戦国ジジイ・りりのブログ

戦国ジジイ・りりのブログ

2014年03月27日
XML
カテゴリ: 上野と寛永寺
この春の職場の異動で若手男子が2名うちの部署にやって来ました。

うち1人は広島からやって来た人で、どこの出身かと聞いてみたら、
広島人じゃなく大阪産なんだと。
ちぇっ、広島弁教えてもらおうかと思ってたのに(笑)。

もう1人はぽっちゃり君で、近くで見るとどことなく懐かしいような
なんかムラムラとこみ上げるものがある。
おっかしいな~、基本的に私は細身の人が好みのハズなんだけど・・・
(先日の 良源さんのアドバイス に従って現在毒舌自粛中なので、


しかし、ついさっきその理由がわかった。
阿部正弘さん にどことなく似てるんだ~!!
これからは彼を「正弘ジュニア」と呼ぼう。

で、わたくしのブシは明日退職します
春は出会いと別れの季節です。




さて、前回までVR作品「興福寺 国宝阿修羅像」と『アシュラブック』から
興福寺阿修羅像の解釈をご紹介しましたが、
藤原光明子(と聖武天皇)の造った仏像が光明子を取り巻く人たちを
モデルにしたものだという北氏の解説を全面的に支持している訳ではありません。

というのも、紙面の都合なのかあるいは「簡潔にわかりやすく」という
コンセプトのためなのか、なぜアシュランの顔が息子・基皇子であり、

突っ込んで書かれていないからです。

もちろん、北氏の中では綿密な思考の上で結論だけを簡単に書いてるんだと思うけど、
『アシュラブック』だけを読んでると、ちょっとイキナリ感があるのは否めません。


そもそも、アシュランの3つの顔の表情はどれもビミョ~で、
何とも言えない顔をしている・・・

どうもどの説明もしっくり来ない。

これは興福寺八部衆のそれぞれに言えることかもしれませんが、
特にアシュランの顔は、それを拝んだ人の数だけ解釈があるんじゃないかと思います。

で、解釈の一例としてVR作品と『アシュラブック』を紹介した訳ですが、
少しネットでアシュランについて書かれているものも読んだものの、
そのほとんどは光明子は熱心な仏教徒であり、光明子が造らせた仏像の
綺麗な面だけを取り上げている方が多いように思われる。

いや、それはそれで構わないんですよ。
・・・構わないんですが、別の見方もあると思うんです。
ので、ここからはもそっとダークな現実の歴史面から少し見ていきたいと
思います。

早く上野編の本編に戻りたいのはヤマヤマですが、
これも縁だし、その都度勉強して考えて自分なりの見方もまとめておかないと
知識も広がりませんのでね。

神辺城シリーズで論文を参考にさせていただいた木下和司様から先日、
「いつ中世史を再開すんの~?」と大変ありがたいコメントを
いただきましたが、今年は仏教関係の記事がほとんどになる可能性が
濃厚になってきまして、去年までとはだいぶ趣が異なると思いますので
ご了承ください。



で、サブタイトルを見て「おっ?」と思った方もおられると思いますが、
「井沢史観」は『逆説の日本史』の著者・井沢元彦氏の提唱する観点のことです。
私はこれが昔好きだったんですよ。

『逆説の日本史』シリーズを読んでない方のために
シリーズをつらぬく骨子を一言で説明すると、
「日本は怨霊信仰の支配する国だった」ってとこでしょうか。
ただし、途中までしか読んでないので、正確じゃないかもしれません(笑)。


聖武天皇&光明子の時代について私が読んだある程度詳しい本といえば、
後にも先にも『逆説の日本史』のみ。
しかも、それが書かれている第2巻「古代怨霊編」はそれこそ夢中になって
読んでた時期なので、かなり記憶に残っている。

とはいえ、細部は忘れているので『アシュラブック』を一通り読んだあとで
第2巻ではどういう風に書かれていたのか、久々に読み返してみました。

そしたらまあ、井沢説には多くの反論があるのは知ってたけど、
すでに第2巻の時点で相当風当たりが強かったらしく、
本文の中で反論する人たちへ対しても色々と書かれているので、
物書き・・・特に新説を提唱するってのは大変なんだな~と思いました。

