戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年05月07日
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カテゴリ: 江戸めぐり
公園内は八重桜がちょうど見頃だった。


両国・吉良邸跡7


両国・吉良邸跡8



吉良邸の見取り図などの展示の後には、こんなものがある↓。


両国・吉良邸跡15-2


 【吉良町甚句

  三州吉良町甚句で読めばヨー 国宝建物金蓮寺
  七福神の宝珠院 仁吉の墓は源徳寺
  吉良の殿様華蔵寺で 黄金堤か陣屋跡

  義理と人情で花咲かせ 花で飾った大太鼓
  吉田神社の秋祭り 茶摘み娘の手まねきで
  宮崎海岸来てみれば ノリつむ船のろもゆるく
  汐の香ただよう湯の里は あつい情けの ヨーホホイ
  吉良の町 ヨー

  平成23年3月20日 吉良町立吉良中学校
  吉良町長 山本一義様
  作 本所松坂町 大川平三郎様
  唄 本所松坂町 市川博保様】


吉良町の名所などを盛り込んだものらしい。
吉良町と両国では義央つながりで親しくしているみたいだな。


この場所も「本所松坂町公園」となっているものの、現在の町名じゃない。
けど、あえて「松坂町」としているのでしょう。


その次がこれ↓。


両国・吉良邸跡16



何かと思ったら、「浅野内匠家来口上」だった。


ここにあるのは原文ですが、読み下し文で紹介します。


 【去年三月、内匠儀、伝奏御馳走の儀に付き、吉良上野介殿へ意趣を含み罷りあり
  候ところ、御殿中において、当座遁れ難き儀御座候か、刃傷に及び候。
  時節場所を弁えざる働き、不調法至極に付き、切腹仰せ付けられ、領地赤穂城
  召し上げられ候儀、家来共まで畏れ入り存じ奉り、上使御下知を請け、
  城地指し上げ、家中早速離散仕り候

  右喧嘩の節、御同席御抑留の御方これ在り、上野介殿討ち留め申さず、
  内匠末期残念の心底、家来共忍び難き仕合いに御座候。
  高家御歴々に対し、家来共鬱憤をさし挟み候段、憚りに存じ奉り候えども、
  君父の讐ともに天を載くべからざるの儀、黙止しがたく、今日上野介殿御宅へ
  推参仕り候。

  ひとえに亡主の意趣を継ぎ候志までに御座候。私共死後、もし御見分の
  御方御座候わば、御披見願い奉りたく、かくの如くに御座候  以上
  元禄十五年極月日】

との文章の後に、「浅野内匠頭長矩家来」として大石内蔵助以下浪士の名前が並ぶ。

・・・にしても、「御同席御抑留の御方これ在り」はつまり、

「かじかわ殿があん時止めたからあっっ!!」

って言ってる訳だよね(笑)。
その松の廊下の場面の絵が口上の隣にありました↓。


両国・吉良邸跡17

拡大↓。

両国・吉良邸跡17-2


刀を振り上げる長矩を羽交い締めにして二人羽織状態になってるのが
かじかわ殿なのか、あるいは

「ああ、あんさん、何しますのん!!」

て顔して右から駆け寄ってるのがそうなのか・・・
右だったら面白いのにな(笑)。 


何にしても、ここがすべての発端。      
事の一部始終をそばで見ていたかじかわ殿(梶川頼照)は
事件の経緯を『梶川日記』に書き遺しているそうで、
ウィキペディアにその現代語訳が載っている。

まあ、ここでは浅野長矩に刑事責任能力があったかどうか・・・
つまりは心身喪失状態だったのかが問題だけど、
浅野長矩が義央に斬りかかる時、訳のわからない言葉を叫んでいたという
話がある一方で、かじかわ殿は長矩が

「この間の遺恨を覚えているか」

と言って斬りかかったと言い、取り押さえられた後は

「上野介には恨みがある。殿中であること、また今日は儀式であることに対して
恐れ多いとは思ったが、仕方なく刃傷に及んだ。討ち果たさせてほしい」

と言っていたと書いているらしい。

かじかわ殿の話を見る限りでは、長矩はそれなりの正気を保っていたように思われる。
が、過去の記事でもしつこく書いたように、長矩の行動はクレイジー以外の何者でもない。

わたくし的には、この異常さは精神を病んでたんじゃないかと思うのだけど、
かじかわ殿の証言もあるしな・・・

遺恨があったにせよ、時と場所を考えろっつーの。
おのれの立場を何と心得るか!
やるならこっそり夜討ちにするとかさ・・・
(夜討ちもいけません)


実は、この傷害事件の21年前に、
長矩の母方の叔父が同じようなことをしでかしている。

犯人は、鳥羽藩主・内藤忠勝。
被害者は、丹後宮津藩主・永井尚長。

延宝8年(1680)6月26日、4代将軍家綱の法要が増上寺で営まれた。
この席で、方丈口番の内藤忠勝が法会奉行の永井尚長を刺殺するという
これまたクレイジーな事件を起こしている。

これは内藤忠勝の乱心とされ、忠勝は翌日に切腹、お家は断絶。
ウィキペディアには【忠勝との不和が原因とも、逆に尚長が忠勝に遺恨をもって
切りかかったが返り討ちにあったという説もある】とある。

