戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年11月19日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)
帰国した最澄は藤原葛野麻呂らと一緒に上京したものと思われ、
7月15日には智ギの禅鎮なども物惜しみせず献上している。

この時は最澄自身は参内しなかったようで、 「叡山攻め(61)」
延暦16年(797)の一切経書写事業の際、お金がないからカンパを求めに
七大寺へお使いに出された弟子が献上品の搬送にあたったそうな。

献上された品々には最澄の上表文が添えられており、
まず桓武が自身の徳により皇位に就いたことを称え、

仏教の完全な教えを伝えるものは天台であり、その天台を掲げて広めるのは桓武だとした。

して、桓武は和気弘世に命じて天台の教えを広めるため、
最澄が持ち帰った天台の法文を宮中で使われる上質の紙を使って7通分書写させた。
この7通はそれぞれ七大寺へ配られ、よく勉強するようにとの意図があり、
ついで法相・三論などの6人の僧に常住寺において天台を学ばせる命令も出した。

ここまではいい。
最澄自身も本場で学んで自信を付けていただろうし、
そういう自分の姿を見てさぞ桓武は喜んでくれて天台を広めてくれるだろう・・・
最澄の中にはそういう未来予想図が描かれていたんじゃないかと思われる。

実際、桓武は喜んでくれた。
が、桓武の重病という、最澄の出国前と帰国後で異なった事情があり、



8月9日、最澄は宮中に招かれて唐みやげの仏像を献上し、悔過読経を行う。
これは【桓武天皇が仏前に懺悔し、罪報を免れることを求める法会の読経】
(『若き日の最澄とその時代』より)だそうで、それは天台に基づくものではなく
密教に基づくスタイルで行われた。
ここから桓武の密教ブームが始まる。


これまでの記事のように実際には最澄以前から国内にあった。
密教の一般的な説は【日本で密教が公の場において初めて紹介されたのは、
唐から帰国した伝教大師最澄によるものであった】(ウィキより)とされ、
ついで帰国した空海によって完全なものがもたらされた、といわれる。

けど、最澄帰国以前にはホントに国内には密教はゼロの状態だったのだろうか?
広く知られていないながらも天台が国内に持ち込まれていたように、
渡来僧によっていくばくかの密教らしきものも存在してたんじゃないのか?
と思っていたら、やっぱりゼロではなかったらしい。

井沢元彦氏は、著書の中で「天台の教えを学びに行った最澄が、
禅や密教も持ち帰ったというのはいかにも宗教に寛容な日本人らしい話ではないか」
という意味のことを言っている。

昔はなるほど、と思ったし、確かにそういう一面もあるのかもしれないけど、
渡来僧を見ると皆さま複数の教えを学んでいる。( 「叡山攻め(37)」 の表参照)
リンク先の表で鑑真は「律」のみにしているけど、実際は天台の流れも汲んでいたことは
以前紹介してますね。

で、リンク先では「菩提僊那が導師を務め、道センが呪願師を務めた」と紹介してますが、
唐僧・道センと一緒に来日したインド僧・菩提僊那(ぼだいせんな:ボーディセーナ)は
その弟子が残した伝記によると華厳経の諷誦(ふじゅ)に優れそれを教えの真髄とし、
「もっとも呪術を善くす」とあり、どうやらこの「呪術」がインド密教のことを指すらしい。

ウィキペディアには【インド呪術は、僊那から日本僧の弟子へ伝授された】とあるものの、
その特殊性のゆえなのか、あるいは最澄のように菩提僊那自身が完全な密教を
身につけてなかったのか、あるいはあまり密教色は出さなかったのか・・・
ともかく、日本に根付くという段階には至らなかったらしい。


最澄の話に戻りますが、それまで桓武は目新しい天台に飛びついて
最澄の出国前は天台を広めるにはどうしたらいいかと下問し、
最澄の留学中は東大寺の賢高から天台の教えを受け、
帰国後はまず天台の七大寺への浸透を図っている。
ここまではまさに天台一色で、密教の「み」の字も出てこない。
それが、8月9日以降一変。

またまた和気弘世を呼んで、

 【真言の密教が、まだこの国には伝わっていないが、最澄が幸いにも、これを唐で
  得てきたので、諸寺の智行兼備の者を選んで、潅頂三昧耶を受けしめるように(後略)】
  (『若き日の最澄とその時代』より)

との勅を出した。
佐伯氏によると、この勅はおそらく8月9日の悔過読経の直後のことだろうという。
ということは、初めて見た密教風の神秘的な法会に


朕の病気を治し、早良の怨霊から国を守るのは
この教えかもしれんて。
これからは密教の時代やな!!」


と桓武はえらい魅了されたのかもしれない。


桓武の命を受けた和気弘世はさっそく氏寺の高雄山寺をイベント会場と決め、
法壇を築いた。
この潅頂に関する桓武の力の入れようは相当なもので、
まず勅使が派遣されて会場の設営全般を担当。
それから腕の良い画工が20人ほど集められて曼荼羅やら仏像やらを描かせ、
幡50ほどが縫い造られて会場を飾るグッズたちが新調されたほか、
内裏からは会場を飾る調度品もレンタルされた。
これだけの手配をした上でなお、法会に必要で足りないものがあれば
最澄の指示に従ってすべて調達するようにとの勅が出された。

