戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年04月02日
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カテゴリ: 上野と寛永寺
疫病で藤原四兄弟が全滅したのが天平9年(737)。

長屋王が怨霊に昇格(?)する条件が四兄弟の死であったのなら、
西金堂と羂索堂は怨霊信仰のたまものとは言えない。

が、時期的に、またその構成からこの2つの堂宇が長屋王と無関係だとは
私には思えない。


色々考えたんだけど、
2つの堂宇を建立した時期はまだ怨霊うんぬんという発想はなくても、
光明子の中にはそれなりの罪悪感はあったんじゃないだろうか。


あれはいちおう母の菩提を弔うためとなっているものの、
内部の構成は前回書いた通りで、しかも八部衆は異色の童顔揃い。

井沢氏は、光明子は自分を皇后にするために兄弟が長屋王親子を謀殺したことは
知っていただろう、仮に知らなかったとしても後で気づくだろう、とした上で、
長屋王の幼い子供まで自分のために殺されたというのに、
光明子が世間一般で語られるような信仰深い聖女であるなら、
彼らを弔わないのはおかしいじゃないか、とくる。

井沢氏の目はそこから別の寺に向いて、興福寺には触れてない。
が、私は西金堂は長屋王の子供たちの弔いも兼ねてたんじゃないかと想像した。

八部衆のうち、童顔は5体。
長屋王とともに殺された男子は4人。


童顔4体は長屋王の子供たちだって想像をしてみたんだよね。

なぜアシュランを除くのか?
アシュランには別の意図があったんじゃないかと思うからですよ。


先日、たまたま臨済禅・黄檗禅の公式サイト『臨黄ネット』の中の
「WEB版 謎解き涅槃図」にある「阿修羅像」の解説ページを見て、



 【奈良・興福寺や京都・三十三間堂の阿修羅像は、憂いのある華奢で可憐な
  少年の風貌で表現されているが、これは、のちに仏法に帰依し、帝釈天との
  大戦争があまりに凄惨を極めたことを懺悔している姿であると言われる。】
  (『臨黄ネット』より)


アシュランの解釈には色々あって、どれも似ているようで微妙にニュアンスが
違っているんだけど、大筋においては一致してるんじゃないかと思う。

アスラが戦いの神であることは『アシュラブック』で勉強して知っていたのに、
その段階でいくつかのアシュランの解釈を読んでもどこかピンと来なくて
「ふ~ん」てぐらいのものだった。

しかし、現実の歴史の流れを順に整理していった後であらためて上の文章を読んだ時、
「あまりに凄惨を極めた」のはまさに光明子を取り巻く環境そのものじゃないかという
考えに至った。


ウィキペディアの「長屋王」の項の「長屋王の変」には
興味深い注釈が付けられている。

【「兵防令」差兵条では20名以上の兵士を動員する際には、天皇の契勅が
  必要とされており、長屋王邸を包囲するための兵力を動員するためには、
  事前に聖武天皇の許可を得て行ったことになる。】


てことは、藤原四兄弟の陰謀であっても四兄弟による独断専行ではなく、
兵を起こすことを聖武天皇は事前に知っていたことになる。
ただ、その時点では聖武は段階を踏んで事実を追及しようぐらいに
思っていたかもしれないけど。

妻の光明子はそれを知っていたのか?
知らなかった可能性もなくはないけど、この後の造寺・造仏ラッシュは
光明子の勧めによるものだったという説もあり、そうであれば
政治に全く無関係で後宮で呑気な日々を過ごしていた訳でもなさそうだし、
井沢氏の言われるように、知らなかったとする方が無理があるように思える。

そして結果は、内親王や幼い子供まで死ぬという事態になった。

私は、光明子はそこそこの罪悪感は持っていたんじゃないかと思うんだよね。
長屋王の変の結末が聖武&光明子夫妻の想定を大幅に超えるものだったのなら、
その罪悪感はさらに増幅されただろう。

ゆえに、北氏はアシュランのモデルは基皇子じゃないかとされたけど、
私は顔はともかく、アシュランは権力闘争の真っただ中にいた
光明子自身を投影したものじゃないかと思った。

ただ、興福寺西金堂はあくまで母・三千代の菩提を弔うための建立、ってのが
一般的な説だから、そこらへんとの折り合いがうまく付けられないんだけど、
そもそも母のためというのが真実かどうかもわからないんだし、
母のためというのはタテマエだった可能性だってある。

別に、自分の推測を有利な方向に持ってくために
勝手にタテマエに仕立て上げようとしてる訳じゃないですよ。
鎮魂のため、と堂々と言えない理由があったのだと井沢氏は語る。

それは、長屋王親子が殺されたのは自分のためであり、
しかもそれを実行したのは自分の兄弟だった。
この非を公式に認めると、兄弟たちの努力が無駄になるし、
自分の立后の正当性にも傷が付く、というもの。

これはもっともな見解だと思う。
ま、井沢氏は長屋王の子供まで殺されたのは光明子の意思が
大きく関わっていただろうとしておられるんだけど、
ともかく長屋王の怨霊が大きな力を発揮する前に、
鎮魂は始められていたんじゃないかと私は考えた。



けどね、興福寺西金堂の建立が言い伝え通り天平5年(733)に始まったのなら、
鎮魂にしてはちょっと時期が中途半端なんだよね。
時期で見るなら、金鍾山房の方がしっくり来る。

長屋王の変が起こったのが、神亀6年(729)の2月。
金鍾山房内の基壇の用材の伐採年が同じ年。
工事が1月から始められた可能性もなくはないけど、
確率的には長屋王の変の後に始められた可能性の方が高いだろう。

だから、長屋王のために死の直後から金鍾山房の造営が始められたんじゃないかと
思ったんだけど、最初はなんかそれもおかしい気がした。

金鍾山房の不空羂索観音像はその手に持つ羂索(元は狩猟に使う投げ縄)で
衆生をもれなく救済してくれるという仏。
金鍾山房も興福寺西金堂と同じく、金光明最勝王経に基づく構成ということまでは
わかったんだけど、金光明最勝王経は一般的に「護国鎮護」のお経だと言われる・・・

時期的に長屋王関係のような気がしたんだけどな、
やっぱり違うのかな。
せいぜいのところ、邪魔者がいなくなってあとは自分が男子を産めば
万々歳なんだから、旱魃・飢饉などの社会的不安もあるし、
子宝祈願も含めた国家鎮護を目的に造られたと見るのが妥当なのかな・・・

諦めかけた頃、しつこく考えるわたくしを神仏が哀れと思し召したのか
『時宗・一遍 仏の世界』様のサイトに出会いました。
これまでのシリーズでも、記事を書く直前になってヒントを与えられることが
往々にしてありまして、執念深いのもあながち悪いことではないのかもしれません(笑)。

で、『時宗・一遍 仏の世界』様ではありがたいことに
金光明最勝王経について詳しく紹介されていて、
それによるとこのお経には結構色んな事が書いてあるらしいのだ。

わたくしの目をひいたものをいくつか要約して紹介しますと、
天武天皇の時代にはすでにこのお経は来日していたらしい。
いくつかの版があり、道慈が持ち帰ったのはこのうち義浄訳の十巻本。
日本ではこれが「法華経」「仁王般若経」とともに護国三部経として人気を集め、
日本に来たのは義浄の漢訳からわずか15年後のことだという。

前々回、西金堂内部が「夢見金鼓懺悔品」をジオラマ化したもので
その大意を『アシュラブック』から紹介してますが、どうもここでは
妙幢(みょうどう)菩薩による長い懺悔が行われたらしい。

