戦国ジジイ・りりのブログ

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2015年01月27日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)
若き日の最澄が崇高な思いを抱いて草庵を結んだ場所をしばし眺めてから

道路をはさんだ本願堂跡の向かいには僧坊がある。


叡山1・総持坊



叡山1・東塔4-6

 【総持坊(そうじぼう)

  この坊は、東塔北谷に属し、天台密教を伝える穴太流の一潅室である。当坊には玄関の
  真上に一つ目一本足の奇妙な僧の額が揚げられていて、比叡山七不思議伝説の一つが
  伝えられている。


  戒律を守りながら比叡山の厳しい修行に励み、滅後は「山僧よ、僧侶の本分を忘れる
  なかれ」と僧の姿に身を変え真夜中に一眼一足に鐘をぶらさげるという奇妙な姿をして
  暗闇の山中を廻り、なまけ者や悪僧を見つけると胸につるした鐘を鳴らして警告した。
  こうして悪僧やなまけ者を次々と下山させたと伝えられている。】
  (現地解説板より)

慈忍和尚(じにん・かしょう)は第19世の天台座主。
良源さんの次に座主となられた方です。
この方も別のところで書きますのでここではカットしますが、
名前だけ覚えておいてください。

「和尚」と書けば大抵の現代人は「おしょう」と読むと思うけど、
慈忍さんに限らず結構「かしょう」って読ませる人は多いので、

宗派の違いによる読み方の違いらしい。

ウィキペディアには、【天台宗では遷化(亡くなること)された時は和尚(おしょう)から
和尚(かしょう)へと呼び方が変わる。】とある。

叡山の七不思議については関連するスポットでおいおい紹介していきますが、
解説で「奇妙な」と連呼している一眼一足の慈忍さんの絵がこちら↓。


叡山1・総持坊2


こんな風に、玄関の戸の真上におられます↓。


叡山1・総持坊3


蟇股がなかなか素敵だわ・・・
じゃなくて、入口になんか赤い棒が立て掛けられてるなと思ったら


叡山1・総持坊5


慈忍さんの持ってる棒なんだ~、コレ!!
思わず小さく感嘆の声を挙げました(笑)。

解説文には台密を伝える穴太流の・・・とありますが、
「総持」という言葉は密教を指すんだそうな。

派手さはないけど、なにげに格の高いいい造りをした僧坊だと思いました。


叡山1・総持坊4



叡山1・総持坊6


総持坊の先から振り返ったところ↓。


叡山1・総持坊8


この道の奥の左の谷に本願堂跡があります。
このすぐ先の東塔の中心部あたりでは幾度も火事があったりしたようですが、
道沿いには古木も残っています。

で、こちらが進行方向↓。


叡山1・総持坊から中堂方面

山内図を見るとここからそのまま根本中堂の方へ抜けられそうなのに、
なんか木の柵でふさがれてるし、おまけに


叡山1・中堂ウラ


えええ~、ナニソレ!
そんなの困るんだけど。
この時は木の柵でふさがれてる部分が「防災道路」なのかと思っていたので、
そのまま道なりに車道を進む。


叡山1・総持坊から中堂方面2



ここを通り抜けられればメイン部分へ行かれるのに、
今はただ道路から中堂を見ることしかできない。
見えているのに入れないとは、ツラいものよ・・・
とりあえず妻だけでも撮っておくか。


叡山1・中堂ウラ2



叡山1・中堂ウラ3



叡山1・中堂ウラ4


拝みの部分に描かれてるのは宝珠。
金がだいぶハゲかけてるけど、さすがの造り。
妻に組まれている部材にも、これまで見たことないような
意匠があしらわれている。

道路の脇には享保4年(1719)の灯篭がぽつんと建っていた↓。


叡山1・中堂ウラ5


叡山に奉納されたにしては、ずいぶんとシンプルな造りだな。
まあ江戸中期といえば天台の中心は江戸へ移ってたしな。
それに、わたくしの灯篭観察の出発点は諸大名の奉納による
絢爛豪華な灯篭群だったから、やはり徳川将軍家の霊廟を抱える寺への奉納品は
当然のことながら別格だったんだとあらためて思う。