天皇お声がかりの一大イベントに参加した・・・いや、させられた僧たちはといえば、
七大寺などから選ばれた当代きっての碩学たち。
彼らの中には、

「ええ~、勘弁してよ~!!」

ってボヤいた僧もいたかもしれない。

8月27日、イベントの件についてさらに「内侍宣」が出される。
そこには、菩提僊那の死(760年)のあと久しく密教が絶えてしまったが、
まさに今、最澄が海の向こうから持ち帰ってきたのでこれを伝えてほしい、とあった。

そして、興福寺の修円(しゅえん)と大安寺の勤操(ごんぞう)に対して
自分の代わりに潅頂を受けて欲しいと頼んだ。
2人にはさらに、尊い身分であるという自分のプライドを捨てて身を犠牲にし、
弟子たちを引き連れて参加せよ、という言葉まで付け加えられた。

勤操(三論宗)は何度か出てきてますね。
高雄講会の記事では、法華十講の参加者以外の新しいメンツについては
煩雑さを避けるために法相宗からの2名の参加者の名前は出しませんでしたが、
修円はこの2名のうちの1人です。
佐伯氏はこの4名の新規参加者を「逸材」としているので、
勤操・修円ともに高い地位にあったのでしょう。

その2人に対して、まだどういうものかもよくわからない密教を、
しかも自分より下の地位にある若造に辞を低くして教えを請えと厳命したのだから、
桓武もムチャ言ったもんです。
桓武の命令にはまだ続きがあります。

 【これにつづいて「内侍宣」は、「世間の誹謗を憚る可からず」と述べている。つまり
  これは、世間で非難されても恐れてはならないという、きわめて注目すべき言及である。
  たしかに、このようなことに、わざわざ言いおよんでいるのは、当時、仏教界からの
  反発が予測される状況が存在していたからである。】
  (前掲書より)

そして諸宗の僧に対しては、受けたいと希望する者には受けさせ、辞退する者には
無理じいはしないから、参加・不参加を決めたらその結果を書状にして提出せよ、とした。

 【これは勤操・修円以外の僧に対して受法するか、しないかを自由意思によって決めさせた
  ごとくにみえる。しかし、参加・不参加の者の名前をつらね、印署を加えた文書を提出
  させたのでは、最澄からの受法を辞退するわけにはいかなかったのではなかろうか。】
  (前掲書より)

・・・要するに、相当ゴリ押ししたようです
結局、9月7日に高雄山寺で潅頂を受けたのは8人。
ここでは越州で順暁から受けた三部三昧耶が役に立った。


しかし、桓武はこれにあきたらず、9月上旬には野寺(京都市北区)の西郊に
三部三昧耶の潅頂の会場と同じく新しい壇場を造らせて五仏頂法の潅頂を行わせた。
これには勤操・修円のほか9人ほどの高僧が参加したという。

五仏頂法は唐での最後の最後にばたばたと3人の僧から
あれこれ伝授してもらったうちの1つで、

 【五仏頂法の五仏頂とは、一字仏頂輪王、白傘蓋仏頂、高仏頂、勝仏頂、光聚仏頂の五仏の
  ことであって、五仏頂法は、これらの諸尊を本尊として除災や怨魂の押除を祈る修法で
  あった。最澄が五仏頂法を修したのは、その修法の性格からして、まさしく祟道天皇の 
  怨魂を慰め、怨霊を鎮めるための修法であって、この修法によって桓武天皇の病気の快癒を
  祈ったのである。】
  (前掲書より。祟道天皇は早良親王のこと)


『奈良仏教と古代社会』(冨樫進/東北大学出版会)によると、
井上光貞氏は律令的国家仏教の性質を3点にまとめているそうな。
すなわち、

1、国家の寺院・僧尼に対する統制
2、その統制の範囲内における国家の仏教に対する保護育成
3、(哲理・思想の普及ではなく)呪力による国家繁栄の期待

井沢元彦氏は奈良時代の仏教のことを「宗教というよりは学問」とし、
最澄も唐入りの指名があった際に 「三論と法相は論によっており、ただ天台だけが
経によっている」
と言っているので、確かに仏教界の上辺では学問的性格が強かったのだろう。

その一方で、世俗ではオカルトちっくなものに人気が集まる傾向にあった。
過去の記事では、「みだりに愚かな民衆を惑わすな」と何度も勅を出しているものの、
そういう権力者も怨霊対策や病気平癒に仏教をフル活用している。

桓武は長いこと井上内親王や早良親王の怨霊に頭を悩ませており、
最澄が帰国した時点では自分も重い病気にかかって一時は死を覚悟するところまでいった。
この病気も単なる病気ではなく、おそらく怨霊によるものと桓武は考えただろうし、
天皇の病がなかなか治らないのは国家にとっては危機的状況でもある。

つまりは桓武の病気と怨霊をなんとかすることが「国家繁栄」につながることになり、
はじめは知ったばかりの天台に期待を寄せたが、密教に触れるに至ってそのとりことなり、
無我夢中で密教にかぶりついた、ってとこだろう。

ここからも、桓武にとっての仏教は「手段」だったことがうかがえる。
聖武天皇&藤原光明子夫妻にとっても同じく手段だったと思うけど、
聖武夫妻はどうにか後世に体裁を取り繕うことができた。

「叡山攻め(60)」 で桓武は【本来陰陽道自身には存在しない精霊への恐怖にとりつかれ、
陰陽道に救いを求めた】という村尾次郎氏の文を紹介しましたが、
精霊(怨霊)が存在しないのは仏教も同じ。
それに気付かず、桓武は蜜を求めて花から花へと飛び回るちょーちょのように
新しい「手段」を求め続けるのです。


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最終更新日  2014年11月19日 23時44分02秒


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