戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年11月22日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)
●延暦25年(806)/大同元年

1月1日、天皇が病気のため、新年の朝賀はとりやめ。
1月3日、最澄が年分度者の新しい枠組みについて提案する上表書を提出する。
1月26日、人に福をもたらし善に導くには仏教が最も優れている。経典や論疏で
それぞれ説く内容は違っても悟りを目指す点では同じであり、どの宗派も廃れることが
あってはならない。そこで、 華厳宗に2人、天台宗に2人、律宗に2人、三論宗に3人、
法相宗に3人を年分度者とし
、あわせて講師の任用、得度者の学ぶべき内容なども
定める勅を出す。

1月28日、遣唐使船第4船の遣唐判官・高階遠成が唐で位階・官職を賜る。

2月23日、五百井女王が天皇の病気平癒を祈願して薬師仏像を造り『法華経』の
書写を行っていたが、この日それが完成し、僧21人を招いて前殿で法会を催す。
3月15日、天皇が重態となり、五百枝王を宮中へ召す。
3月17日、大伴家持などの藤原種継暗殺事件に連座して位階を剥奪された者たちに対し、
その生死を問わず復位させることにする。
また、早良親王のために2月と8月の7日には諸国の国分寺僧に『金剛般若経』を
読ませることを決める。
その後、 天皇が死去。
皇太子の宮の正殿に血が流れた。

3月18日、天皇の遺骸を棺に納め、葬儀や埋葬に関わる人事を取り決める。
山陵の工事には畿内などから5千人の人夫が動員された。
3月19日、山陵の場所を決定する。皇太子が喪服を身に着ける。
京都盆地の西と北の山で火災が発生する。
3月21日、月食。
3月22日、太陽が赤くなり日差しは薄く、夜には兵庫が鳴動して月食が起こった。
皇太子・安殿親王はひどい病となり、多くの奇異が起こっているのは自分のせいであるとし、
自分も努力はするが諸臣にも自分の足りないところを補ってよく支えてほしいと語る。
また、天皇の死後武装し特別警戒にあたっている者たちの武装を解かせるよう命じる。
3月23日、天皇の初七日の法要を京内と周辺の寺で行う。
この日、太陽は赤く日差しは薄く、京の西などでは火災が起こってその煙で京内が
薄暗くなるほどだった。
天皇の山陵地を筮竹で占った時は吉と出たのでそこに決定したが、亀卜で占ってみると
山陵予定地が賀茂神社に近いので神が祟りを起こしているとの結果が出た。
皇太子はこれを謹んで受け止め、みずから除災を祈願したところ、たちまち火災は消滅した。

4月7日、天皇を山城国の柏原山陵へ埋葬する。
4月8日、天皇の三七日(みなのか)の法要を柏原山陵で行う。
4月15日、天皇の四七日(しなのか)の法要を佐比・鳥戸・祟福寺で行う。
4月22日、天皇の五七日(いつなのか)の法要を大安寺・秋篠寺で行う。
故・井上内親王の請願により大和国の高天彦神社に四時の幣帛を捧げることとする。
4月29日、天皇の六七日(むなのか)の法要を祟福寺で行う。

5月1日、皇太子の弟・大伴親王が臣籍降下を願い出るが却下される。
5月6日、天皇の七七日の仏事を内裏の正殿で行う。
5月18日、安殿親王が即位(平城天皇)。「大同」に改元する。
5月19日、弟の神野親王を皇太子に立てる。

7月13日、公卿らから先帝の一周忌が過ぎると新宮へ遷ることが慣例となっているので、
そろそろ工事に取り掛かりたいという上奏があったが、新宮を造営することなく
このまま旧宮に住むことにするという勅を出す。
8月、長雨が続き洪水が発生。
10月11日、桓武天皇の陵を改葬。

12月13日、帰国した遣唐判官・高階遠成に従五位下を授ける。
12月15日、桓武天皇のために僧150人・尼50人を得度させる。


この年は大きな節目の年です。

まず最澄が正月早々に提案書を出してますが、
延暦22年(803) に三論・法相にそれぞれ5人の年分度者を割り当てて
2宗で計10人の枠となっていたものに対し、変更のプランを上奏しました。

何度も出てきた三論と法相への調停では、どの学派も滅ぶべきではないと
繰り返し言ってましたが、最澄も同じように1つや2つの学派で大衆を救えるはずもない、
ということを訴えております。

三論と法相の2宗に絞って言えば、三論が法相に押しまくられて

華厳・律・俱舎・成実はもはや所属する僧も少なく、中身がないような状態だったという。

そこで、三論・法相に加えて華厳と律にも枠を与え、ついでにウチにも!ってのが
最澄の提案。
あれ、俱舎(くしゃ)と成実(じょうじつ)は?ってカンジだけど、
俱舎は法相の、成実は三論の基礎的段階の研究をする学派なので、
三論と法相に付随する学派のようなもんだ、って捉えれば、
枠がもらえなくってもあまり問題はないのかもしれません。

 【最澄の諸宗への公平な年分度者の割りあては、積年の三論・法相二宗の対立を解消
  させ、また最澄の言う一、二の宗だけでは、すべてにわたってひろく仏の教えを
  汲みとることができないとする、まことに妥当な意見に同感するところがあった
  からであろう。仏教界の安定は、ひいては天皇自身の安泰にもつながることであった。】


というように桓武の共感を得て、翌4日には桓武から最澄の提案について僧綱へ下問。
5日には僧綱からも大いに賛同されて、最澄の提案がそのまま1月26日の
公式発表へつながる。