『忠臣蔵外伝 その日の吉良邸』ではこの点について、

 【ともに刃傷事件を起こした叔父と甥、どうも短気で我慢することができない
  癇癪持ちという性格が共通しているようだ。】

と分析する。

まあ、事件の下地としてそういう性格があったとは言えるだろうな。
しかし、叔父の家が断絶するという出来事を間近に見ていながら、
なおかつ自分も同じことをしでかすとは学習能力が・・・


『忠臣蔵外伝 その日の吉良邸』による、松の廊下の刃傷事件の史実の分析はこんな感じ。


 ●その1

  刃傷事件の3年前にも吉良義央は斬りつけられている。
  元禄11年(1698)に津和野藩主・亀井茲親が饗応役となった際、
  吉良義央が指南役であったが、亀井茲親は有職故実のこまごまとしたしきたりに
  ブチ切れ、打ち合わせのあった伝奏屋敷で義央に斬りかかった。

  この時は亀井茲親の家老が主君を止めて済んだが、義央はこれを厳しく問い詰めた。
  義央の追及に対し、家老が賄賂を贈って丁重に詫びをしたため、
  大事にはならなかった。

  場所が伝奏屋敷だったこと、家老の処置がよかったことが功を奏したが、
  これがもし殿中であれば切腹・御家断絶は免れなかっただろう。
  このように、饗応役とは難しく、また骨の折れる役目だったようだ。


 ●その2

  浅野長矩が饗応役を仰せつかったのは2度目。
  1度目は17歳で、この時も吉良義央の指南を受けている。1度目は大石良雄の
  叔父である江戸家老が補佐にあたり、無事大役を果たすことができた。
  が、2度目は自身で職務を果たす立場にあった。

  1度目から2度目までは18年。
  元禄9年には幕府財政の建て直しのために金銀貨の含有率が変わり、
  物価は高騰、経済は悪化するなど、18年の間に大きく環境は変わっていた。

 【本来なら前回の三倍は見込んでもおかしくない経費を倍以下で抑えようとして、
  どうも上野介の不興を買ったのではないだろうか。他にも賄賂説、塩田問題や
  赤穂藩江戸家老らの才覚不足など、まだ多くの指摘はあるが、大方は以上のような
  要素が複雑に絡み合って突発的に発生したものと考えるのが妥当のようだ。】



その1の亀井氏は、義央サディスト説の証人としてよく引き合いに出される。
亀井茲親も浅野長矩も、義央の陰湿なイジメに遭っていた・・・
だから義央は悪いヤツで、殺される要素が義央本人にあったんだ、って
2時間ドラマかっつーの!

しかし、細かい作法にガマンできず抜刀ってのもどうなの・・・

吉良義央は、年賀使に15回、幕府の使者で9回の計24回上洛したという。

 【24回もの上洛は高家の中でも群を抜いており、さらに部屋住みの身でありながら
  使者職を行っていた事は、高家としての技倆が卓越していた事を表している。
  優秀な技倆を綱吉が寵愛した為ともいわれている。】
  (ウィキペディアより)

つまりは、当時のスペシャリストだった訳だな。

サディストな義央はいじめる為に格好の奴を選んだって書く人もいるけど、
自分の教え子が失敗すれば教官役の自分の汚点になり、責任問題にもなる。
高家第一人者としてのプライドもあったであろう義央が、
わざわざそんな事をするだろうか。

にしても、亀井茲親の例は興味深い。
確かにそれだけ大変なお役目ではあったんだろうけど、
刃傷事件を起こした時、浅野長矩は2回目。

いくら初めての時はしっかりした補佐役がいたとはいえ、
結局は最初の時も自分で大事なお役目は果たしたんだし、
なぜ2度目でキレるか?
そう考えると、その2の金銭感覚のズレというのは現実味がある。

浅野長矩の饗応役再選を誰がプッシュしたのかはわからないけど、
いちおう実績があるので、その点も考慮されたかもしれない。
が、「初めての経験」じゃないからこそ、義央も厳しく指導した可能性もある。

長矩本人が動機を自供していないので何とも言えない部分はあるものの、
もし指南を受ける中で恨みに思ったのであれば、逆ギレもいいとこ。
饗応役は朝廷に対し、幕府を代表する立場なのだ。

しかも、2度目の時は実に間が悪かった。
将軍・綱吉は【この機を生母桂昌院が従一位に叙される大切なステップと
捉えていた】(『忠臣蔵外伝 その日の吉良邸』)らしい。

こんな席でとんでもない事件を起こしたのだから、
綱吉じゃなくてもソッコー切腹は致し方なかろう。
だから~、やるなら闇討ちにしとけばよかったんだって・・・
(ダメですってば)

ま、私が思うに、長矩本人ももちろん悪いけど、江戸詰めの家臣がイカンね。
亀井茲親の家老のように、うまくやることだってできただろうに。
亀井氏の件は、これまた義央が賄賂好きの腹黒ジジイにされる基ではあるけど、
授業料を差し出すのは現実問題としてやむなしでしょう。

戦国時代だって、公家が地方の武家に出向いて和歌やら何やらカテキョーして
収入を得ていたんだもの。
それと同じことじゃないのかなあ?

授業料だけじゃなく、もし『忠臣蔵外伝 その日の吉良邸』の分析のように
金銭感覚がズレていたのなら、きっちり家臣が江戸の状況を長矩にわからせるべきだった。
しかし、それができずに長矩1人がストレスを抱える羽目に
なってしまったのかもしれない・・・

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最終更新日  2014年05月07日 21時45分30秒


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