戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年03月23日
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カテゴリ: 上野と寛永寺
転合庵と一緒に寄贈されたという名物の茶入れは

トーハクのサイトに画像があったので、ご覧になりたい方は
トーハクのサイトから「於大名」で検索してみて下さい。



転合庵を出て、通路へ戻る。
この辺りからは、フェンス越しに寛永寺霊園の5本ラインの塀が見える↓。


春の寛永寺・旧本坊36・寛永寺ロード


そっか、こういう構造だったのか。
去年の夏( 上野第一編
ここのフェンスがやけにものものしく見えて、一体この中は何なんだろうと
思ったもんだけど、その気になれば庭園が公開されてない時期でも
この辺から庭園の様子は覗ける訳だな(ただし、全景は見えません)。

写真には写ってないけど、時折この外側の道をお塔婆をかついで歩く人がいた。
ああ、お彼岸だもんな。
私も今日、巣鴨に寄ろうかとも考えたんだけど、
なるべく早く帰りたかったので申し訳ないけどやめたんだ。
いとこのSちゃん は今頃家族でお墓参りしてるかもしれないな。

霊園沿いの道を歩く人の中には、自転車の前カゴにお塔婆をつっ立てて
霊園入口の方へチャリを走らせてる人もいて、笑えた。



さて、この少し先が第3の茶室への入口↓。


春の寛永寺・旧本坊37・六窓庵



春の寛永寺・旧本坊38・六窓庵



春の寛永寺・旧本坊40・六窓庵


春の寛永寺・旧本坊41・六窓庵



庭園公開は10:00から。
私は10時過ぎに入って、まだその頃は人はいなかったけど、



 【六窓庵(ろくそうあん)

  慶安年間(17世紀中頃)奈良の興福寺慈眼院に建てられたもので、現在
  奈良国立博物館にある八窓庵などとともに大和の三茶室といわれました。
  明治8年(1875)に博物館が購入、解体輸送中に伊豆で船が難破しましたが、
  幸い材は流失をまぬがれて明治10年に当館に移築されました。

  その後、第二次大戦中再び解体され疎開しましたが、昭和22年(1947)9月
  数寄屋の名工木村清兵衛により現在の位置に再建されたものです。入母屋造り、
  茅葺きで席は三畳台目出炉、金森宗和(1584~1656)好み。水屋、寄付、
  腰掛などは明治14年に古筆了仲によって設計、増築されたものです。

  にじり口にある手水鉢は四方仏水盤といわれる形式のもので、延長3年(925)
  関白藤原忠平が建立した山城国法性寺の石塔のひとつでした。その後、銀閣寺を経て
  所有者がいく人か変わり、明治18年に博物館の所有になりました。】
  (チラシより)


庭の方へ進んでみると、なんか奥にも建物がある↓。


春の寛永寺・旧本坊42・六窓庵


が、その前にこんなものが目に入った↓。


春の寛永寺・旧本坊43・六窓庵


ナニコレ・・・
すっごい古そう。
あいにく銘は見えなかったけど、火袋のあたりの彫り物が目を引いた↓。


春の寛永寺・旧本坊43-2・六窓庵


かなり摩耗してるけど、お坊さんみたいな・・・
変わってる。


奥の建物の方へ進んでみると先客のおじいちゃんがいたので、
先に灯籠を撮影↓。


春の寛永寺・旧本坊44・六窓庵


場所が場所なので、ついクセで銘を探したけど見つからなかった。
背後が静かになったのでもう先客はいなくなったかと思って
正面に回ってカメラを構えたら、おじいちゃんがそこに座っていた。
で、あわててジイちゃんがどいてくれたのがこちら↓。


春の寛永寺・旧本坊45・六窓庵


この奥にも建物はあるようだけど、ジイちゃんがまだいたので
ここで通路に戻ることにした。
戻る途中にあったもの↓。


春の寛永寺・旧本坊46・六窓庵



井戸?かな?
これは昔からここにあったものなんだろうか。
それとも、茶室を移築してから造られたのかな?


通路に戻ると、見事な大木があった↓。


春の寛永寺・旧本坊49


寛永寺の御本坊の規模は江戸城西の丸に比せられると言われたらしい。
この場所に土井利勝を奉行として天海の寛永寺本坊が建てられたのが
寛永2年(1625)11月。
一般に、これをもって寛永寺の創建とされる。

同時に、元禄11年(1698)に根本中堂が落慶するまでの70余年間は
御本坊が中堂を兼ねた寛永寺の中心的堂宇であり、輪王寺宮のお住まいでもあった。
『寛永寺』によると、御本坊は

 【元禄11年の勅額火事をはじめ、四度にわたり全部又は一部を火事で焼失したが、
  その都度再建されたものの、上野戦争で焼失してしまった。】

とある。

実に残念なことだけど、この木はずいぶん立派だから
あるいは宮の1人や2人知ってそうだけど・・・なんて妄想しつつ。



この木の先、通路から少し奥まったところにはこれがある↓。


春の寛永寺・旧本坊51・旧十輪院校倉跡



チラシの絵図には「十輪院校倉跡」とあるけど、現地には解説版などはない。

十輪院なんていうから寛永寺関連の寺の遺物かと思いきや、
チラシ裏面の解説によると、【重要文化財の旧十輪院宝蔵(校倉)が建てられていた
跡です。現在は、法隆寺宝物館の脇に移され、一般に公開されています】とある。

なんかおかしいな・・・と思って十輪院で検索したら、
トーハクのサイトにこうあった。

 【法隆寺宝物館脇の校倉(旧十輪院宝蔵)は、もとは奈良・元興寺の別院、
  十輪院から明治15年(1882)5月に当館に移築されました。現在、
  柵越しにご覧いただいていますが、期間を限って柵を開放し間近で
  ご覧いただく機会を設けました。】


これは2005年の文章らしく、今でも開放される時期があるのかは不明。
ズームして見てみると


春の寛永寺・旧本坊52・旧十輪院校倉跡


確かに建物の跡っぽい感じはあるけど、あれってそのままの形なのかな~。
あんな石の板に建物を乗っけてたってこと?
まさかな・・・


フェンスの外を見ながら通路を歩いていたら、
お塔婆をかついだお墓参りの人に交じって、お坊さんもいた↓。


春の寛永寺・旧本坊53



あっ、あれ、寛永寺のお坊さんだな。
根本中堂の方へ向ってる・・・
今日は忙しそうだな(笑)。 


ここまでは霊園に沿っての西向きの道。
これが見えたところで、道は南へと向きを変える↓。


春の寛永寺・旧本坊50・応挙館


向きを変えて左手にこれがある↓。


春の寛永寺・旧本坊55・有馬家の墓


春の寛永寺・旧本坊56・有馬家の墓


 【有馬家の墓石

  寛永寺の面影を今に伝える越前藩主有馬家の墓石。記録には明治15年(1882)
  から19年にかけて、公園として整備するために博物館敷地内の墓所が整理されたと
  あります。なぜこれらの墓石だけがここに遺されたのかはわかっていません。】
  (チラシより)


はい、庭園入口の築山に続く、第2の面影ですね。

しっかし、なんで明治なんて近い時代のことすらわからないんだ
それに、この形。
灯籠の台座らしきパーツは残ってるけど、墓石の形がどうも・・・
ホントに有馬家の墓なんだろうか?と思うものの、
柵の中には入れないので、銘を確認することもできない。

それに、有馬ったら九州の有馬氏か8代吉宗側近の氏倫(うじのり)ぐらいしか
知らないけど、氏倫さんは摂津有馬氏の出なんだってね。

肥前の戦国大名・有馬晴信の4代あとの藩主の時、領内で起こった一揆の責任を問われて
元禄5年(1692)肥前延岡から越前糸魚川へ移封。
さらに元禄8年(1695)、越前丸岡へ移封となったそうな。

にしても、なんで本坊なんかに・・・
有馬家が 宿檀 としてあった子院にあるんならわかるけどね。
あるいは、元は宿檀である子院にあった墓がなんらかの事情で
後世になってここに移されたって可能性もなくはないけど、
さすがに本坊時代にそれは考えにくいし、明治以降に移されたんだとしても
その経緯がまったくわからないってのも何かヘン。

ナゾです・・・

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最終更新日  2014年03月23日 21時56分01秒


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