ここにおいて新興勢力の最澄が正式に南都の既存の宗派と肩を並べることになった。
これをもって日本天台宗の開創とされる。


新しく決められた数の年分度者が読むお経もそれぞれ決められており、
最澄はこれまで天台ひとすじで天台宗を広めることを目的としていたのに、
与えられた2人分の枠のうち1人には天台の教学を学ばせ、
もう1人には密教を学ばせるよう決められた。
これは最澄にとって誤算だったろうと語る人は多い。

いい感じで出国して天台を学びに命がけで唐へ渡ってようやく帰ってきたのに、
フタを開けてみれば驚くほど密教がウケた。

密教のおかげで次々と桓武の肝煎りの大きな法要をこなし、
当代の碩学たちにまで潅頂を授けるという栄誉にもあずかった。
そしてついには日本天台宗の公認という偉業を成し遂げた。
密教がなくても公認は得られたかもしれないけど、
そこに至るまでにはあるいは相当険しい道のりになっていたかもしれない。
密教サマサマ、 鄭審則 サマサマと言ってもいいだろう。

しかし、何といっても密教は越州での1ヶ月足らずの経験しかない。
その上、やっとゲットした年分度者の半分を密教に割かなければならなくなってしまった。
このことが、最澄にあらたな道を開く。
最澄この年40歳。


さて、最澄の歴バナでのもう1人の主役、桓武天皇がこの年亡くなりました。
享年69歳。

亡くなる直前の3月15日と17日の記事を見てください。
五百枝(いおえ)王は桓武の姉・ 能登内親王 の子で、藤原種継暗殺事件に連座して
伊予に流されていたのが、 延暦21年 に伊予国府周辺に住んでもよいとされ、
ついで 延暦24年3月 に帰京を許されたという経歴の持ち主。

ちなみに2月に法華経の書写をした五百井(いおい)女王も能登内親王の子で、
つまりは桓武にとって2人とも実の甥と姪な訳で、近しい親族だから後事を託した、
って見方もできるけど、佐伯有清氏はここもやっぱり

 【危篤の桓武天皇が病床に五百枝王を召したのは、深い謝罪の意を示したのであろう。
  それは、祟道天皇(早良親王)への謝罪をも意味していたはずである。】
  (前掲書より)

とする。
五百枝王が帰京した時には種継暗殺事件や氷上川継の乱で処罰された者が許されて、
川継本人もその直後に許されている。

そしてこの年3月17日には生死に関わらず種継事件で処罰された者たちを復位させて
すべての清算に努めている。
それからラスボス(笑)の早良親王のために年2回『金剛般若経』を読ませることを決めて
しばらくしてから内裏の正殿で息を引き取った。

死ぬ間際まで早良親王のことが頭から離れず、まさに取り憑かれたように
早良親王のためにあれこれと対策を講じてきたのだ。

公式には安殿親王の病気の原因がわかった延暦11年(792)からの14年が
桓武の怨霊人生となると思うけど、早良親王の死(延暦4年)の翌年からすでに
妙な空気が漂い始めていたので、延暦4年からカウントすると21年。

ただ、実際にはその前から井上内親王母子の怨霊に悩まされてもいたので、
井上内親王の死(宝亀6年:775)からカウントすると実に31年
さらに言うと、桓武は噛んでいないと思われるものの、皇太子時代に淳仁天皇の
怨霊に対してもパパが手を打っているので、人生の半分近くは
怨霊と付き合ってきたことになる。

見方によっては実にお気の毒な方だとも思うけど、
桓武が付き合ってきた怨霊たちは最澄にとってはこの上ない後押しをしてくれた。

一般的な説明では、平安遷都した際に最澄と桓武の付き合いが始まったと
いわれる時もあるけど、とりあえずそこそこ信頼できる史料からは
2人が直接の接点を持った期間というのは実に短い。

が、ここまでの最澄の経歴は桓武の人生とは切っても切れない関係にある。
それを、実際の流れを追って書いてみたいと思ったのです。

平安時代は一般的に平安遷都(794)から始まるとされてるけど、
桓武は奈良を濃厚に引きずっており、あまり平安時代という感じはしない。
が、行動の是非はともかく、桓武はこの後長く続く平安京を造り、
蝦夷との戦いもある程度の成果を挙げた。
わたくしは桓武の死によってようやく奈良時代が終わったという気がします。


さて、本編を書き出した当初は軽く歴史を見ていくだけのハズだったのが、
日本仏教史から仏教史全般に話が飛び、最澄の歴バナでは彼が生まれる以前から
書き始め、気が付けば足かけ45年分の歴史を追い、すでに77話・・・

気が遠くなるような作業でしたが、最澄の歴バナは一旦ここで終了です。
タームが長い話だったので相当読みにくい内容だったろうと思いますが、
しぶとく・・・いへ、頑張って読んでいただいた皆様、ありがとうございました

前にも書きましたが、次回からは少々短編を入れさせていただきます。
が、歴史というのは意外なところでつながってるし、
ここまでの記事はこの後もあちこちで顔を出すことになると思います。

話が長すぎて書いてる本人も相当消耗したので、
自分でさえ当分読み返したくないぐらいですが(笑)、
よそにもつながるエピソードが多いので、
ここまでの流れをしっかり押さえておいていただけると嬉しゅうございます。


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最終更新日  2014年11月22日 22時04分31秒


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