戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年11月03日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)
●延暦19年(800)



相変わらず権勢家による独占が続いているので、これを改めるように。
ただし、東寺と西寺が堂宇建設のために大木を伐り出すのはヨシとする勅を出す。
4月12日、前年に漂着した自称インド人がもたらした綿の種子を諸国へ下賜し、栽培させる。
4月23日、和泉で大きな桃やスモモほどのアラレがふった。
6月1日、日食。

7月23日、「思うところがあり」早良親王を「祟道(すどう)天皇」と称し、井上内親王を
「皇后」の称号に戻し、2人の墓を「山陵」と改称することとする。
春宮亮・大伴是成に陰陽師と僧侶を引率させ、淡路の早良親王の山陵を鎮め謝罪させる。
7月26日、淡路国津名郡の2戸に早良親王の陵を、大和国宇智郡の1戸に井上内親王の陵を
守らせることとする。
7月28日、早良親王・井上内親王の陵に使者を遣わし、それぞれ天皇号の追贈と
皇后位の復位の件を報告させる。

8月14日、雨がやまないので丹生神社へ白馬を奉納。
8月15日、薬師寺の僧・景国が前年の勅を受けて還俗したい旨奏上する。
10月4日、畿内周辺の民1万人を動員して葛野川の堤防を修繕させる。
10月14日、大安寺の僧・孝聖が老母の世話のため還俗を申し入れる。
10月15日、宝亀6年の遣唐使・伊予部家守が死去。
10月28日、征夷副将軍を任命。

11月2日、今年は不作なので、不作を言上してきた国の田租は免除とする。
11月6日、征夷大将軍・坂上田村麻呂を派遣して諸国へ移住している蝦夷の監督をさせる。



桓武ちゃんがついに公的に大敗北を認めました(←うれしい)。
そりゃ、富士山まで大噴火を起こしちゃえばね~。
これ以上はもう持ち堪えられなくなったようです

ところでこの噴火、山麓にまで降灰はあったようなんですが、
『日本後紀』の記述はごくあっさりとしたもので、一体どの程度の規模だったのだろうかと
ネットで検索してみたところ、「静岡大学防災総合センター静岡大学教育学部総合科学教室」の
「小山真人研究室 」様のサイトがあったので見てみました。

それによると、今回の噴火と貞観6年(864)、宝永4年(1707)の噴火をあわせて


宝永の噴火は有名ですね。
貞観の噴火も富士五湖のうち本栖湖・精進湖・西湖を現在の姿に変えたとされる
大量の溶岩の流出があり、この2つは文句なく大噴火だったようですが、
延暦の噴火については正史以外の史料は信憑性に問題もあり、
実際どの程度の規模だったのかはよくわかってなかったらしい。

そこを小山氏が上記サイトで考察されている訳ですが、
大ざっぱに言って山頂での噴火ではなく、北側2か所からの割れ目噴火で
甲斐への交通などが打撃を受けたらしい。
まあ、甲斐へは東山道を代用することで往来はしのげたようなんだけど。

南側の東海道でも街道の付け替えがあったという記述があり、
当時の東海道がどこを通っていたのかの考察を加えた上で、

一時的に支道への付け替えなどが行われたのではないかという。

どうも客観的に見て貞観・宝永の大噴火に匹敵するほどの威力はなかったようだけど、
当時の人にとって自然災害は単なる自然現象じゃないし、
時期が時期ですので、報を受けた桓武はそれこそ噴火ばりに

「どっかーーーーーん!!」

という衝撃を受けたことでありましょう(笑)。


お2人が配流の際、皇籍剥奪にまで至ったとは確か書かれていなかったものの、
早良親王には本来なるべきだった天皇位の号を贈り、
井上内親王は「廃后」からもとの「皇后」という称号へ戻してます。
(本ブログではこのまま「早良親王」で通します)

「山陵」というのは天皇や皇后の墓のことをいうので、
お2人の墓をそう呼ぶのは当然のことですね。


8月と10月には大寺の僧が還俗を申し入れてますが、
ともに「修行についていけない」という理由によるもの。
締め付けがだいぶ厳しくなったので、やりにくくなったのかもしれません。
お気の毒に・・・

本来の修行という点では、僧侶が妻子を持ったり経済活動をするのは
確かにいただけない事だけど、わたくしはそういう人達に対して
あまり批判的な気持ちにはなれません。
というのも、人には色んな事情とレベルがあるからです。

僧尼が勝手に本寺を離れて山でうろんな事をするんじゃねえ!とか、
愚かな民を言葉巧みにアヤシゲな方向に扇動するんじゃねえ!とか
色んな禁制が出されてますが、それは権力者の勝手な言い分で
「衆生の救済」という大乗の精神から見たらどうでしょう。

それでなくても身分・貧富の差は激しく、何かと言っては動員されたり
戦争に連れて行かれたり、プラス桓武の失策による(笑)災害の頻発。
救いを求める民衆は多くいたはずです。

この時代の僧・景戒による『日本霊異記』には執筆の動機も書かれており、
その段では因果応報について紹介した上で、自分はすぐれた学識や呪術力もないけども
心は仏法から離れることはなく、また切望する人たちのために不思議な話を書き留めた、
としている。
中田祝夫氏はこの段について、

 【(前略)この因果応報の理を広く世の人びとに自覚してもらうことが、当時の国家社会の
  悪弊と衰退とを救済するうえに有益に機能すると景戒は熱心に考えていたらしい。(中略)
  『日本霊異記』の編集者、景戒は南都薬師寺に在住してはいるが、いわゆる聖僧、学僧では
  なく、在俗の世俗的な生活者の過去と経験をもっていた。『霊異記』は、そのかつての、
  または現在の世俗的な生活経験から産み出されている。

  これは聖僧や学僧のための読み物ではない。そうではなくて、もっとも低い社会の底辺の
  人びとのためのものであり、そうした人びとに対する講話の資料集であったと思われる。】
  (『日本霊異記』(下)/講談社学術文庫より)

と解説する。

ま、因果応報が柱の説話集なので、

「ええ、これはアリなの!?」

みたいな話もあるにはあるんだけど、中身の是非は置いといて、
大寺の奥深くでひたすらお経に向かってる高僧よりも、景戒のような俗っぽい僧の方が
案外民衆を多く救ったかもしれないよな~なんて想像も浮かぶワケです。

景戒のような人のことを思うと、やっぱり最澄はホワイトカラーの人間だよな、
とも思いますが、それぞれのやり方があるのを別に批判するつもりもありません。

ところで、平安末期の浄土信仰フィーバーの頃、さかんに「末法」という言葉が
使われますが、景戒によるとお釈迦様の死後500年が正法(しょうぼう)の時代、
その次の千年が像法(ぞうほう)の時代、最後の1万年が「末法」で、
末法は延暦6年(787)から始まるんだそうな。
つまり、この記事はすでに末法の時代に入ってるということですね。

で、『霊異記』を記した動機の段(巻下序)は末法スタートの延暦6年に書かれたようだけど、
その中で

 【この愚かな僧景戒、学んでいるとはいえまだ天台の智者ひじり、智ギのような法を
  問う術を心得ていない。】

と言っている。
また、延暦19年頃に書かれたと思われる最後の方の段(巻下第38)では

 【また、まだ天台山の智者大師の深甚な解義も理解することもできないでいる。】
 (訳文はいずれも前掲書より)

と言っている。

今回の記事の年、延暦19年は最澄が世に出始めた時期だし、
その2年前には最澄が法華十講を催したりしてるので、
景戒が天台大師・智ギのことを持ち出してるのは最澄の影響が皆無とは言い切れないものの、
延暦6年ったらまだ最澄が山籠りを始めて3年目。
ヘタしたら、まだ最澄は天台経疏を手に入れてなかったかもしれない時期。
ので、延暦6年に景戒が智ギのことを書いているのは、明らかに最澄の影響じゃない。
これについて佐伯有清氏は

 【しかし、最澄とは別に、鑑真の門流である思託や法進によって説かれていた天台大師智ギの
  教説が、延暦期に入って学僧のあいだで注目されるようになっていた風潮が、景戒の記述に
  反映しているといえるであろう。

  そのような風潮のなかで、とくに最澄が天台の教学に着目し、智ギの教説を自分のもの
  とし、そして高雄講会において、それまでの研鑽の成果を宣揚するにいたったのである。
  最澄は、仏教教理の新しい時代的傾向を先取りした傑出した人物なのであった。】
  (『若き日の最澄とその時代』より)

と解説する。

「叡山攻め(31)」 で渡来僧の簡単な紹介をしてますが、
こうした方達が地道に種をまき、法進などが鷹揚に天台経疏の書写を認めたりする中で
ようやくそれが実を結び始めた時期が延暦年間といえるでしょう。

そして、その中で最も早く、最も大きな花を咲かせたのが最澄だった。
最澄を簡単に語る時、「叡山にこもって勉強するうち、天台の教えが
最も優れていると感じ・・」というような説明が多いように思われますが、
何もないところから最澄はいきなり天台に目覚めたのではなく、
充分な土壌の上に最澄が立ち上がったことがここからもわかります。

さらに、桓武の事情が日本天台宗の躍進を後押ししました。
ま、桓武の事情は最澄とは関係ないので、最澄がもう少し遅く生まれていたら
すでに熟しつつあった天台の土壌の中から誰か他の先輩が
日本天台宗を開いていたかもしれませんね。

「歴史にif(もしも)は禁物」とはよく言われるところですが、
それは歴史を自分の頭で考えたことのない人が言うセリフで、
歴史から空想(妄想?)を除いたら面白くも何ともないじゃないか~・・・
とわたくしは思いますね。

景戒つながりで記事の内容が少し先走ってしまいましたが、
「高雄講会」についてはこの後の記事で紹介します。


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最終更新日  2014年11月03日 22時58分35秒


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