戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年11月15日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)
天台山における最澄のスケジュールを『若き日の最澄とその時代』から
ダイジェストに追ってみましょう。

10月6日、仏隴寺(ぶつろうじ)に到着。
10月13日、山上の道場に登り、牛頭禅を受ける。
10月14日、行満から法を付せられ、行満所持の教迹(きょうじゃく)80巻余りを
譲り受ける。
10月25日、行満と一緒に仏隴寺に戻り天台の宗旨を受け、智ギの説いた五時八教を悟る。
10月26日、行満から湛然の袈裟・真筆の手書など湛然ゆかりの品々と
『仏隴道場記』を贈られる。


天台山にいたのは、約1ヶ月。
最澄としてはもっといたかっただろうけど、
それでも行満は最澄にかなりの好意を示したようで、おそらく多くの時間を
行満とともに過ごし、密度の濃い1ヶ月ではあったろう。

また、この1ヶ月の間に天台山国清寺の僧・惟象(ゆいしょう)から
「大仏頂大契曼荼羅」の行事を伝授され、その「付法文」を授けられている。
つまり、ここまでで最澄の本来の目的である天台の法統を受け継いだほか、
禅と密教もゲットしたことになる。

のちの史料に、最澄が自分の後に続いて天台山にやって来る日本僧のために
天台山に院舎を作ったという記述があるそうな。
「伝法院」と呼ばれたこの院舎は、最澄が去ったのちの廃仏運動によって破壊されたと

佐伯氏は語る。
まあ、そりゃそうだよな。

天台山滞在がわずか1ヶ月というのは、短期留学生であるため
日程に余裕がないからかと思ったら、そのほかに碩学である道邃(どうずい)が
天台山にいなかったからだという。


結局、振り出しに戻るような形にはなってしまったものの、
もし道邃がもっと内地の方に出向いてたら最澄のスケジュールはかなり厳しいものになったし、
場合によっては道邃の教えを戴くことは断念せざるを得なかったかもしれない。
これも、ラッキーといえばラッキーだよな。
来た時の日程から推測すると、11月下旬には台州に着いて道邃に会っていたと思われる。

同じ頃、第2船の使節一行は長安の都へ到着していた。
無念の死を遂げた副使の石川道益に代わって副使代行を務めたのは、
判官の菅原清公(きよとも)。
清公たちは長安城の外宅で、大使の到着を待っていた。

いやあ~、今だったら電話で

「あ、もしもし、葛野麻呂さん?
今どこ!?
こっちは今、長安に着いたところだよ。
いやもう、道益さんは急死しちゃうしさ、
ホントどうなることかと・・・
ともかく無事に着いたならよかった。
道中気を付けて、1日も早く長安に来てくださいね」


で済むところが、来るかどうか以前に生きてるのかもわからない状態で
仲間と現地集合するってのもすごい話だよな~と驚嘆しますね
まあ、第1船は8月には到着しててもう11月だから、
早馬で「日本大使、到着!」の報ぐらいは長安に届いていたでしょうけどね。
だから藤原葛野麻呂の到着を外宅で待つことになったのかもね。


ところで最澄の通訳として一緒に唐入りした義真(ぎしん)、この人もツイていた。
義真は遣唐使が最初に発遣された延暦22年に得度した沙弥で、22歳の若者。
幼い頃から漢音を学んで、ほぼ唐語は話せたという。

最澄が通訳の随行を申請した書状によると、義真はまだ若いながらも聡明で、
経疏にもよく通じていたという。
義真は最澄の自腹で渡航したのではなく、その他の研修生と同じく国費での渡航。
通訳が国費で渡航した例は、義真が最初なんだそうな。

通訳とはいっても、義真も得度を済ませ経疏もかなり身に付いている。
通訳として、またイチ沙弥として最澄とともにあって行満らの教えを学んだ義真は、
12月7日、天台山国清寺にて具足戒を受ける。

「叡山攻め(10)」 で鑑真が本場の戒を持ち込み、それまで日本にあった
「梵網戒」は「菩薩戒」として在家・入門僧用の戒に格下げされ、
具足戒には「三師七証」が必要とされるようになったことを紹介してますが、
義真の受戒にも同じく三師七証が揃えられ、その10人はすべて中国僧。
10人の中には国清寺以外の寺からの参加者もいますが、
おそらくすべてが天台僧でしょう。

最澄は11月5日に天台山を離れてるから、義真は受戒のために残ったものか、
あるいは一旦最澄とともに台州へ行ったあとでまた天台山へ向かったものか。
スケジュール的には、一旦台州へ行って戻ったとしても12月7日には
間に合うと思われる。
最澄は、本場の天台僧による厳かな受戒の儀式を受けられる義真を
ちょっとねたましく思ったんじゃなかろうかとゲスの勘ぐりをしてみるわたくし・・・


さて、遣唐大使・葛野麻呂は11月3日に福州を出て昼夜兼行で急いで長安を目指して
12月21日に長安の長楽駅に到着。
唐側でもさすがに大使に対してはそれなりの礼も尽くしたものとみえ、
12月23日に内使が良い馬23頭を率いて葛野麻呂の出迎えに赴き、
酒と肴で歓待を受けてから菅原清公の待つ外宅へ案内された。
幾多の苦難を乗り越えて長安で再開した葛野麻呂と清公は、
手に手を取って涙を流して互いの無事を喜んだことだろう。

しかし、遣唐使の本番はここから。
翌12月24日、信書や献上品を監使に託して皇帝へ献上した。
皇帝・徳宗は献上された品が精巧であることを喜び、寒い時期でもあるので
健康に留意するようとのねぎらいの勅を出す。

その翌日、大使らは参内するも最初皇帝は臨席しなかった。
が、場所を変えて皇帝に拝謁が叶い、引き続き内裏と使院で宴が催され、
そのまま夜を明かした。
葛野麻呂らにとっては、この上もなく美味い酒だったことだろう。

いや、教科書で「延暦23年、遣唐使を派遣して最澄と空海は入唐した」
と読んでも感慨も何も湧かないけど、実際の流れを追ってみると実に壮大かつ危険で、
9世紀初頭にこんな大冒険をした人達がいたのか~と
ドラマティックな歴史にコーフンしますね。


●延暦24年(805)

1月1日、天皇が病気のため朝賀は取りやめ。
1月2日、皇帝・徳宗が病となる。
1月14日、天皇が病床に皇太子を呼んでしばらく言葉を告げる。
ついで大法師・勝虞を呼んで鷹犬を放たせる。
早良親王のために淡路に寺を建てさせる。
この前年の勅などで法に違反する僧侶を追放してきたが、それらはみずから反省し、
今では修行するようになっていると聞くので、彼らが本寺に所属することを許す。
1月22日、午後2時頃、大きな流星が落下する。

1月23日、徳宗、崩御。
1月25日、地震。

2月、備後で飢饉。
2月6日、宮中などで150人の僧侶に『大般若経』を読ませる。
井上内親王と他戸親王の霊を慰めるために建立されていた霊安寺に一棟の小倉を作り、
稲30束を納める。また、別に井上内親王と他戸親王の霊を慰めるため、綿を納める。
2月10日、石上神社から運び出していた武器を石上神社に返還する。

2月15日、道邃が最澄に「付法文」を与える。
2月19日、天皇の病気が治らないため、諸国の国分寺へ薬師悔過をさせる。
最澄、『台州録』を作成。
2月20日、陸淳が最澄の『台州録』に印記を記す。

2月25日、東大寺の賢高を天台経疏とともに内裏に召すという「内裏宣」が出される。
2月29日、最澄が道邃に10ヶ条の質問を出す。

3月2日、最澄と義真が道邃から円教の菩薩戒を受ける。
3月3日、台州の官人や天台僧が最澄へ送別の詩を贈る。

3月20日、藤原種継暗殺事件・氷上川継の乱などに連座して配流されていた者
数名を赦免し、帰京させる。

3月21日、道邃が最澄との別れを惜しむ文章を贈る。
3月23日、伊豆に配流されていた氷上川継を許す。
天皇の病気平癒のため、伯耆から玄賓(げんぴん)法師
を招く。
3月25日、最澄が明州の館に戻る。
3月27日、天皇の病気平癒のため、天皇に潅頂法を行う。また、恩赦を行う。

4月1日、遣唐使船第1船が福州から明州に到着する。
4月3日、遣唐大使一行が明州に到着。

4月4日、調を京へ運ぶ脚夫のために、路次の国では脚夫の救済や医療にあたるよう
勅を出す。
4月5日、諸国に命じて早良親王のために小倉を建て、正税40束を納め、あわせて
天皇に準じて国忌の扱いとして奉幣を行うことにする。
4月6日、天皇が皇太子以下参議以上の者を呼んで死後のことを託す。
4月10日、宮中の武器庫の鍵を安殿親王に預けさせる。
使者を遣わして賀茂神社へ幣帛を奉納する。
4月11日、早良親王の墓を淡路から大和国へ改葬する臨時の官司を任命する。

最澄が越州の龍光寺に到着。
4月18日、最澄、三部三昧耶の潅頂を受ける。

5月、甲斐・越中・石見で飢饉。
5月5日、最澄が五仏頂法などを伝授される。
5月11日、天皇の病気平癒のため、修行法師位・聴福を紀伊へ遣わして三重塔を建立する。
5月13日、最澄、『越州録』を作成。
5月18日、遣唐使船第1船と第2船が明州から出航する。
6月8日、遣唐使船第1船が対馬へ停泊。



いやもう、思いっきり途中で申し訳ありませんが、
少しでも先へ進めておきたいしね。

この年は桓武の総決算とも言うべき年で、こうして書き出してみると
ものすごいことになってます。

トップニュースはやはり怨霊の鎮魂で、井上内親王と他戸親王も久々に顔を出してますが、
それより何より、ついに早良親王が畿内へ戻ってくることになりました。

2月10日の石上神社の記事は、遷都で武器のある石上神社から遠くなってしまったため
京に近い場所へ武器を移したものの、それが石上神の怒りに触れ、
天下の諸神をも巻き込んで天帝に桓武の悪行を訴え、報復してやる~!
という託宣までもらっちゃってます。

人生の集大成がコレですよ
天変地異は現代でもどうしようもないから、色々な天災に遭った桓武天皇は
お気の毒っちゃお気の毒なんだけど、まあ心当たりもありすぎるほどあったから、
自業自得とも言えるよな。

一連の流れを見るに、氷上川継の赦免は桓武の病気による恩赦だったことがわかりますが、
ここに書いてない以外にも得度枠を与えたという記述がこの年は滅茶苦茶多い。
これまでは公卿などに枠を与えていたものが、この年の特色は僧侶個人へ与えたこと。
大安寺の勤操などもその中に入ってます。

そうして懸命に徳を積もうとしているものの、桓武の病はなかなか治らず・・・


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最終更新日  2014年11月15日 22時59分07秒


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