戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年05月26日
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カテゴリ: 江戸めぐり
前回の続き。


寛文8年(1668)2月6日江戸下谷辺りより失火。
下命を受けた松浦鎮信は自ら小船に乗り、手勢を率いて両国橋を火災から防ぐ。


寛文元年(1671)11月、大川が出水した場合の
橋を守る対策についてお触れが出される。すなわち、

 ・両国橋に流れ寄る船は壊してでも橋脚を守ること
 ・上流にある船は流れないよう、常に係留しておくこと
 ・流れ着いた船は橋脚を守る役夫のものとなること
 ・水路の妨げとなる河岸に建てられている家は取り壊すこと


流木による破壊力ってすごいものがあるもんね。
震災の時の津波もそうだったけど。

江戸期はずいぶん河川の付け替えがあったようだけど、
前々回の解説文によると当時の大川は今よりも水量が多かったらしいし、
大川の下流では流れも早かったらしく、ひとたび台風や豪雨が起こると
下流は水浸しになったという。

水だけならまだしも、船までどんどこ流れてきたら
木造の橋なんかひとたまりもない。
巨額の投資をして作った橋を守るために、

「船が流れてきたらもらっちゃうからね~」

ってのもなかなか厳しいと思うけど、まあしょうがないよな。


延宝5年(1677)2月には、官費で架設した橋を、



延宝8年(1680)8月6日、本所・深川・浜町・霊岸島・八丁堀・芝・
木挽町・築地・鉄砲州などの下流域で津波により700余名の溺死者が出る。

地震かと思ったら、延宝5年には大きな地震はあったようだけど、
延宝8年のは台風による高潮らしい。
この時は江戸城門の瓦や壁が落ち、倒壊した建物は3420戸あまり。



天和元年(1681)には何らかの理由で橋の架け替えの話があったらしく、
11月12日、

「出火の際は長持や車長持で仮橋を渡るんじゃねえ!」

って通達が出されているので、すでに工事は始まっていたものと思われる。
もしかして、前年の高潮でダメージを受けたのかもしれない。

しかし、いつの時代も公共工事には汚職がつきもの。
架け替えの助役・上野沼田藩真田信利が材木代金を横領。
また品行不正のとがで除封の上、山形に配流される・・・

とこれは『江戸東京年表』の記述だけど、真田で「信」なら
信之兄ちゃんの系統か?と思って調べたら、やっぱり信之の孫で、
父は信之の庶長子らしい。
お?
兄ちゃんは側室を持っておったのか・・・

真田信之は、真田信繁(幸村)のお兄ちゃんです。
再来年の大河の主役は信繁らしいですが、もういいかげん
「幸村」の名称を使うのはやめて頂きたいものです。

じゃなくて、信之の正室は御存知の通り本多忠勝の娘・小松殿。
が、いとこを側室としていたらしく、そこから生まれたのが信利の父。

信利が生まれた当時、沼田藩は松代藩の分領であり、
信利が成長すると本家の家督相続に名乗りを上げるなど、
ちょっと藩内でゴタゴタがあった。

結局、信利は本家を相続することはできなかったけど、
沼田藩はこの時に松代藩から独立した。
家督に大きな影響を与えたのは、まだこの時生きてた信之兄ちゃんだけど
信利としては本家へのライバル意識からか、自領の城や江戸藩邸を
本家に負けないような立派なものにするなどの無理をしたので、
領主としてのウケはあまり良くなかったらしい。

で、問題の汚職についてウィキペディアでは

 【延宝8(1680)、信利は両国橋改修の用材の調達を、材木商大和屋から
  請負った。しかし、折からの台風により利根川、片品川が氾濫して用材は流出し、
  翌天和元年(1681)10月の納入期日に間に合わなかった。さらに同年、
  長年の領民の怒りが杉木茂左衛門の直訴という形で噴出した。11月、沼田藩は
  幕府から治世不良、納期遅滞の責めを問われ、改易された。】

としている。

なんか、こっちの話の方が信憑性がある気がするな。
領主としてはいい器じゃなかったかもしれないけど、
めぐり合わせが悪かったとゆーか、ちょっとお気の毒な方ではある。



元禄9年(1696)頃にも架替えがあったらしい。  
元禄10年には両国広小路に髪結い、水茶屋などの商人が置かれる。

元禄16年(1703)11月29日、小石川の水戸徳川家藩邸より出火。
火元から「水戸様火事」と呼ばれるこの火災では、両国橋を渡って本所まで火が入り、
深川あたりまで延焼。
両国橋は避難の際に焼け落ちて5~600人が死亡したともいう。



宝永元年(1704)7月5日、大雨により利根川が決壊。
本所深川周辺が浸水、永代橋や両国橋の損壊で多数の死者が出る。
この辺は御難続きだの・・・


享保4年(1719)4月3日、本所奉行が廃止される。
本所上水は勘定奉行の所管となり、4月4日には両国橋と新大橋が町奉行の所管となる。

享保11年(1726)には下流の永代橋が維持管理の資金獲得のため、
1人2文ずつ10年の期限つきで渡銭を徴収することが認められる。
ただし、武士・医師・僧・神主は除外されたそうな。