  私は父母の恩・諸仏・善を知らず、罪を犯しました。
  うぬぼれて腹黒く、悪口雑言を吐き、行いは愚かで悪友に振り回され、
  他人を裏切り、心貧しく怒ってばかりで種々の煩悩に悶え苦しみ
  自分の財産に満足せず腹をたて、愛欲と怒りに支配され・・・

と事細かに懺悔が続き、「不敬の念の一切を告白します。」として
これまた不敬の内容が延々とつづられる。そして、現世で諸仏を供養して
衆生を一切の苦から救い出すため、一切の業を滅するこの「金光明最勝」
という名の甚深の懺悔を説きましょう。業障を速やかに滅除する、
この清浄の「金光明最勝」という懺悔を説きましょう・・・と続く。

つまりは、どんだけ罪深くても、懺悔してこのお経にすがればすべてチャラにしてくれる、
という大変ありがたいお経らしい。


八部衆ってのは、元は古い神で中にはワルもいる。
それが仏法に帰依して、護法善神にとらば~ゆした。
しかし、ただの善神になった訳じゃなく、
昔取った杵柄で力を以て仏敵を追い払うという役割。

つまりは元・ヤンキーがヤンキーっぽいまま警察官になったような・・・
マル暴(警察における組織犯罪対策部。おもに暴力団対策)のオジサマなんか、
外見だけ見てると893さんにしか見えない人もいるしね

そういう役割ゆえに、通常、阿修羅像は忿怒(ふんぬ)の形相だし、
八部衆だって童顔にはならない。

興福寺八部衆像が童顔揃いなのは、仏法に帰依して幼子のように
心が浄化された様子を表す、とも言われる。


『アシュラブック』での興福寺八部衆の解説は、婆羅門の鳴らす金鼓の妙なる音を
ある者はうっとりと、またある者は注意深く聞き入っている表情のようでもある、とある。

しかしアシュラン=光明子だと見る私に言わせると、
アシュランの姿を借りて光明子が全ての懺悔をすることで、
罪なくして殺された幼い長屋王の子達の魂が浄化されていく、って感じの説明になる。

だから、興福寺西金堂におけるアシュランは仏のガードマンというよりは
光明子の山ほどある懺悔の代弁者的役割であり、
ゆえに憤怒よりは繊細で複雑な懺悔の表情をさせられたんじゃないか。

それにしても、8人の中でなぜアシュランを代弁者に選んだのか。
果てしなく続く闘争の世界に身を置く姿を自分とダブらせた他に、
元々アスラは高貴な最高神だったから、そういう意味でも
自分の身代わりとするにふさわしいと光明子は思ったかもね。


ただ、西金堂には28体もの仏像がある。
たまたま現代ではアシュランが人気を集めてるけど、
実際は本尊を取り巻く「その他大勢」に過ぎない。
ホントにアシュランがそんな役目を負わされたのか・・・

北氏は「美仏のDNA」という独特の観点から、不空羂策観音像と興福寺阿修羅像には
関連があるとし、光明子はアシュランを重要視していたとする。

私はやはり歴史面からのアプローチになるので、北氏とは視点が異なるものの、
光明子がアシュランに特別な思い入れがあっただろうという点は賛同する。

その思い入れが、おそらくあのビジュアルなのだ。

興福寺のホームページを見たら、アシュランのファンクラブなんてものがあった。
部外者からはちょっと異様な世界だけど(←オマエが言うな)、
そんなものができるくらい、アシュランには人を惹き付けるものがある。

数年前のトーハクの企画展「国宝阿修羅展」は過去最多の動員数を記録したそうな。

アシュランの解釈は人それぞれだろうけど、あの少年のような姿に込められた
切なる「何か」があるから、人は異様なほどアシュランに魅せられるんじゃないだろうか。

光明子が込めた真剣な「何か」はいくつか考えられる。
が、とにかく懺悔しまくる「夢見金鼓懺悔品」の場面にあの姿が置かれているなら、
その「何か」はやはり長屋王関連と見るのが自然な気がした。


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最終更新日  2014年04月02日 21時41分31秒


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