じゃなくて、今は昔ほど手放しで井沢氏の説を支持する訳でもないですが、
やっぱり光明子周辺に関しては怨霊ルールを適用する方が
説明が付けやすいよな、って感じました。

ので、前回の年表にはあえて含めなかった政治向きの出来事を
羅列しつつ見ていきます。
関連性を見るために、一部前回の年表と重複する部分もあります。

ただ、『逆説』の中では政治的背景と東大寺大仏建立にテーマを絞っているためか、
同じ東大寺の不空羂索観音像や興福寺のことについては触れていません。

ので、『アシュラブック』で学んだことを交えつつ、
井沢説をベースに自分なりの考えを付け加えていくスタンスなので、
井沢氏の論考をきちんと知りたい方は『逆説の日本史2』をご覧ください。




●和銅3年(710)
平城京遷都。鎌足の子・藤原不比等が奈良(平城京)へ厩坂寺を移し、
実質的な興福寺の創建となる。
遷都後まもなく中金堂が建立されたとみられる。

●養老2年(718)
道慈が「金光明最勝王経」をみやげに唐から帰国。

●養老4年(720)
不比等死去。
「造興福寺仏殿司」が設けられ、藤原氏の私寺・興福寺は国家により
造営が進められることになる。

●養老5年(721)
元明太上天皇と元正天皇の命により、不比等の一周忌に興福寺内へ
北円堂を建立。
不比等の妻の三千代は中金堂内西側に弥勒浄土変を製作し、50体に及ぶ群像を祀る。

●神亀3年(726)
興福寺東金堂建立。

●神亀4年(727)
閏9月29日、聖武&光明子夫妻に長男・基皇子生まれる。

基皇子が立太子したのは、なんと生後32日め。
仏像中心に見る方々の説明だと、待望の長男が生まれたので
異色のスピード立太子は親の愛ゆえだという雰囲気が漂う。

ところが、当時は天皇に即位するにも皇太子になるにも
成人であることが前提だったんだそうな。
ので、基皇子の立太子がどんだけイレギュラーだったのかわかる。
その背景には、


 【持統王朝初期の頃は、何が何でも持統系の男子に皇位を継がせるという
  原則があった。これを決めたのは、前にも述べた通り持統女帝と藤原不比等
  である。しかし、不比等は自分の一族の繁栄を考えて、持統系の男子と
  藤原系の女子の間に生まれる子のみが皇位を継ぐことができる、という
  原則に変えた。】
  (『逆説の日本史2』より)

という流れがあった。
井沢説の賛否は色々あるでしょうが、藤原氏が権力を握るのに
強引な手段も辞さなかったというのは多くの人が認めるところでしょう。



●神亀5年(728)
9月13日、1歳の誕生日を待たずして基皇子が死亡。
聖武天皇、基皇子の菩提を弔うため、平城京東の山に「金鍾山房」という山寺を建立。


東大寺のスタートについてははっきりした事はわかっていないらしいが、
複数の前身寺院を統合して最終的に東大寺になったと見られているそうな。

で、「金鍾山房」(こんしゅさんぼう)はその前身寺院のひとつ。
聖武天皇はこの山寺に9人の僧を住まわせた。
『アシュラブック』によると、考古学調査では金堂・回廊の跡や礎石などが見つかり、
すでに大規模な山岳寺院であったことがわかっている、とある。

また、東大寺の文献には光明子が金堂を造ったという記録もあり、
聖武&光明子夫妻による寺院造営だったことがうかがわれる。


前回、不空羂索観音像の背後を守る執金剛神像を紹介しましたが、
『日本霊異記』に執金剛神像造立に関連するエピソードがあるそうな。


 【聖武天皇の御代、平城京(奈良)の東の山に金鷲寺<こんしゅじ>と号す、
  東大寺の前身寺院があった。その山寺に金鷲行者という優婆塞<うばそく>
  がいて、塑像の執金剛神のふくらはぎに縄を結び、これを引いて昼夜修法を
  行っていたが、そこから発せられた光が宮殿に届き、行者は天皇に招かれ、
  日頃の行いを称賛され、得度(正式な出家)が許された。】
  (『アシュラブック』より)


『アシュラブック』によると、現存する東大寺の執金剛神像の右のふくらはぎには
表面が欠落した箇所が2つあり、「その下方の孔の奥に木心に打ち込んだ鉄釘が見える」
んだそうな。

ま、この伝説と執金剛神像の足の釘との関連はわかりませんが、
「金鷲行者」とイコールと見られているのが、実在の僧・良弁さん。

『日本霊異記』では在家で激しい修行をして頑張っていた良弁さんの噂が
聖武天皇の耳に届き正式な出家を認められたとあるけど、
北氏は金鍾山房に入った9人の僧の中に良弁も含まれており、
激しい修行を行って9人の中で次第に頭角を現したのだろうとしている。

そして、良弁は自らの本尊を執金剛神像としたそうな。

・・・夭折した皇子のために建てた鎮魂の寺で、
阿修羅の岩屋を打ち砕くような荒ぶる神を本尊とする行者が、
これまた激しい修法を行った?
なんか変じゃね?



この年は他にも色々あった。
聖武天皇に男子(安積親王)が生まれたのだ。
消える命あれば、あらたな命あり・・・
しかし、せっかくの男子の誕生もそうそうめでたいことじゃなかった。

なんでか?
安積親王は光明子から生まれた子じゃなかったからですよ。
別腹の子だったのだ。
しかも、母親は藤原氏ではない。

基皇子が死んだあとは、当然第2皇子の安積親王が
皇位継承の有力候補となるハズ・・・
ところが、聖武天皇は安積親王を皇太子に指名しなかった。


基皇子の死後、しばらく皇太子は空位だったらしい。
光明子やその実家の藤原氏は、藤原氏の血をひく男子の誕生を心待ちに
していただろうが、あいにく男子は生まれなかった。

良弁が激しい修法をしたという中には、藤原系の男子誕生祈願も
含まれていたんじゃないかという気もする。
ただし、執金剛神は子授けの神じゃありませんが


基皇子の立太子は異例中の異例だけど、
基皇子の死後、すぐに安積親王を皇太子に立てなかったのは
まだ幼いことをタテマエに立太子を逃れた可能性もある。

しかし、この時点で皇位を継ぐに不足のない成人男子がいた。
それが長屋王。
長屋王は天武天皇の孫であり、聖武天皇には伯父にあたる。
しかも、左大臣。
ただし、長屋王も藤原氏の血を引いていない。

光明子に子が生まれるのを期待するしかないとはいえ、
ただ手をこまねいている藤原氏ではない。
すでに父の不比等は死んでいるので、光明子の兄弟である藤原四兄弟が
藤原氏を仕切っていたが、四兄弟は光明子を皇后に格上げする策を考えついた。

光明子が皇后になって男子を産めば、その子が皇位を継ぐのが望ましいし、
男子が生まれるまでの間、少し時間かせぎができる。


で、四兄弟は光明子を立后する運動を始めるが、
これに立ちふさがったのが長屋王だった。

長屋王が光明子の立后に反対したのは、ウィキペディアによると、
この頃は夫である天皇の死後、子が成人するまでの間の中継ぎとして
皇后が即位するケースもあったので、
皇族出身でない光明子の立后に反対したという。

にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
にほんブログ村





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2014年03月30日 14時04分19秒


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

×

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

りりじい

りりじい

カレンダー

コメント新着

王島将春@ Re:浅草&寛永寺法要編(8) 東国の成熟(01/08) はじめまして。福井市在住の王島将春(お…
よー子@ 墓参り2014(2) 慈眼寺~芥川龍之介と小林平八郎の墓(08/02) 前略 初めてお便りします。 質問ですが、…
伊藤友己@ Re:上野第三編(12) 寛永寺105/清水観音堂~越智松平の灯篭(06/20) 越智松平家が気になって詳しく拝見しまし…

サイド自由欄

よみがえる江戸城 [ 平井聖 ] 価格:2916円(税込、送料無料)






PVアクセスランキング にほんブログ村

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: