戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年05月24日
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カテゴリ: 江戸めぐり
はうっ、30話越えそうだ・・・

まあ今回は初めから多少の歴バナを交えるつもりでいたので、しょうがないよな。
上野編の再開はあともうちょっとお待ちください


さて、前回の写真の場所をちょっとだけ進んで、
京葉道路に出る手前にはいくつも高札があります。
まずは下の図で紫の矢印の部分。
今度はお尻じゃなくて、先っぽの方ね。


両国・尾張屋清七版 江戸切絵図-2





  駒留橋は、この辺りにあった旧両国橋北側の入り堀に架かっていた長さ二間半
  (約4.5メートル)、幅三間(約5.4メートル)の小さな石の橋で、藤代町と
  東両国広小路を結んでいました。

  その堀の幅はもっとも広いところが四間(約7.2メートル)で、奥に行くほど
  だんだんと狭くなっていました。本所七不思議の一つである片葉の葦が生えていたので、
  別名、片葉堀といわれ、盛り場の近くにありながら、夜になると寂しい場所でした。
  両国の繁華街がもっとも賑やかになる時間帯でもこの橋の周りは森閑としていたと
  伝えられています。

  そのせいか、夜になると、橋詰にあった自身番(町内の私設交番)の前に夜鷹が集まり、
  道行く人の袖を引いていたようです。】
  (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)



モノによっては話が入れ替わってたりもするけど、
この場所には「片葉の葦」の高札もあったので、ここでは1つだけ紹介します。


 【片葉の葦

  駒留橋が架かる入り堀に生える葦は、同じ方向にしか葉を出さなかったことから、
  片葉の葦と呼ばれていました。入り組んだ地形の風の吹き込み方が影響していたと

  その由来は・・・

  昔、本所横網町に住んでいた留蔵という男が、三笠町のお駒という娘に惚れました。
  留蔵はお駒を自分のものにしようと、あの手この手で近づきますが、お駒は一向に
  なびきません。腹を立てた留蔵は、お駒を殺害し、片手片足を切り落として堀に
  投げ込みました。それ以来、ここに生える葦は、すべて片葉になったというものです。
  当時、葦は吉原の語源となるほどこの辺りにはたくさん生えていました。】


この高札は片葉の葦の絵つき↓。


両国・片葉の葦



江戸時代からストーカーはおったんじゃの~。
こわや、こわや・・・
て、留蔵とお駒の話はフィクションですって

まあ、片側にしか葉を出さない不思議な葦と、
繁華街を一歩外れただけなのにうら寂しい駒留橋の雰囲気を
ドッキングさせたようなお話だな。

七不思議の他のお話は、今後寄った時に紹介する機会もあるでしょうから、
いずれね。


その次は、上の図で赤の矢印の解説です。

 【藤代町跡

  かつてこの辺りにあった町名です。その由来は・・・。

  享保年間(1716~35)、紀伊生まれで麹町に住んでいた毛利藤左衛門は、
  自分の支配地である西葛西領猿江村の入り堀2万5千坪を自費で開墾し、
  「毛利新田」と呼ばれていました。しかし、これが幕府の貯木場として、残らず
  召し上げられ、その代わりにこの土地を賜ったのです。藤左衛門が代りに賜った
  ことから藤代町と呼ばれています。

  回向院や向島に通じる要衝だったため、商家が軒を並べるかなり賑やかな場所で、
  入り口にふさわしい繁華街でした。】
  (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)


駒留橋がさびしい場所だったのに、すぐ近くにある藤代町が賑やかってのが
ちょっと合点がいかないけど、 「本所Wデビュー(1)」 でちょろっと出てきた
「毛利さん」がこの藤左衛門さんです。

「すみだあれこれ」様のサイトによると、藤左衛門が代替地として賜わった藤代町は
700坪。
いくら藤代町が一等地とはいっても、2万5千坪と700坪じゃ釣り合いが取れない。

ってんで、幕府はオランダから献上された象の飼育を藤左衛門に命じ、
両国広小路で見世物とすることで収益を得させようとした。
その後の象と藤左衛門の詳しいことはわからない・・・とある。

ふ~ん、象?
享保っつったらアレだよな・・・と思って、
久々に 「赤間ヶ関編(47)」 を読み返してみましたが、
私が調べた中では享保13年(1728)に吉宗が取り寄せた以前は
慶長7年(1602)までさかのぼるので、まんず源助の象のことだと思われる・・・
が、あらためて調べ直してみても源助の象が両国で見世物になったこととか
藤左衛門のことはわからなかった。

ただ、享保の象が来た時は江戸でかわら版が出たらしいんだけど。
古い文献をダウンロードしてみたけど、新しいプログラムまでインストールしたのに
結局ファイルは開けなかったし

そういえば、こないだ図書館に行った時、源助の象の本ぽいのを見かけたので、
今度読んでみるかな・・・

ウィキペディアによると、毛利新田の開発は享保7年(1722)、
そこに幕府の木場が置かれたのが享保19年(1734)らしいので、
源助の象の来日した享保13年(1728)より接収は後の話になるけど、
象なんてそんなしょっちゅう来日したもんでもないし、
おそらく源助の象のことだと思うんだけどなあ・・・

浜御殿で暮らす間の出来事なんだろうか。



広小路にあった高札はここまで。
高札の向いには、大きな石碑があった↓。


両国・両国橋付近



「明治三十七年役戦病死者」とある。
この石碑は少し高いところにあって、これは裏っかわらしい。
高札の並ぶ小道の先はすぐ大川で、行き止まりっぽいので
京葉道路に出て両国橋へ向かう。


両国・両国橋手前



なんか不思議なオブジェが・・・
地震で転がり落ちたらどうするんだ

この手前には小さな公園があり、さっきの大きな石碑やら解説版やらある。


 【両国橋の風景を特徴づけるもののひとつに、百本杭があります。昭和5年(1930)
  に荒川放水路が完成するまで、隅田川には荒川、中川、綾瀬川が合流していました。
  そのため隅田川は水量が多く、湾曲部ではその勢いが増して、川岸が浸食されました。

  両国橋付近はとりわけ湾曲がきつく流れが急であったため、上流からの流れが強く当たる
  両国橋北側には、数多くの杭が打たれました。水中に打ち込んだ杭の抵抗で流れを和らげ、
  川岸を保護するためです。夥しい数の杭はいつしか百本杭と呼ばれるようになり、その
  光景は隅田川の風物詩として人々に親しまれるようになりました。

  江戸時代の歌舞伎では、多くの作品の重要な場面に「両国百本杭の場」が登場します。
  「十六夜清心」でも、冒頭に「稲瀬川百本杭の場」がおかれています。稲瀬川は
  鎌倉を流れる川の名ですが、歌舞伎の中では隅田川に見立てられることがあります。
  観客は「百本杭」という言葉から、この場面が実は隅田川を舞台としていることに
  気づくのです。百本杭はそれほど人々に知られた場所だったのです。

  また、明治17年(1884)に陸軍参謀本部が作成した地図には、両国橋北側の
  川沿いに細かく点が打たれ、それが百本杭を示しています。

  明治35年(1902)に幸田露伴は『水の東京』を発表し、「百本杭は渡船場の
  下にて、本所側の岸の川中に張り出でたるところの懐をいふ。岸を護る杭のいと
  多ければ百本杭とはいふなり。このあたり川の東の方水深くして、百本杭の辺はまた  
  特に深し。こゝにて鯉を釣る人の多きは人の知るところなり」と富士見の渡の
  南側から見られた様子を綴っています。このほか、本所向島に親しんだ多くの文人が、
  百本杭と往時の記憶について書き留めています。

  しかし、明治時代末期から始められた護岸工事で殆どの杭は抜かれ、百本杭と隅田川が  
  おりなす風情は今では見られなくなりました。】
  (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)


高札は写真と絵つき↓。


両国・「忍宵恋曲物」
     <明治22年春狂言「忍宵恋曲物」百本杭の場 新富座 豊原国周筆
      (国立国会図書館所蔵)>


両国・百本杭古写真
     <両国百本杭「仁山智水帖」より(国立国会図書館所蔵)>


なんか、昔の川べりの風景ってカンジ~。

あとですね~、私は浪士ファンじゃないのであえて写真は撮りませんでしたが、
赤穂浪士・大高源五の句碑がここにありました。

『忠臣蔵外伝 その日の吉良邸』によると、明治期に作られた『松浦の太鼓』という
芝居の中で、討入りの前日、大高源五と俳人・室井其角が出会うシーンがあるそうな。
粗末な身なりの源五を哀れに思った其角は、松浦候から拝領した羽織を
源五に着せかけてやり、

「年の瀬や水の流れとひとの身は」

と詠んだところ、源五は

「あした待たるるその宝船」

との句を返してその場を去っていった。
翌日、吉良邸への討ち入りのニュースを聞いた其角は、
源五の句が討ち入りの成就のことだったと思い至る。

引き揚げの途中の源五を見た松浦候は涙を流して

「浅野殿はよい家来を持たれた」

と言い、一緒にいた其角が源五に辞世を求めると、

「山をぬく刀も折れて松の雪」

と短冊に書いてそれを槍の先につけて返したという感動的なストーリー。
が、これもフィクションだそうな。
ただし、其角と源五は俳句を通じて親交はあったらしい。

ま、そのエピソードにちなんでこの東詰に句碑が建てられたのかもしれないな。

 【現在、両国橋東詰めにある源五の句碑「日の恩や 忽ちくだく 厚氷」
  (昭和3年建立)は、討入り後、近くの酒屋に飛び込み「死骸取捨ての方への
  酒代」として金二両を亭主に与え、酒樽の鏡を抜かせて詠んだ句と伝えられている。】
  (『忠臣蔵外伝 その日の吉良邸』より)


う~ん・・・
吉良邸の近所の酒屋さんだったら、午前6時前の話だからな。
間違いなく開店前だから、無理に押し入って酒樽を奪ったことになるけど、
酒屋さんの話もフィクションじゃないの?って気がする・・・


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最終更新日  2014年05月25日 08時40分42秒


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