戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年11月02日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)
●延暦18年(799)

7月、インド人が三河へ漂着する。
7月11日、常陸の4郡で早朝から晩までの間に15回の津波が押し寄せる。
(報告は8月5日に届けられる)
8月8日、天皇が埴川で禊を行う。
9月、布勢内親王(桓武天皇第5皇女)が斎王として伊勢神宮へ入るため、
京畿内の百姓が北極星に灯を捧げて祀ることを禁止する。
9月7日、暴風で京中の多くの建物が倒壊する。

11月、淡路で洪水。
11月4日、地震。
11月8日、淡路で風水害による甚大な被害があったため、淡路の百姓の今年の調庸を免除。
12月4日、山城国を流れる葛野川の渡渉地点である楓(かつら)と佐井に渡し守を置く。
12月8日、平安京工事のため、伊賀・伊勢・尾張・近江・美濃・若狭・丹波・播磨・
備前・紀伊などから人夫を徴発する。
12月21日、僧・等定が辞任届を出す。



すみません、前回の続きです。

最初のインド人の記事は何の関係もありませんのであしからず(笑)。
え~、なんでも小舟で流れ着いた彼はふんどしを着け背中に布を巻き、
左肩から袈裟のような紺の布を下げているといったいでたちで、
現在の尺度で計算すると身長166センチで耳の大きさが10センチほど、
20歳ぐらいの若者だったそうな。

言葉が通じないので唐人に見せたところ、マレーシア人じゃないかと言い合ったが、
日本語を覚えた後に本人が言うには、インド人だと言って琴を弾き、

彼の持ち物の中に草の実があったのでこれは何かと聞いたところ、綿の種子だと答えた。

本人の願いによって川原寺に住まわせたが、自分の持ち物を売って寺の築土の外に小屋を建て、
困窮していた人を休ませたりした。
その後、彼を近江国分寺に移して住まわせたという・・・

ははっ、インド人ってホントかよ?って感じだけど、
南方からの漂流者がこんな時代にいたなんて面白いな。

しかし、唐人なら誰でも異国人の顔を見分けられたわけでもないだろうし、
唐生まれ日本育ちじゃ意味がないので、唐生まれ唐育ちの人が人種判別をしたんだろうな。
その中には渡来僧もいたかもしれない。

前回、2月には早良親王へ謝罪したのにまだ災害は続き、
早良親王の眠る淡路では洪水による甚大な被害があったようです。


12月にはまた大規模に人夫が徴発されて、遷都から5年経ってもまだ
大きな工事が続けられていたようですね。

で、前回延暦18年の初め頃の記述に戻りますが、1月20日に法均が、
2月21日にその弟・和気清麻呂が死んでますね。

『続日本紀』『日本後紀』などの正史では、重要人物の死去の記事に伴って

こういうのを「薨伝」(こうでん)というそうです。

1月20日の法均の記事には簡単な彼女の履歴が書かれているだけですが、
2月21日の清麻呂の薨伝には姉・法均とセットで相当長い文章がつづられています。
ところが、2月21日の薨伝では法均は前年の延暦17年1月19日に死んだことに
なっていて、清麻呂と同じ年に死んだのか、はたまたその前年が正しいのかわかりません。

ま、それはともかく、和気氏は最澄とも関わりがあるので
少し和気姉弟の紹介をしましょうか。


和気の姉と弟が歴史に名を遺すのは、何といっても 宇佐八幡神託事件 。
当然、清麻呂の薨伝にもそのあたりの経緯が詳しく語られています。

まずは姉から。

孝謙天皇(のちの称徳天皇)が出家したのは、
彼女が上皇時代の天平宝字6年(762)頃だと思われますが、
当時は俗人で上皇のそば近く仕えていた広虫も一緒に出家し、名を法均とあらため、
上皇の腹心として諸事にあたったそうな。

藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱の際、仲麻呂に連座して斬刑と定められた者が
375人もいたが、法均が刑の執行を強くいさめたため、
上皇はそれを入れて流刑・懲役刑に減刑したという。

仲麻呂の乱ののち、戦の影響か飢餓や疫病に苦しむ百姓が
草むらに子供を置き去りにするという事例が多くあったようで、
法均はそれら83人の孤児たちを収容して養育し、「葛城首(おびと)」という姓を
天皇から賜って孤児たちの姓としたというエピソードもつづられており、
慈愛の深い女性として描かれている。

で、弟。

称徳天皇の夢に八幡神の使いだという人が現われて、
天皇への奏上があるので使いをよこして欲しいと言ったというのが
神託事件のスタートですが、八幡様に指名されたのは法均だったという話は
ここで語られます。
ただ、法均は長旅に耐えられないので代わりにその弟を遣わしましょう、と
清麻呂を指名したのは称徳天皇。

この話を聞きつけた悪僧・道鏡が清麻呂にこそっと

「ワシに良いような報告をすれば、
アンタを大臣にしてやるよ。
うっふっふ」


と耳打ちしたという腹黒エピソードもここで出てきます。

もちろんわたくしは以前に書いた通り、道鏡個人がちっぽけな野心を持っていたとは
思ってませんが、このエピソードの後に興味深い話が挿入されてます。

すなわち、神託事件の前に道鏡の師が清麻呂に、

「道鏡が皇帝となるようなことがあれば天皇に対して面目ないし、
そしたら野に下って道鏡に仕えずにいようと思う」


と語った時に清麻呂もそれはもっともだと思ったとあるのです。

事件の一連のエピソードについては、どこからどこまでがホントの話かわからないし、
ここで藤原百川や永手が絡んで清麻呂にウソの神託をさせたという推測も
世間にはあるようですが、フジワラムシが絡まなくっても清麻呂の意思が
託宣の結果を導いたという考え方もできますね。

で、結局道鏡の当選ならず、【天皇は意に反する思いがしたが、
清麻呂を処刑する気にはなれず】(『続日本紀』)、

 ・和気清麻呂⇒別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)として大隅へ配流
 ・法均⇒還俗⇒別部狭虫(わけべのさむし)として備後へ配流

という処分にとどめます。

野望を踏みにじられた道鏡は怒り、追手を遣わして護送途中の清麻呂を殺そうと画策するが、
急に雷雨であたりが暗くなり、清麻呂が殺される前に天皇の勅使がやって来たので
清麻呂は九死に一生を得たとある。

法均が流された備後は、和気姉弟ともゆかりの深い地です。
のち政界に復帰した清麻呂も備後について奏上したりしてるし、
ミワラには法均が勧請したという八幡宮が現存します。

以前ミワラへ行った時、その法均ゆかりの神社・御調(みつき)八幡宮も
訪問先の候補に挙がりましたが、結局断念しました。

社伝によると、配流中の法均が八幡様を勧請したってことらしいんだけど、
清麻呂が託宣を聞きに宇佐に行った際、八幡様が

「我が必ず助けるから、
汝は道鏡を恐れず真実を伝えよ」


と言ったとされるので、八幡様のご加護を祈ったのかもしれない。

興味深いのは、御調八幡宮には藤原百川の像といわれる木造の男神坐像があること。
百川は清麻呂の忠義の思いに感銘し、備後にある自分の所領20戸分の収益を
配流先に届けさせたというエピソードがあるのだ。

どころか、三原市の観光情報サイトによると、百川が自腹を切って
宝亀8年(777)に御調八幡宮の社殿を造営したとある。

藤原氏系図-2


百川が活躍した時代はちょうど皇統が入れ替わった時期にあたり、
いとこの永手とともに希代の策略家としてのイメージが一般には強い。
備後における百川の肩入れをもって託宣事件は百川と清麻呂が仕組んだという
見方もされるんじゃないかと思うけど、いずれにせよ百川と和気姉弟とは
それなりの結び付きがあったとは言えるだろう。


さて、称徳天皇がナゾのある死を遂げると、
そのわずか1ヶ月後に和気ズは早々と呼び戻される。
これまでの年表ではほとんど載せてきませんでしたが、
その後は姉・弟とも順調に位階を上げて天皇の信任も受け、
延暦4年(785)と延暦7年(788)には清麻呂の進言によって
運河の大工事も行われるまでになる。

延暦4年の工事は成功して物流路の確保に至ったらしいんだけど、
延暦7年に23万人を動員した摂津の大工事 では費用がかさみすぎて失敗。
これが成功していたら 延暦11年(792)の長岡の洪水 は起こらず、
平安遷都はなかったか、あるいは少し先へ延びていたかもしれない。

ところで、工事に関連してウィキペディアにはこんな文章がある。

 【堀越神社前の谷町筋がくぼんでいるところと、大阪市天王寺区の茶臼山にある河底池は
  その名残りとされ、「和気橋」という名の橋がある。】
  (和気清麻呂のページより)

へえっ、茶臼山!?
そういえば、公園の正面口から入って茶臼山に向かう手前に池があったような・・・
なにしろ、あの頃ってまだホントにかけ出しで茶臼山の記憶は脳裏に焼き付いているものの、
写真はこんなのとか↓

茶臼山公園


こんなのしかない(通りすがりの動物専門学校)。↓

チョーカワイイ~


まあ、地図を見ると茶臼山と河底池のすぐ裏が 堀越神社 だから、
あの辺を工事してたってことだな。
なら、工事が成功してれば大坂の陣では別の場所に本陣が置かれたかもしれないってことか。
ほおほお、なるほどね~。

後年、清麻呂は足が不自由になり自分の足で歩けないのに
宇佐の八幡様へお参りに行こうと輿に乗って出立した。
途中、野生のイノシシが300頭ほど現れて静かに列を作り、
10里ほどゆっくりと先導してそっと山へ消えていった。
清麻呂が八幡様にお参りをすると、その日のうちに歩けるようになったという。

して、八幡様の神封から綿8万屯を与えるという神託が降りたので、
豊前の国中の百姓に分け与えたという。


こんないい話満載の和気姉弟の薨伝ですが、法均は死ぬ前、弟と約束をしたという。
当時は初七日から7日ごとに49日まで法要を営む慣習があったようだけど、
その7日ごとの法要や年忌にいちいち追善の供養をする必要はない。
2~3人の僧侶を呼んで遺族が静かに仏事をするだけで十分である。
後世の子孫たちは私達2人を手本とすることになるだろう、とな。

これがのちの最澄の事蹟と関わってきます。


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最終更新日  2014年11月04日 21時26分59秒


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