戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年12月28日
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カテゴリ: 日光写真館
※「輪王寺16」の続きです。
「史跡探勝路7」までは 「日光写真館」の目次 からお入りください。


さて、輪王寺を出て史跡探勝路へ復帰。
ヤバいなあ、このくらいの時間には最終目的地あたりまで
行ってなきゃならなかったんだけど・・・
うちのあたりでは16時くらいから薄暗くなり始めるけど、
ここはいちおう山の中だしこの先は人も格段に少なくなるだろうから、
早めに切り上げる必要がある。



史跡探勝路へ復帰する道を東に進んでいくと、木の陰にお堂が見えた↓。
あれだな。


14輪王寺・小玉堂



14輪王寺・小玉堂2


↑この道は駐車場へ向かう車は結構通るものの、
歩く観光客はいない。
わたくしもここのすぐ裏手にある「明治の館」というレストランで
一度食事をしたことがあるきりで、こちら側をまともに歩くのは初めて。

車に注意しながらお堂の前まで来ると、フェンスがあって中には入れなかった。
え~、フェンス越しに見るだけえ~?
(場所は こちら


14輪王寺・小玉堂3


 【小玉堂(こだまどう:重要文化財)

  弘仁11年(820)弘法大師(空海)が、滝尾において修行をしたおり、池の中から
  大小二つの白玉が浮かび出た。空海は、小の玉を虚空蔵菩薩の本尊として、堂を建てて
  祀ったという。これが小玉堂である。また、大の玉は妙見大菩薩の本尊として、中禅寺に

  (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)

「お前が落としたのは金の斧か、銀の斧か?
それともこの鉄の斧か?」


というイソップ童話と、

「おじいさん、みやげには大きいつづらと
小さいつづらのどちらがいいですか?」


という「舌切りすずめ」をドッキングさせたような話だと
思いましたが、空海たんは結局両方つかみとったんだな

空海たんが取ったのは玉だから、最初は

「お前の玉は金の玉か、銀の玉か?」

とか

「お前の玉は大きい玉か、小さい玉か?」

という水神様のセリフを考えましたが、
それだとちょっとアブない話みたいになっちゃうしな・・・

じゃなくて、空海さんは水戸の黄門様ばりに全国を行脚したという
驚異的な数の伝承をお持ちの方。

ちょっとネットで空海たんの伝承を調べてみましたが、
やっぱり多いのが水に関連するもの。
空海たんが持っていたミラクルな杖を地面に突くとあ~ら不思議!
水がなくて困っていた土地に綺麗な清水が湧き出たというお話です。

わたくしの記憶にあるところでは、磐梯山の山頂直下にも
「弘法清水」があったな。

あと、旅の途中で空海たんがみすぼらしいナリで食べ物を恵んでくれとせがんで
断られると、家の柿が渋柿に変わったとか米が食べられなくなったとか、
結構復讐系のエピソードも多い。
まあそれだけ験力があると信じられていたんだろうな。

で、日光にも上の解説の通り、空海たんが修行したという伝承があります。
日光はわたくしにとって特別な場所だから、

「それはないね」

とバッサリ切ってしまいたくはないのですが、
これはさすがに伝承の域を出ないでしょう。
なぜこういう伝承が生まれたのか、逆に興味はあるけどね。


「日光」の地名の起源には諸説ある。
そのうちのひとつが 「輪王寺1」 で紹介したような、
男体山登頂を果たした勝道さんによるもの。

ほかに、空海たんによる命名だという説もある。
大まかなところは勝道さんとあまり変わらないのだけど、
日光を訪れた空海たんが「二荒」(にこう)の字がよくないと言って
字ヅラのいい「日光」の文字を当てたというもの。

個人的には空海さんは日光へは来ていないだろうと思うのだけど、
日光の清龍寺所蔵の「二荒山一切経」には「二荒山」と「日光山」という表記があり、
すでに平安後期にこの2つの呼び方があったことを示す最古の史料なんだそうな。


して、このお堂、


14輪王寺・小玉堂4



虚空蔵菩薩を祀る仏的施設であるにもかかわらず、
お堂の前に鳥居が建っている。
もちろんこれも、神仏習合の名残り。

今現在、この世に生存している人は当然神仏分離後に生まれた方々ばかりのはずだから、
皆さま物心ついた時には神と仏は別々だった。

けど、仏教史とか神仏分離について知識がある人以外、
日本人でお堂の前に鳥居があっても別に違和感を感じる人は
あまりいないんじゃないだろうか。

日本人は宗教に寛容だとも節操がないとも言われるけど、
こと神仏習合に関してはそれが長い日本の歴史であり文化であり、
もはやDNAに刻み込まれているぐらいのレベルだから、
わたくしに言わせればお堂と鳥居のコンビに違和感を感じないのは
ある意味当然のことでもある。

特に、日光は古くからの霊場であり、習合の歴史も長く深い。
「習合」なんて言葉が意味を持たないくらい深い。

一般に日光の開山は勝道さんだとされるけど、
それ以前に日光連山に分け入って修行していた先達がいたであろうことは
時代を考えれば想像に難くないし、順を追って考えれば
霊地たる日光のスタートは男体山・女峰山・太郎山の日光三山を崇める山岳信仰だった。

山での修行については学んだことを 「叡山攻め(48)」 で少し紹介してますが、
人を寄せ付けない霊峰に半僧半俗の修行者が少しずつ入り込み、
そこへ勝道さんが弟子たちを引き連れて入山して奥地を開拓し、
仏教カラーを強めていった。

日光三山はそれぞれ権現(山の神)とされ、ついで本地垂迹に基づいて

 ・男体山=千手観音
 ・女峰山=阿弥陀如来
 ・太郎山=馬頭観音

と進化を遂げていき、この「日光三社権現」が現在でもそのまま
輪王寺の本尊として祀られている。

勝道さんは鑑真来日後に設けられた三戒壇のひとつ、下野薬師寺において
受戒したというけど、彼がどの宗派に属していたのかはわからない。
が、円仁が来晃して山内の整備をしたあたりから日光山は天台宗になったとされる。


そうは言っても山岳修行者がいなくなった訳ではなく、
時代が下るにつれ山岳信仰と仏教のコラボによって
日本独自の修験道も発展を遂げていく。

『宝ものがたり』にこんな記述がある。

 【(源)頼朝公の従兄弟・観纏僧都は日光山の座主に就任(第19世住職・1183)
  します。しかし、その拝賀をうけるおりに御簾をあげずに応対して住僧らの反感を
  かい、数日で日光山を去らされたと伝えます。幕府の権威のみでは従わない気骨の
  表れといえましょう。】
  (漢数字は戦国ジジイが変換、カッコもわたくしが追加)

僧というより、わたくしには修験者の野太さを汲んでいるようにも思える。

鎌倉期の座主・弁覚は奈良・大峯山の行場に不動尊像を奉納しており、
室町期の永正6年(1509)には日光の行者・即伝が九州・彦山の
修験道教義の整備にあたっていたという。

世界遺産「日光の社寺」は東照宮を中心とする近世の豪華な建築物がメインで
観光客のほとんどは「日光といえば東照宮」という意識だろうけど、その実、
輪王寺三仏堂では神仏習合を思いっきり引きずっている日光三社権現を拝み、
誤解を恐れず言えば東照大権現も摩多羅神・日吉山王権現とのセットの
「東照三社権現」の一尊にすぎない。

後北条氏が滅んだ後、そのあおりをくらって日光山も存亡の危機に瀕したものの、
徳川の世になって天海が山内を復興させ、粘りに粘って東照大権現を日光に遷座させ、
家光の大造替によって日光は華麗なる変身を遂げた。

江戸期には東照大権現信仰の中心的存在とはなったが、
四本龍寺も本宮・新宮の二荒山神社も山内から消滅しなかった。

江戸期の日光一山は「二十院八十坊」といわれる。
「院」は子院など僧侶の施設で「衆徒」ともいわれ、
「坊」は修験者の施設で衆徒の下に組織されたそうな。

山伏が僧侶の下に置かれたのは日光に限らない話で、
多少低い位置に置かれはしたものの、江戸期でも山内には
多くの僧侶と修験者が勤務していた。
彼らを統轄するのが、言わずと知れた輪王寺宮。

つまりは江戸期には東照宮に象徴される徳川将軍家の霊廟、
輪王寺宮に象徴される天台宗の仏教の2つが並立しており、
そのどちらにも古くからの日光における山岳信仰がしみこんでいる。
ので、三重の信仰が宮の下に「日光一山」としてまとめられていたといえる。

こういうものを、「神仏分離」という机上の理論で切り分けるのは非常に難しい。
現に神仏分離による大ピンチで立ちあがった有志は、
あなたたちの言うことをそのまま実行すれば東照宮は消滅しますよ、
という主旨の熱弁をふるって保存に奔走したという話もある。

明治5年には修験禁止令が出される。
江戸期にも修験者の整理はあったようだけど、そんなの禁止の比じゃない。
山伏たちは強制的に還俗させられたり大変な時期だった。


現在の日光では日光修験が復活し、輪王寺での各種イベントにも参加しているらしい。
たとえば、山伏による餅つき。
これは全国的にも珍しいんだそうな。

それから、逍遥園に隣接する紫雲閣では毎年12月12日に
山仕事をする人たちの「山神供」というお祭りがあり、
山伏が修法を行って邪気を祓うという。

また、年越しの夜にはかつて輪王寺の御本坊があった三仏堂前の空間に
特設の護摩壇が設けられ、山伏によるあおぞら護摩・・・いへ、
「野天採燈大護摩供」という勇壮なイベントが行われるそうな。

『宝ものがたり』にはその写真も載っていて、餅つきと山神供には
山伏と共に輪王寺の僧も写っている。
野天採燈大護摩供の方には見当たらないようだけど、
年越しには本堂に一山僧侶が出仕して法会を行うとあるから、
まあここに僧侶がいないのは仕方ないのか。

厳密に言えばいちおう今は天台宗・輪王寺と日光修験とは分けられているとは思うけど、
仏教史を知れば知るほどそれぞれの信仰が歴史の中では不可分だったことが
よく理解できるので、山伏と僧侶が一緒にイベントやってる写真を見ると
歴史の一端を垣間見るようでほっと安堵のため息すら出てくる。



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最終更新日  2014年12月28日 23時35分33秒


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