さて、道なりに小さな坂を登ると、まだ新しい綺麗なお堂がある↓。


叡山1・八部院2



叡山1・東塔4-7


お堂は新しい感じだけど、その前に立つ灯篭には
「元文二年八月」とある。
1737年、これも江戸中期の奉納のようです。


叡山1・八部院


ここには何も解説はないけど、灯篭の前面には「八部院」とある。
ちょっとネットで検索してみたところ、株式会社奥村組様のサイトに
平成3年再建とあり、【焼失によって原形はほぼ無くなり、資料をもとに復元に勤めました。】
とのコメントが付いている。
その後平成16年に台風による被害があったようで、
同じく奥村組で補修工事をしたんだそうな。

扉はぴっちり閉められていて中は覗けないけど、
その名の通り護法善神の八部衆と妙見様が祀られており、
法華経の修行者の守護をしてくださるんだそうな。

八部衆はあの興福寺八部衆と基本的には同じだけど、
興福寺の八部衆は名称がちょっと特異らしい。
けどここにもアシュラがいるってことだな。


『山門堂舎記』によると、八部院は「法華三昧堂」(法花堂)の
西の尾根上にあったという。

法華三昧堂は最澄が空海から高雄山寺で潅頂を受けた弘仁3年(812)に
最澄が創建したとされるお堂で、康保3年(966)に焼失ののち再建され、
元久2年(1205)に再び焼失。
以後は再建されず、現在の東塔に法花堂はない。

『山門堂舎記』にも詳しい法花堂の場所は書いてないので
イマイチよくわからないんだけど、最澄当時は堂宇の数も範囲も限られていたので、
現在の根本中堂付近じゃないかと思う。

であれば、現在八部院のある場所は根本中堂より高い西にあるので、
大体同じくらいの場所にあったものと思われる。

ついでだから書いておきますと、法花堂は延暦寺の不思議伝説とも関係がある。

弘仁元年(810)春、最澄が根本中堂にて三部長講を始めた夜のこと。
谷の方から法華経の安楽行品を読経する声が聞こえてきた。
夜の間中声の主を探しても、誰もいない。
灯りを持ってよく見てみたところ、読経の主は朽ちたドクロだった。
最澄はドクロを埋めてやって、その場所に法花堂を建てた、とな。

『延暦寺 その歴史と文化をたずねて』だと、声は草庵の近くの塚から聞こえており、
最澄が法花堂を建てるために地ならししていたところ、
血のしたたるドクロが見つかった、てなちょっとおどろおどろしい話になってるけど、
「草庵」が本願堂のことを指すとしても、やはり中堂付近といえる。


で、『山門堂舎記』によると八部院には1尺5寸の妙見様の像が一体と、
同じく1尺5寸の梵天・帝釈天・四天王の像が各1体ずつ安置されているとある。
八部衆については書かれてないけど、八部院なんだからなかったハズないよな。

最澄の頃は本堂は板葺だったのが、承和年中(834-848)、
藤原太政大臣によって檜皮葺に新築。
この時、梵天・帝釈天と四天王は中堂へ移され、
最澄本願の八部衆像が八部院へ安置される。

建暦3年(1213)3月23日、あらたに建立が開始される。
上人の勧進により、相模の三浦和田左衛門尉平義盛が造立したものである・・・

えっ、相模の三浦?
これって、和田義盛のこと!?

血の粛清が続いた鎌倉幕府内にあって、三浦一族の分家・和田氏も
和田合戦において滅ぼされた。
すでに建暦3年2月にはキナ臭い雰囲気になってたので、
叡山へ堂宇を寄進してる場合じゃないだろうと思うものの、
竣工が3月23日なんだから、堂宇寄進の交渉はそれ以前に済んでたってことだよな。

この由来が本当であれば、八部院は和田氏が最後に寄進した堂宇って
いえるんじゃ・・・
ちょっとオドロキの記事でした。


八部院は叡山九院のひとつ。
あまり八部院の詳しい情報はないんだけど、
ここで最澄の高弟・光定(こうじょう)が没したという。
光定さんはまた別のところで書こうと思います。


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最終更新日  2015年02月04日 22時37分07秒


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