戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年11月21日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)
桓武は延暦24年9月に入って最澄に三部三昧耶、五仏頂法の潅頂を行わせたあと、

毘盧舎那法は 越州の順暁 から伝授されたものだろうと佐伯氏は言う。
ここまでで、越州でほとんどにわか漬けのような形で身に付けてきたことが
大いに役に立っている。

のちの円珍は、桓武の病気平癒のために法を修したことが
日本天台宗の発展につながったとしている。
ただ、もしあの時鄭審則が順暁のもとで潅頂を受けたらどうかと勧めなかったら、


桓武の密教熱に最澄は驚かされた、とはよく言われるところで、
最澄も内心呆れていたかもしれないけどともかく今はこうして実績を積んでいくことが
次につながると考えていたかもしれない。

叡山に入った時の願文では、一定のレベルに達するまでは
世俗に関係したり法会に参加することはしないとしているものの、
最澄は権力は否定していない。

叡山にこもった理由としてよく言われるのが、
「道鏡のように権力に積極的に関わろうとする腐敗・世俗化した南都仏教界に
嫌気がさして、ひとり山に分け入った・・・」てな感じのこと。

が、山籠りした時点でなにか壮大なことをやらかしてやろう、というほどの

でも、当時の社会の枠組みを考えればこれは仕方のないこと。
権力を無視して新しい風を起こそうなんてあの当時にできるワケがない。
まあ、中には行基様のような方もいるにはいたけどね。

最澄は現実をよく理解していた。
そしてここでも桓武の病気という良いタイミング(笑)に恵まれて、

権力=悪という単純かつ安直な思考に乗っかっているだけじゃ、
最澄ですら権力に取り入った悪僧ということになってしまう。


さて、前々回のタイムテーブルの10月3日に
最澄が葛原(かずらはら)親王に鎮将夜叉法の修法を伝授したという記事があります。

葛原親王は桓武の第3皇子。
伝承によると、葛原親王と最澄は師弟のちぎりが深く、葛原親王の要請によって
最澄が一寸の毘沙門天の座像を作って鎮将(ちんじょう)夜叉法を授けた。
ところが効果が現われなかったので再度親王に秘密の念誦を授けたところ、
今度はウソのように効果が現われたという。

佐伯氏は伝承の真偽は不明なるも、そういう可能性はあるだろうとする。
佐伯氏が着目したのは、毘沙門天とその眷属の夜叉が北方の守護神であること。
延暦24年のラストには蝦夷征討にようやく終止符が打たれるものの、
平定し終えたから引き上げたのではなく、あくまで朝廷側の事情によるもの。

 【こうした状況のなかで、時の政府は、いつ蝦夷の反撃が展開されるか予測のつかない、
  あやうい状態に直面していた。その状況は翌年(延暦24年:ジジイ註)になっても
  つづき、葛原親王が北方の守護神である毘沙門天の眷属夜叉に祈る秘法の伝授を
  最澄に要請したのは必然の成り行きであったといえるであろう。】
  (『若き日の最澄とその時代』より)

「鎮将夜叉」様の名はあまり聞き慣れないかもしれませんが、
わたくしはこの夜叉様にゆかりのある寺を2つ知っています。

ひとつはわたくしの魂のふるさと、日光輪王寺。
去年の日光詣での際はこの夜叉像が9年ぶりに公開されていたので、
拝んできましたよ~。( 「2013日光詣で」 参照)

うん、そういえば、今年は日光写真館がストップしてるな・・・
寛永寺シリーズもようやく終わって叡山シリーズに入ったので、
これで日光写真館の記事を上げれば今年は「 三山管領 」ブログになるな
とバカなことを考えた時もありましたが(笑)、ちょっと歴バナに続く歴バナで
それどころじゃ・・・
それに去年はロクな写真を撮ってないし、なによりこれまで大猷院の境内は
大らかに公開してたものが、去年からみみっちく制限されちゃったからな。
どうにも興ざめしたので、あまり書く気が起こらないのだ。

いやいや、日光のグチを書く場じゃありまへん。

もうひとつが、京都市の毘沙門堂。
毘沙門堂はその名の通り毘沙門天を本尊とする寺で、
毘沙門堂のホームページによるとそのご本尊様は最澄の自刻によるものだという。

ホームページの略年表によると、延暦14年(795)に最澄が桓武へ献上したという
いわれを持つご本尊様らしいが、いやあ、この伝承、ちょっとキビしいでしょ~!
あっ、別にバカにしてるんじゃないですよ。

で、【伝教大師が唐より将来された鎮将夜叉法という行法は、天台五箇大法のひとつとして
当門跡だけに伝わる秘法である】(毘沙門堂ホームページより)という。

毘沙門堂は寛永寺シリーズでも少し紹介してますが、
あらためてウィキペディアから歴史を見てみると、
まず最初は文武天皇の勅願によって大宝3年(703)に行基様が
出雲寺を開いたところから始まる。

平安末期頃には出雲寺は衰退していたらしいが、
鎌倉に入って平親範が平等寺・尊重寺・護法寺という平家ゆかりの寺を合併して
出雲寺の名を継ぐ形で再興。
その後、出雲寺はまた衰退するが、それを天海および公海が現在地に移転させた上で再興、
という流れだそうな。

なんで平家?ってカンジだけど、葛原親王は桓武平氏の祖とされている方でね。
そして平等寺は葛原親王の創建になるものだという。
ここで葛原親王と毘沙門堂がつながる。

「天台五箇大法」とは、普賢延命法・熾盛光法・七仏薬師法・鎮将夜叉法・安鎮家国法の
5つの修法を指す。
このうち、安鎮家国法を除いた4つが「四箇法」と呼ばれて
現在の延暦寺では「御修法」(みしほ)として4つの修法が毎年ひとつずつ順番に行われ、
天皇の御衣に加持祈祷するということもあってか、延暦寺の年中行事の中では
「最高の大法要」(延暦寺発行『比叡山』より)だそうな。

安鎮家国法だけは特別な時にしか行われないらしいが、その他の四箇法はそれぞれ
普賢延命菩薩・熾盛光(しじょうこう)曼荼羅・七仏薬師・鎮将夜叉を本尊として
行う修法だという。

アレ?
でも、叡山でも鎮将夜叉法をやるなら、毘沙門堂が【当門跡だけに伝わる秘法である】
とするのはおかしくない?
それに、鎮将夜叉像は毘沙門堂と日光輪王寺にしかないって何かで読んだんだけど?
叡山にも像があるのかな?
それとも、毘沙門堂のをレンタル・・・はしないか。
いやでも、毘沙門堂も天台宗だからわからんな。


わたくしが鎮将夜叉像に食いつくのはワケがあります。
最澄からもらった一尺の鎮将夜叉像を葛原親王はとても大事にして
もとどりの中におさめ、生涯片時も離さなかったという伝承があるのです。

一尺って、現在の尺度でいうと約3センチ・・・
輪王寺のもすごく小さかったんだけど、確か約5センチだったよな。
なら、毘沙門堂のを輪王寺に移したってわけじゃないのか。
いやでも、ひとケタ世紀の「一尺」だしな・・・
2センチのズレなら、最澄が葛原親王に与えたものが輪王寺に行ったって可能性も
あるんじゃないのか?

・・・てなことをつらつら考えたりもしたのですが、
毘沙門堂にも像があるのであれば、いちおう輪王寺のとは別モノってことになるよな。

ただね、天海は毘沙門堂と輪王寺のどちらにも関わっている。
で、輪王寺の鎮将夜叉像の詳しい由来はわからないものの、輪王寺のホームページでは
「天海ゆかりの像で天海が奉納した」とし、鎮将夜叉像公開のチラシでは
「家光が輪王寺に託した」として説明にズレがある。

ズレは置いておくとしても、叡山と同じもの、あるいは似たようなものが
寛永寺と輪王寺に色々とあるのは寛永寺シリーズでも書いてきた通りで、
鎮将夜叉像に関して言えば、天海が毘沙門堂再建に関わった際に鎮将夜叉像のことを知り、
そのコピーを輪王寺に安置したんじゃないだろうかという想像が頭をよぎった。
あるいは、天海の遺品の中に夜叉像を見つけた家光が日光へ送ったのかもしれない。

鎮将夜叉の修法までも輪王寺に持っていったかはわからないけど、
輪王寺のホームページでは夜叉像は【普段は輪王寺大護摩堂の秘仏として、
輪王寺宮様の他には何人たりとも拝むことが許されないままお祀りされてきました】とある。

輪王寺宮第3代・公弁法親王あたりからは、
毘沙門堂は次代の輪王寺宮が修行する格式の高い寺だった。( 「上野第二編(23)」 参照)

鎮将夜叉像が日光にあったのなら、当然宮は日光で鎮将夜叉様にお目にかかっていた
ということになる。
が、 「上野第二編(56)」 で櫛田良道氏の論文にあったように、
宮が兼帯する寛永寺と日光輪王寺はその機能が分かれており、
日光は宗教的国家鎮護の役割をになう重要な祈祷寺だった。

そういう輪王寺で、宮が1人で夜叉像をただ鑑賞していたハズもなく、
小さいながらも強力なパワーを発揮する鎮将夜叉像に国家の安泰を祈願していたと
考える方が自然だろう。
もしかしたら、毘沙門堂での輪王寺宮となるためのカリキュラムの中には
鎮将夜叉法をマスターすることも含まれていたかもしれないよな。

え~と、ここで久々に輪王寺の鎮将夜叉像公開のチラシを引っ張り出してきました(笑)。
星回りが変わる時期になると、毎年わたくしの元にはお護摩のご案内が届きます。
その中に夜叉像の公開と特別授与品のお知らせのチラシが入ってまして、
輪王寺に関わりのない一般の方でこれを目にした方はほとんどいないと思われますが、
ホームページよりは少し詳しい説明があるのでご紹介しましょう。

 【鎮将夜叉像は我が国の仏像の中でも特に災いを祓う力が強く、一度このお像を拝すれば
  天・地・人のあらゆる力が授かり、如何なる災厄をも寄せつけぬと言われております。
  それゆえにこのお像は悪用されぬよう、国を護る立場の天皇や将軍にのみ伝えられた
  秘仏の中の秘仏であります。(中略)五体の夜叉の上に鎮座する武将の姿をした
  身の丈わずか5cmの小さな御像ながら、その霊力の強さを物語る様に三重になった
  厨子の奥に大切に納められております。(後略)】

という、ものすごい力を秘めた像のようです。

寛永寺にせよ輪王寺にせよ、相変わらず風水説は好きじゃないわたくしですが、
夜叉像を日光へ持っていったのは、輪王寺が国家鎮護の祈祷寺だということも
もちろんあるでしょうが、上で紹介した佐伯氏の解説を読んで、
「北方の守護」という意味合いもあったかもしれないな、と思った。
「北方」はこの場合、「鬼門」と表現するほうが適切かもしれませんね。

なんにせよ、輪王寺の鎮将夜叉像は毘沙門堂の弟分のような存在の可能性はある。
であれば、最澄の鎮将夜叉像および修法は千年近い時を越えて
徳川幕府と国を守ったという考え方もアリだよな。


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最終更新日  2014年11月21日 23時54分17秒


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