戦国ジジイ・りりのブログ

戦国ジジイ・りりのブログ

2014年11月30日
XML
カテゴリ: 江戸めぐり
やれやれ、これでやっと本日のメインに臨めるぞ。

して、急いで六本木通りを戻って着いたのが東京ミッドタウン。
そーなんです、毛利さんち(萩)から毛利さんち(長府)へ寄って、
また毛利さんち(萩)に戻ってきたんです
小さな吉川邸から始まり、完全にモーリな1日でした。

萩藩の毛利家下屋敷地は近代に入ってからは軍一色で、
まず明治期には帝国陸軍の駐屯地となり、戦後は米軍の駐屯地に。
サンフランシスコ平和条約後に返還されてからは陸自の駐屯地と
防衛庁の本部が置かれた。


へ~、だいぶ前に市ヶ谷の本部の見学ツアーで内部に入ったことあるけど、
元から市ヶ谷に本部があるもんかと思ってた・・・

その跡地にできたのが、大型複合施設の東京ミッドタウン。
だから、15年前に史跡めぐりで萩毛利家下屋敷を訪れても、
敷地内に入って往時をしのぶことはできなかった訳だな。
よかったよかった

ただ、こーゆー大型の施設ってのは慣れないとホントにわかりづらくて
わたくしはキライなんですが、今回はそんな事も言ってられません。
で、こちらがミッドタウン↓。


高野山出稼ぎ・東京ミッドタウン


ここはミッドタウンの名をかぶせたタワー・イースト・ウェストの3つの建物と

古絵図と『江戸麻布御屋敷土地割差図』を見比べてみると、
ミッドタウンのある場所がおおむね萩藩麻布下屋敷の居住スペースに該当する。

上の写真はミッドタウン・ウェスト前からイーストを撮ったものだけど、
ミッドタウン内で最も高いタワーが左端に少し写っている。
この大きな建物を純和風の御殿に置き換えていただければ、


下屋敷の敷地の半分が居住スペース、さらにその真ん中の広い部分を
御殿が占めていたようです。
居住区にこんな建物ができちゃったなら、遺構は完全に破壊されてるな。
軍時代にとうに破壊されてたかもしれないけど、発掘調査とかしたんだろうか・・・

それで、写真の真ん中を人が歩いてますが、道路とは別にミッドタウンの敷地にも
広い通路があり、だいたいその通路あたりに勤番侍たちの住む長屋があったようです。
わたくしの持っている差図はごく小さなものなので門の位置がはっきりしませんが、
位置的に写真を撮った付近に下屋敷の正門があったものと思われます。

差図を見るに、麻布下屋敷でも勤番たちの長屋がそのまま塀の役割を果たしていたようで、
私が立ってた場所では300年前には勤番が春画を眺めていたかもしれないし、
長屋の窓からは洗いたてのふんどしがヒラヒラはためいていたかもしれません


さて、モーリな妄想はこのぐらいにして、
今回わたくしが体調の悪さをおして観に来た企画展はこれです↓。


高野山出稼ぎ・パンフ6


高野山出稼ぎ・パンフ


これは3週間前に観に行った企画展の会場に置かれていたチラシ。
1本映画を観ると、予告編についつられて次から次へと
映画を観に行っちゃったりしますが、美術館・博物館系も同じ危険を持っており、
よその館のチラシの誘惑はまことに強烈なものがあります。

そうは言ってもわたくしも普段からモーレツに忙しいし、
体力モリモリという訳でもないので、よほどのことがなければ
結局諦めるハメになるのですが、これはちょっと見逃せない。

もちろん、ちょうど最澄の歴バナを書いてる真っ最中だったこともあります。
が、最澄関連で色んな本を見ている時に高野山の写真が多く載ってる本を見ましてね。
緑が多くて自然がいっぱいのいい所なのはわかりますが、正直言って

「ダメだ、私にはここ、行かれない・・・」

と思いました。
なんか、恐かったんです。

だいたい、修験道が盛んだった山というのは現代でもそれなりの雰囲気を遺しているもので、
むか~し登山をやってた頃、関東のとある霊山に登ったことがありますが、
その時とても恐い思いをしました。
もしかしたら何かが「いた」のかもしれないけど、
とにかくとてもイヤな感じがしました。
霊感がないと言っても、何かしら感じることもあるんですよ。

そういう経験を思い出させる写真だったので、高野山といえば
戦国武将の墓のデパートとしても有名で以前は行きたいと思っていましたが、
たぶんわたくしは現地に行くことはないと思います。
そういうこともあったので、わざわざあちらから出向いてくれるのなら
これはぜひとも観に行かなきゃならんな・・・と思って、頑張って来たんです。

ミッドタウンに着いたのは10時を少し回ったところ。
が、ミッドタウン内のお店は11時開店なので企画展のあるサントリー美術館へは
通常の入口からは入れず、11時以前に入場する場合は「ガレリア」の入口を使って
入ってくれと美術館のサイトにあった。
え~、入口、わかるかな~と思っていたけど、幸い表側から見える場所に
ガレリアの入口があってほっとした↓。


高野山出稼ぎ・ガレリア入口


ガレリアはショッピングロードの名称で、
建物としてはガーデンテラス内にあたると思うんだけど、
萩藩下屋敷の差図を見るとガーデンテラスのあたりは細い区画に木が描かれていて、
その隣には何か描かれてはいるんだけど、これが何なのかはわからない。
ただ、ガーデンテラスの外側あたりにはやっぱり長屋が描かれてます。