永代橋付近は私のなじみのエリアで、そのうち史跡めぐりにも行くと思うので
詳しいことは別に譲りますが、もともと永代橋も両国橋と同じく
官費で架けられた橋だった。

それが、本所奉行の廃止に伴い両国橋と新大橋の管轄が移管されても、
永代橋はその中に入っていなかった。
実は架橋から大して年数が経っていないにも関わらず、
永代橋の老朽化はひどくて廃止されることが決まっていたんだそうな。

けど、地元はこれに猛反対。

「お上が修復できないんなら、ワシらで!!」

と嘆願し、町方への払い下げが認められたらしい。
で、維持管理の資金繰りのために通行料を取ることが許可されたそうな。

へ~、じゃあ、両国橋は無料で渡れたのか?と思ったら、
両国橋も1人2文の通行料を取ったと書いている人がいる。

ただ、『江戸東京年表』の中では両国橋の通行料に関する記述は見つけられなかった。
が、取ったとしてももう少し後の話だと思われる。




享保13年(1728)9月2日、数日続いた大雨で大洪水。
低地(おそらく下流域)の被害は大きく、3500人余りの溺死者が出る。
両国橋は橋の中ほど30間ほどが切れて流される。
昌平橋なども流されたため、神田祭りが11月に順延される。

11月10日には架け直しのための入札が行われ、
落札価格は2475両だそうな。
え~、享保小判1両が約8万円ぐらいらしいから、
それで計算すると1億9800まんえん・・・

確実じゃないけど、たぶん最初の架設の時はもっとかかってるよな。
だって、明暦の大火の直後だから。
智恵伊豆・松平信綱はそれこそ猫だましのような手まで使って
インフレ抑制に努めている。
それでも、材木はいくらあっても足りない状況だったし、
当初の橋は一体いくらかかったんだろうと興味が尽きない。
(て、また金の話かって?)



享保19年(1734)6月17日 大雨のため出水。架設中の両国橋が流失する。
また8月にも出水のため破損する。

この2年前にはイナゴの大発生と冷夏でいわゆる「享保の大飢饉」が起こり、
また疫病も流行っていた。
前年には米の買い占めの噂が立ち、「享保の打ちこわし」が起こる。
疫病もまだ続いていた。

それでこの水害だから、またもや疫病が流行し、多数の死者が出たという。
吉宗ちゃん、たいへ~ん・・・



寛保2年(1742)8月1日、暴風雨のため各地で浸水。
8日にも暴風雨で大洪水、溺死者3800人ともいわれる。

寛保3年(1743)おそらく前年の洪水で両国橋にも被害が出たものと思われ、
1月1日、両国橋の改架工事の参考として千住大橋の構造が調査される。

延享元年(1744)5月、新しい橋が完成。


宝暦2年(1752)9月30日、官費で架橋、維持されてきた御入用橋の
一石橋が町方橋に改められる。
10月、官費で架設した深川地区の26箇所の橋が町方の共有となる。

深川は両国のすぐ南だけど、この26の橋に両国橋が含まれているのかは不明。
もしここで町方に移管したのであれば、両国橋でも渡銭を徴収した可能性はある。
永代橋の方は、10年の期限が切れるとまた10年延長されるといった具合で、
ずっと渡銭を徴収し続けていた模様。
橋の維持管理にはそれだけ金がかかったってことだな。

ただ、宝暦5年(1755)頃にも両国橋の修復があったらしく、
「御修復」という言葉があるから、たぶん両国橋は26の橋のうちに
含まれていないんじゃないかと思う。

宝暦9年(1759)頃にも架け替え。

安永元年(1772)9月17日、暴風雨が発生し両国橋の欄干が吹き倒される。

天保10年(1839)架け替え。



『江戸東京年表』から拾えた江戸期の記事は大体こんなとこかな~。
一部ネット資料も参考にしてますが。

まあ、『江戸東京年表』は紙面に制限もあり、
大きなニュースしか載っていない。
話題豊富な年は両国橋はカットされてるのもあるでしょうから、
これだけが両国橋の歴史じゃありません。

ネットで検索すると「十数回架け替えられている」とあっさり紹介している人が多く、
その回数程度の記録が残されているということなんでしょう。


明治8年(1875)になると大きく橋が改修され、石やレンガも使われたらしい。
が、明治30年(1897)、悲劇が起こる。
なんと、川開きに集まった群衆の重さに耐えられず欄干が落下、
死傷者が出たという。
どんだけ・・・

これを機に木橋から鉄橋に変え、位置も現在地に変えて明治37年(1904)に完成。
しかし、関東大震災でこの橋もダメージを受け、昭和7年(1932)に
2代目の鉄橋が完成。

これが現在の両国橋で、東京大空襲をも乗り越えた強い子です


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最終更新日  2014年05月27日 08時40分37秒


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