地というのはあくまで一部で、
寛永寺創建後もしばらくは3大名・・・少なくとも藤堂家は上野に土地を
残してたんじゃないかと思うのだ。


それに、勧請ね。
御三家までは家康の子だし、別に不思議はない。
けど、いくら家康の信頼が厚かったとはいえ、外様がそう簡単に東照社を
勧請できたとは思えない。

『〔考証〕江戸の面影(一)』(稲垣史生著)ではこんな書かれ方をされている。


 【寛永3年(1626)には、家康を尊崇する家光が、江戸の守護神として
  城内紅葉山に東照宮を造営した。そのおなじ頃、ゴマスリに懸命な藤堂高虎は、
  またまた思いきった奉仕として、上野に東照宮を造ろうと思い立ったのである。

  このことを天海僧正と相談、将軍に願い出て着工、おなじ寛永3年11月13日に
  竣工した。紅葉山とは違い、ここなら一般市民も参拝することができる。
  家康をあがめさせることで、これほど将軍家へのゴマスリ手段はなかった。
  高虎は子院の寒松院を、東照宮の別当寺とすることで最高の奉仕をこころざした。】


うむ、何が歴史の真実かなんてわかりっこないんだし、
あるいはこれが正しいのかもしれないけど、それにしても悪意丸出し(笑)。

あいにく、理路整然と反論するだけの材料は持ち合わせていませんが、
それでも乏しい知識の中からちょっとツッコミを入れさせていただきますと、
秀忠が元和4年に紅葉山に東照社を勧請した際、
同時に祈祷寺である浅草寺へも勧請がされている。
だから、パンピーは紅葉山に行かれなくても、浅草寺へ行けばいいのだ。

それから、稲垣氏はずいぶん別当を軽く見ておられるようだけど、
寛永寺の表別当の格はかなり高いものだった。( 「上野第一編(5)」 参照)
しかも、家康を祀る東照宮の別当となれば、外様の大名のちっぽけなゴマスリで
どうなるもんでもないと思うんだけどね。


ということで、わたくしはもちろんゴマスリのために勧請したとは見ていないのですが、
上野に東照社を勧請できたのは、やはり与右衛門ならではだったと思う。
(すいません、文字数が足りなそうなので続きは次回に持ち越します。)


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最終更新日  2014年07月27日 21時59分10秒


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