で、ここからは内部の写真はありません。
オサレなお店が立ち並ぶガレリア内にはまだ歩く人は少ない。
サントリー美術館へはずっと奥の方へ進んでいくんだけど、
奥へ進むにつれだんだん人が多くなってきた。
しかも、顔ぶれの年齢層は高い。
これは、皆様お仲間だな・・・

そう思いながらエレベーターに乗って美術館のある3Fで下りると、
すでに結構人がいた。
まずは荷物を預けて、急いで毛利家をハシゴしてきて汗をかいたので
トイレで身支度してから、いざ企画展へ。

これまでわたくしは、企画展で音声ガイドというものを使ったことがない。
が、3週間前の企画展で使ってみてなかなか良かったので、
今回も使ってみることにした。

サントリー美術館のサイトには割引クーポンがあるので、
入口ですまほのクーポンを提示してお姉さんに100円(笑)引いてもらう。
音声ガイドは会場の入り口にあるという。

サントリー美術館は面白い造りになっていて、まず専用エレベーターで上に上がって
そこから順々に観ていくようになっている。
会場入り口で音声ガイドを受け取って展示室に入ってみると、
思っていたよりも人がいた。

やっぱり高野山は人気だなあ~。
最澄の名は知らなくても、空海は知ってるという人は多かろう。
来年、平成27年で空海が高野山を開いてから1200年を迎えるので、
それに合わせた企画らしい。

先に全体の感想から書きますと、企画展全体での出品数は多くない。
しかも、会期途中で展示品の入れ替えがあるので、1回で観られる品は
さらに少なくなる。

それでも、像などの大きな展示が多く、観ていて

「よくこれを山外に出したよな~」

って思うものは多々あって、数こそ少ないものの、内容はかなりいいです。
ですので、会期が終わる前に紹介しておきたいと思ったんです。


さてと、展示品の話に入る前に、 「叡山攻め(77)」 の続きを少々・・・

大同元年(806)のタイムテーブルまで載せてるのに、
歴バナの最後はあっさり終わっちゃって何かヘンだな、と思った方が
おられるかもしれませんが、ここで簡単な続きを書くつもりだったので
歴バナをあそこで打ち切ったんです

本シリーズに入ってからしばらく江戸の話で雰囲気が変わってましたが、
ここからまた1200年戻りますよ~。
上記リンク先のタイムテーブルを見ながらお読みくだされ。
もちろん、ここでの主役は最澄たんではなく空海たんです。


延暦の遣唐使船4隻のうち、第1・第2船は約1ヶ月かかって唐に到着。
第3船の乗組員はおおむね助かったものの、船は流され行方不明。
で、第4船の遣唐判官・高階遠成が延暦25年(806)の1月に
唐で位階と官職を授けられているので、延暦24年の末頃には第4船は
唐に到着しただろうという。
その頃には大使たちはとっくのとうに帰国してるんだから、第4船も苦労したね。
しかし、この到着のズレがあらたな歴史を生み出すんだから、




・・・って、まだ終わりません。
だいたい、このセリフをわかる読者様が一体何人いるのだろうか
いやいや、冗談こいてる場合じゃありまへん。

でもね、最澄・空海ともその人生は実にドラマティック。
特に入唐の前後が2人ともひとつのハイライトと言えますね。

で、唐での空海については 「叡山攻め(74)」 でほんの数行紹介してますが、
恵果(けいか)に師事してからはその資質を見込まれて恵果に大層気に入られ、
がっちりと仕込まれてわずか2~3ヶ月で密教の僧の最高位である
伝法阿闍梨位(でんぽうあじゃりい)の潅頂を受け、遍照金剛(へんじょうこんごう)
という灌頂名ももらった。

日本各地に空海の像はあって、過去の記事でも数枚写真を紹介していますが、
台座に「南無遍照金剛」とだけ彫ってるものもあったな。
この遍照金剛の潅頂名だけも覚えておくと便利です。
ちなみに遍照金剛の意味は「この世の一切を遍く照らす最上の者」で、
すなわち大日如来を現す名だそうです。

最澄も天台山と台州で密教を学び、ことに台州での研修は帰国してから大いに役立ったけど、
順暁は当時の中国密教界では傍系だった。
しかし、空海の師事した恵果は主流で人気もあり、恵果には千人もの弟子がいたという。

空海の経歴を語る話の中では恵果は必ずと言っていいほど顔を出す。
長く恵果に付いて修行したのかと思いきや、空海と恵果の接した時期は約半年と
意外に短い。
でも、それは仕方がない。
恵果は日本の元号で言うと延暦25年12月15日に亡くなっているのだ。
だから、2人が出会ったのは恵果の最晩年ということになる。

もし空海が恵果の元に行くのがあと少し遅れていたら、
空海の人生は現在私達が知っているものとは大きく違っていたかもしれない。
空海の人生が変われば最澄の人生も変わり、はては叡山の歴史そのものも変わっていく。
恵果の存在というのは、それぐらい大きい。


にほんブログ村





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2014年11月30日 22時29分20秒


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

×

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

りりじい

りりじい

カレンダー

コメント新着

王島将春@ Re:浅草&寛永寺法要編(8) 東国の成熟(01/08) はじめまして。福井市在住の王島将春(お…
よー子@ 墓参り2014(2) 慈眼寺~芥川龍之介と小林平八郎の墓(08/02) 前略 初めてお便りします。 質問ですが、…
伊藤友己@ Re:上野第三編(12) 寛永寺105/清水観音堂~越智松平の灯篭(06/20) 越智松平家が気になって詳しく拝見しまし…

サイド自由欄

よみがえる江戸城 [ 平井聖 ] 価格:2916円(税込、送料無料)






PVアクセスランキング にほんブログ村

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: