戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年03月30日
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カテゴリ: 上野と寛永寺
前回増税のことなんか書いたせいで、思いっきりページがまたがっちゃいまして
すみません


東大寺の初期のスタイルであるとされる金鍾山房(こんしゅさんぼう)の創建は、
『東大寺要録』が伝える天平5年(733)ではないかと私は思っている。

『アシュラブック』を書いた北氏は、皇后になったことを契機に
金鍾山房の子院として羂索(けんさく)堂(法華堂の前身)の建立を
光明子が思いついたんじゃないかと見ておられる。

北氏は不空羂索(ふくうけんさく)観音像を聖武天皇だと見ており、
光明子が王者である夫の姿を不空羂索観音像に反映させ、


『アシュラブック』には「ナニナニの像は誰々の写し身」という記述が多く、
個人的には違和感を覚えるのだけど、過去に誰かの姿を投影した仏像が
製作されたことなどもあるようだから、可能性がないとは言えない。

が、不空羂索観音像を祀る羂索堂が子院として建てられたというのは、
『続日本記』にある「基皇子のために建てられた寺」というのが前提となる。
だけど、私は羂索堂こそが金鍾山房の中心だったんじゃないかという
気がしてきた。

なんでかって、不空羂索観音像の背後を守る執金堂神像と
それを本尊とする良弁の存在がどーにも引っかかるんですよ。

このあたりを善意で解釈する見方は世間にあふれてますので
ここでは一切ヌキにして、前回お断りした通り「井沢史観ふう」に




●天平2年(730)
光明子施薬院設置。
光明子、興福寺に五重塔建立。

施薬院は貧しい病人に無料で薬を与えるところで、『続日本記』に記述がある。
『扶桑略記』では養老7年(723)に興福寺に施薬院と悲田院(貧しい人や

光明子が造ったという点は一致している。

施薬院に関しては有名なエピソードがあって、これが光明子が熱心な仏教徒であり
聖女だという見方の元になっているらしいが、井沢氏はゴダイバ夫人の例をひいて
寺院に多額の寄付をすれば聖女伝説をお寺さんの方で広めてくれていいことあるよ、
とした上で、本当に光明子が聖女のような慈悲深い人であれば
大いなる矛盾があると語る。



●天平5年(733)
1月11日、光明子の母・三千代死去。
1月21日から興福寺西金堂への安置仏の造立が始められる。


光明子の父・藤原不比等といえば絶大な権力をふるった人ではあるけど、
初めから順風満帆な政治家人生ではなかったらしい。
というのも、不比等の父・藤原(中臣)鎌足は天智天皇の忠実な家臣。

天武天皇が壬申の乱で弘文天皇(大友皇子)を倒して天武政権を樹立して以降、
しばらくは藤原氏は政権の中枢からは遠ざけられていたらしい。

前回の系図にあるように、持統天皇以後はやたら女帝が立つわ、
子から母へ皇統が継がれるなどかなり変則的で無理な譲位が行われており、
ここに食い込んで不比等が頭角を現していったとされる。

が、それ以外に妻・三千代の存在も大きいらしい。
不比等と三千代の婚姻の時期は定かではないらしいが、
その当時、不比等はまだパッとしない地位にあり、その後の不比等の栄達は
元明天皇に仕えていた三千代の影響があると考えられている。

不比等の死の翌年には宮人としての最高位である正三位に叙せられるなど、
宮中における三千代の存在は大きなものであったと思われる。

そういう偉大な母の死にあたって、光明子が母のための堂宇を建てようと
思いついたという話自体には無理はない。
無理はないんだけど・・・



光明子が三千代のために興福寺内に造ったのは西金堂(さいこんどう)。
興福寺にはまず中金堂が建てられ、次いで東金堂が建てられた。
つまり、西金堂で興福寺内に3つめの金堂が造られることになる。

もともと興福寺は藤原氏の私寺だったが、前々回の簡単な年表に書いたように、
不比等が死んだ養老4年(720)からは国家により造営が進められるようになる。

スケジュール的には、西金堂完成を三千代の一周忌に間に合わせようとしたようで、
死の10日後から始まった工事は一周忌の2日前までかかった。

納められたのは仏像系28体、獅子2体、アイテム系2コ、他1体の計33。
仏像系のうち、本尊などは焼失したらしいが、現存している像から推測するに、
仏像のほとんどが 脱活乾漆像 だったと思われる。
つまりは大量なんてレベルじゃないぐらいの漆が消費された訳で、
これだけで相当な費用がかかる。

そして、これらの高価な仏像たちを納める西金堂も新築する訳だし、
新規の堂宇を造るとなれば新しい荘厳具も用意し、お経だって納める。

これだけのものを1年以内に仕上げた。
『アシュラブック』によると、この工事に動員された人数はのべ55,107人で、
1日平均148人の計算になるそうな。

『アシュラブック』には、【西金堂建立には、皇后直属の小野牛養(うしかい)を
中心に官営寺院なみの造営工房が組織されたわけです】とある。

当時の給与体系がどうだったかは知らないけど、
さすがに職人がタダ働きってこともないでしょうから、人件費だってかかる。

てことは、実際どれだけの費用がかかったかはわからないけど、
100円ショップで売ってる程度の電卓じゃケタが収まらないくらいの
金はかかってるだろう。

なんか、庶民の貧乏くさい発想だな~と我ながら思うけど
世知辛いことを書いたのには理由がある。

同じ年、金鍾山房の羂索堂が造られてるんですよ。

羂索堂二重基壇の下段にいた7体の仏像は、
木材で造った芯に粘土をぺたぺた貼った塑像。

本尊である不空羂索観音像は脱活乾漆像で、像高約3.6m、
本体には金箔が貼られ、本体だけでも相当な金がかかってるだろうに、
極めつけが不空羂索観音のかぶる宝冠。
翡翠、琥珀、真珠などの宝石が、なんと2万数千個付いてるんだそうな。

長屋王親子を殺して、

「やれやれ、これでひと安心

と胸をなでおろしたのは藤原一族だけで、主要な政治家であり皇族である
長屋王が殺されたことで、官民ともに不安な状況にあったんじゃないだろうか。
そんな中で、興福寺と金鍾山房が同時進行で
これだけの人員を動員して超豪華な寺や仏像を造ったというのは
どうにも奇妙な行動に思える。


まあでもね、興福寺西金堂は母の菩提を弔うためとなってるから、
すでに729年から取りかかっていた羂索堂造営とたまたまバッティング
しちゃっただけって可能性はありますよ。
人の死は予測できないからね。

じゃ、ちょっと西金堂の内部構成を見てみましょうか。


西金堂の内部は、道慈が持ち帰った金光明最勝王経の巻2「夢見金鼓懺悔品」を
ジオラマ化した構成だった可能性が高いと北氏は語る。

 【「夢見金鼓懺悔品」の大意は、
  昔、妙幢菩薩が釈迦の高徳な教えを聞いて感動し、その夜夢を見る。その中に
  大きな金鼓が現れ、光明を発し、そこから仏たちが生まれ、あふれ出てくる。
  さまざまな仏たちがそこで法を説いている。すると、夢中に1人の婆羅門が
  現れて、撥を持って金鼓を打つと、大音響が発生した。

  その響きは、心地よく我々を悟りに導き。そのすばらしさは我々の心に
  懺悔を説く教えのように聞こえる。翌朝、妙幢菩薩は鷲峰山(霊鷲山)にいる
  釈迦の元に行き、この体験を伝えた。】
  (『アシュラブック』より)


というものだそうで、西金堂に納められた「アイテム系2コ」のうちの1つが
金鼓で現在「興福寺 華原馨(かげんけい)」として現存するもの、
「他1体」が婆羅門の像にあたる。

華原馨は【道慈が唐から招来したものを、鎌倉時代に補修した可能性が指摘されている】
(『アシュラブック』より)だそうで、そうであれば道慈は金光明最勝王教に基づく
西金堂製作の監修だけでなく、もう少し深く西金堂建立に関わったともいえる。
で、

 【本尊の釈迦像は、妙幢菩薩が訪れた鷲峰山での釈迦説法の場面を現したものと
  考えられます。中国の敦煌莫高窟などでは、唐以降霊鷲山説法の場面を描いた壁画が
  少なからず見られ、釈迦説法の周りに十大弟子や八部衆などが表されている場面が
  あります。興福寺西金堂に十大弟子像や八部衆像が造立された蓋然性が
  うなずけるのです。】
  (『アシュラブック』より)


なるほどね。
西金堂がどういう場面を現してるのかはわかったけど、
でもなんでその場面を選んだんだ?


トーハクのVR作品の中では、金光明最勝王経は珍しく
女性の成仏を説くお経だという説明があって、お経の知識がない私は

「なるほど~」

と思った。

女性は子を産み育てるという役割上、いつの時代もたくましくあったと思うけど、
長い歴史の中では穢れた存在として蔑視される方が長かった。

出陣前には女性との交わりはもちろんのこと、甲冑も触らせなかったとかいう話もあるし、
伝統芸能の中には現代でも神聖な職場には立ち入らせない所もある。

仏教においては、インドでも日本でも初期には女性蔑視はされていなかったらしい。
しかし、

 【涅槃経のなかでは「アラユル三千界ノ男子ノモロモロノ煩悩ヲ併セアツメテ、
  一人ノ女人ノ罪障トスナリ」と述べられており(後略)】
 (『女人成仏への開眼』/後藤宏行)

なんてお経もあるそうで、たとえば電車の女性専用車で

「お前たち1人の中に、俺たち3,000人分の男の
煩悩が詰まってるんだぜ~!
だから、お前たちは穢れた存在なんだ!
わかったか!!」


なんてのたまおうものなら、肉食系女子の多い車両だったら
半殺しの目に遭うだろうけど、一般に女性の成仏は難しいとされてきたらしい。

そうはいっても、女性の成仏の道が完全に断たれた訳でもなく、
前掲書によると、『大無量寿経』では大乗経典の中で初めて女性の救済と
成仏が約束されたそうな。

・・・ただし、条件付き。
生前に阿弥陀如来の名前を聞いて菩提心を起こし、死後に男子に生まれ変わるなら、
ということらしい。

ウィキペディアによると、天台宗の祖・最澄は女性の成仏を否定しなかったらしいが、
叡山は女性は立入禁止だった。


三千代の死は最澄の生まれる前のことだけど、
そういう時代にあって道慈の持ちかえった金光明最勝王経は
直輸入の最新のお経であり、しかも女性の成仏を説いているとくれば、
女傑を弔うのにはいかにもふさわしい。

けどね、『アシュラブック』によると、女性の成仏を説くのは巻2ではなく
巻5「滅業障品」らしいんですよ。
ここでは「福宝光明」という女性が悟りを開いて釈迦如来になると書かれ、
さらに【このお経を唱えれば国家と人民に繁栄がもたらされると説かれています】・・・

三千代の菩提を弔うなら、こっちの方がよくない?
なんで巻2の釈迦説法の場面にしたんでしょうかねえ・・・


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最終更新日  2014年03月30日 22時50分08秒


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