戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年03月26日
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カテゴリ: 上野と寛永寺
奈良国立博物館には、昭和50年代に復元されたアシュランの像があるらしい。

スカートまで真っ赤。

現在もアシュランには若干の色が残ってるけど、
そのほとんどは中世になっての補彩らしい・・・が、
当初から全身真っ赤だったのだろうと北氏は語る。


 【赤は火炎の色で、阿修羅の鬼神たる由縁を表しているのです。火炎が象徴
  するものは、不動明王のように怒りと戦いです。】
  (『アシュラブック』より)



とにかく戦いの世界を連想する。
「修羅場」という言葉は、アスラがインドラと戦う場を指し、
転じて激しい戦いの場面や泥沼の痴情のもつれ、
さらには忙しくてパニくってる状況などを表すものとして使われる。


それから、六道。
「修羅道」は天道、人間道に続く上から3番目の世界。
ウィキペディアによると、

 【修羅道は阿修羅の住まう世界である。修羅は終始戦い、争うとされる。
  苦しみや怒りが絶えないが地獄のような場所ではなく、苦しみは自らに
  帰結するところが大きい世界である。】(「六道」の項より)

 【また一説では、阿修羅は正義ではあるが、舎脂(アスラの娘)が帝釈天の

  つまり、たとえ正義であっても、それに固執し続けると善心を見失い
  妄執の悪となる。このことから仏教では天界を追われ人間界と餓鬼界の間に
  修羅界が加えられたともいわれる。】
 (「阿修羅」の項より。カッコ内は戦国ジジイが追加)


完全な悪ではないけど、善の行いがあっても一方で戦う心を失わず

あっ、じゃあ私は修羅道に落ちるのか・・・(て、いつ善行を積んだんだ)

まあ、これもすべてアスラの神話から来てる訳だな。
仏教が東へ伝播し、インドラや四天王などと一緒に仏を守る
ガーディアンの一員になっても、アスラの基本的な性格付けは変わらない。
ゆえに怒りの形相をした阿修羅像が造られるようになった。

そんな中、興福寺のアシュランだけがあのビミョ~な表情を浮かべている。
ものすごく異色。

で、『アシュラブック』ではアシュランが造られた背景から、
顔の謎に迫る。



興福寺にはいくつかの変遷があった。


天智天皇8年(669)
鏡女王が夫・藤原鎌足の病気平癒を祈願して京に山階寺を建てる。
鎌足は釈迦三尊像を造立し納める。

天武天皇元年(672)
壬申の乱起こる。
山階寺を飛鳥(藤原京)に移して厩坂寺とする。

和銅3年(710)
平城京遷都。鎌足の子・藤原不比等が奈良(平城京)へ厩坂寺を移す。
ここが実質的な興福寺の創建。
遷都後まもなく中金堂が建立されたとみられる。

養老2年(718)
道慈が「金光明最勝王経」をみやげに唐から帰国。

養老4年(720)
不比等死去。
「造興福寺仏殿司」が設けられ、藤原氏の私寺・興福寺は国家により
造営が進められることになる。

養老5年(721)
元明太上天皇と元正天皇の命により、不比等の一周忌に興福寺内へ
八角円堂の北円堂を建立(本尊は弥勒仏)。
不比等の妻の三千代は中金堂内西側に弥勒浄土変を製作し、50体に及ぶ群像を祀る。

神亀3年(726)
興福寺東金堂建立。東金堂の本尊は、聖武天皇が元正太上天皇の病気平癒を願って
造立した薬師三尊像。

神亀4年(727)
閏9月29日、聖武&光明子夫妻に待望の長男・基皇子生まれる。
32日後の11月2日、基皇子が立太子。

神亀5年(728)
9月13日、基皇子死亡。
聖武天皇が基皇子の菩提を弔うため、平城京東の山に「金鍾山房」という山寺を建立。

天平5年(733)
1月11日、光明子の母・三千代死去。
1月21日から興福寺への安置仏の造立が始められる。

天平6年(734)
興福寺西金堂完成。仏像は29体、ほか動物などのアイテムを合わせて
計33体が納められた。
その中にアシュランもいた。



この大まかな流れ、押さえておいてくださいね。

養老2年に唐から帰国した僧・道慈(どうじ)は興福寺の僧として活動し、
光明子ともかなり親密だったらしい。

光明子の周辺には、やたら道慈が持ち帰った
金光明最勝王経が付きまとう。

光明子の母の菩提を弔うために興福寺に建立した西金堂(さいこんどう)に
納められた数々の像・・・
現在は西金堂は存在しないが、かつての西金堂内部は
金光明最勝王経の巻2「夢見金鼓懺悔品」をジオラマ化した構成だった
可能性が高いという。

ま、立体曼陀羅とはちょっと違うと思うけど、
お経の中の釈迦の説法の場面を豪勢にも仏像群でリアル再現した感じかな。


それから、名前。
光明子は皇后になる前は「安宿媛」といった。
「やすやど」じゃなくて「あすかべひめ」と読むそうです
北氏は光明子の名前も金光明最勝王経に由来するのだろうとしておられる。

他にもあるんだけど、それは今は置いといて、

 【『金光明最勝王経』巻第5「滅業障品」には、「福宝光明」という
  女性が登場し、女性の身を捨てて悟りを開き、釈迦如来になると記され、
  続いてこのお経を唱えれば、国家と人民に平和や繁栄がもたらされると
  説かれています。(中略)

  母親の橘三千代が夫・藤原鎌足を支えて興福寺の造営を推進したことを
  考え合わせると、橘夫人の一周忌の際に完成された西金堂の本尊釈迦如来像は、
  まさしくこのお経が説く女性「福宝光明」の来世(浄土)での姿であり、
  橘三千代の現し身だったのではないでしょうか?】
  (『アシュラブック』より)

と西金堂の本尊・釈迦如来像は光明子の母・三千代を投影したものだとし、
アシュランのモデルは1歳を迎える前に亡くなった光明子の息子・基皇子じゃないかと
北氏は推測する。

母・三千代の一周忌は同時に基皇子の七回忌。
アシュランの正面の顔は、生きていれば7歳になる基皇子を
イメージしてるんじゃないかというのだ。


興福寺畢婆迦羅像・沙羯羅像
       (画像はウィキペディアより)


これは前回も載せた興福寺八部衆のうちの2体ですが、
人間ぽい顔をしてるのはアシュランを含め6体。

さらにその6体のうち、上の画像の左(畢婆迦羅:ひばから)は
ちょっとヒゲなんか生やしちゃってるしオッサンぽいけど、
残る5体はふっくらと丸顔で童顔。

童顔の最たるものが右の像(沙羯羅:さから)で、鎧が全然似合ってない(笑)。
北氏に言わせると、【1歳で亡くなったときの基皇子にもっとも近い幼子といった
面相です】となる。

八部衆が勢ぞろいした写真を見ると、少年ぽい顔をした5体は
みんな顔が似ている。
まさか仏師が顔の造り分けができなかった訳でもあるまいに、
私には同じような顔に見える。

ので、北氏の説を拡大解釈して、この5体が基皇子をモデルにしたものだとしたら、
これだけ似たような顔が並んでるのもうなずけるよな~と思った。



さて、話は東大寺へと移る。

煩雑な説明は省きますが、こちらが東大寺法華堂の本尊、
「不空羂索観音像」(ふくうけんさくかんのんぞう)↓。


不空羂索観音像
      (画像はウィキペディアより)


白黒なのが残念ですが、実物は金ピカです。
『アシュラブック』には「光のイリュージョンに包まれた、天平美仏の真骨頂」
という言葉が添えられている。

不空羂索観音は「不空羂索呪経」などに登場するらしく、
手に持つ慈悲の縄(=羂索)で人々をもれなく救済してくれるという観音様。

これが造られた背景は、不穏な世情を反映しての国家鎮護が目的であり、
像のモデルは光明子の夫・聖武天皇じゃないかと北氏は言う。



近年になって東大寺法華堂の修理が行われた際、研究者をあっと言わせた
新事実が発覚したそうな。

これまで東大寺法華堂の建立年代はアシュラン誕生(734年)よりあとの
740年代とみられていたのが、この発見により法華堂建立および
不空羂索観音像造立年が733年である可能性が高まったという。

そして、不空羂索観音像のおわす基壇は八角の二重になっており、
下段には7体の仏像の痕跡が見つかったという。

私はこの実物を見たことはないけど、『アシュラブック』にある図によると、
現在では基壇の上段に不空羂索観音像と両脇に日光菩薩・月光菩薩がおり、
基壇を囲むように四天王や金剛力士像が配置されているらしい。

が、この基壇の痕跡の発見と推定建立年代がさかのぼったことにより、
法華堂の仏像の入れ替えがあった可能性が高まったんだと。


当初、基壇の下段で不空羂索観音像を囲んでいた7体の像のうち、
本尊の真後ろにいたと見られているのが、執金剛神(しつこんごうしん)。
これは本尊と背中合わせ・・・つまり、円形の外側を向いて
不空羂索観音像の背後を守る形だったそうな。 

バックを守るだけあって


執金剛神像
       (画像はウィキペディアから)



ご覧の通りの形相です。
日本ではのちに門を守る仁王様に転じたともいう。


 【唐の求法僧玄奘三蔵の旅行記『大唐西域記』巻10には、インドの高僧、
  清弁(バーヴァヴィヴェ)論師が弥勒菩薩の出世を願って高山の阿修羅窟に
  籠る話を載せています。その際、清弁は観音菩薩から執金剛神の呪文(陀羅尼)を
  唱えるように告げられます。清弁はこれを実行すると、執金剛神が阿修羅窟の
  石壁を開き、清弁は6人の弟子とともに石室の中に入って石壁を閉じたという
  お話です。】
  (『アシュラブック』より)


執金剛神が手に持つ金剛杵(こんごうしょ)で阿修羅の巣くう洞窟を破壊したという
伝説で、北氏はこれをもって不空羂索観音像・執金剛神と阿修羅の密接な関連が
見いだせるとし、不空羂索観音像とアシュランを造った仏師こそ異なるものの、
近年の発見によって不空羂索観音像がアシュランよりも先に造られていた
可能性も出てきたし、どちらも光明子の思い入れの深い仏像として
不空羂索観音像を意識してアシュランが造られた可能性を否定できないとする。


 【光明皇后の理想仏は、東大寺法華堂不空羂索観音像と興福寺阿修羅像の
  2体の美仏に結実しているのです。】
  (『アシュラブック』より)


おそらくここが、北氏のもっとも言いたかった部分になると思います。


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最終更新日  2014年04月11日 13時19分24秒


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