戦国ジジイ・りりのブログ

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2015年02月02日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)
早尾神社の石垣に沿って右に目をやると、お寺があった↓。


叡山2・早尾地蔵尊4


Mapfanの地図では、ここは「求法寺」としか書いてなかった。
これがどういうお寺か現地ではわかっていなかったので
寄らずに登山道へ向かったんだけど、後から別の地図を見て
「走井元三大師堂」とあったので、




と悲鳴を上げました。
くそっ、そうと知っていたら何が何でも寄ったのに・・・
はい、ここは「走井堂」(はしりいどう)ともいい、良源さんを祀るお寺だったようです。


里坊があった場所で、良源さんが入山する時、ここに立ち寄って休憩し
修行の決意を固めた場所なんだそうな。

走井堂の本尊は鎌倉期の良源さんの木造坐像(重文)。
写真を見ると手には数珠と五鈷杵(ごこしょ)らしきものを持ってるけど、
ちょっと変わってる。
というのも、五鈷杵などの密教法具を持つ高僧の木像ってのは
たいがい鈷を持つ手がものすごく不自然な角度になってるのに対し、
走井堂の良源さんはフツーに持っている。

そして顔も変わっている。
お不動様などの憤怒相の仏像によくある天地眼(片目ぱっちりで片目はしかめる)。
こういうかなり異色の像だけど、走井堂も元亀の織田氏の攻撃の際焼失して


元亀を生き延びた、鎌倉期の木像ね・・・
走井堂は焼かれても、像高78.2cmという等身大の良源さんを背負って
逃げるぐらいの余裕はあったってことじゃないのか?

この坐像、現地でいつでも見られるんだったら
リベンジも考えねばならんな・・・



良源さんも叡山の僧侶、つか天台座主だからね。

「慈恵大師」は日光でも聞いたことのある名前だったけど、
まともに良源さんのことを知ったのは寛永寺シリーズ。
あの時はお手軽なウィキペディアで簡単な経歴を学んだ程度だったけど、
今回はもう少しリアル良源について詳しく書こうと思っていますが、
まだそれは先の話。

が、書きたいことは沢山あるので、ひとまずここでは本人の死後、
神仏なみに崇められた良源さんについて少々。

良源さん・・・いえ、神仏のように信仰の対象となった彼については、
ここでは「元三大師」と表現しておきましょう。

元三大師への信仰はかなり古い時代からあったようで、
時には最澄をもしのぐほどの人気があったらしい。
『比叡山 その歴史と文化を訪ねて』によると、

 【ことに元三大師に対する全山の信仰は中世においてはとくに盛んであったらしく、
  三塔十六谷にはみな主要な大師肖像を伝えている。例えば東塔北谷の降魔大師、
  東谷の木葉大師、西塔本覚院の鏡大師、大林印の鈴振大師、横川の廻り大師と
  いったものはとくに有名で、これらの肖像はみな各谷々でそれぞれに特殊の
  信仰のものに生きて来たものであって、それぞれに由来や伝説がいろいろと
  附会されている。】

ということで、良源さんの本拠地であった横川のみならず、
東塔・西塔をも含めた三塔のすべてのエリアに元三大師の画像や彫刻が
あったという。

その沢山の元三大師像には、人間の姿をした良源さんもいれば、
鬼や魔物、観音様などの場合もあり、実に多岐にわたる姿の肖像があったものと思われる。

解説にある「東塔北谷の降魔大師」は 総持坊 が所有するもので、
鎌倉末期の画像のほか、一巻の縁起書まであるそうで、

 【これは北谷の各坊が昔から交代制で護持して来たものだそうである。】
  (前掲書より)

「横川の廻り大師」の方は

 【各坊の廻り持ちで護持して礼拝を行っていくのを廻り(めぐり)信仰というので
  あるが、横川の各坊で廻り持ちしたこの画像をとくにこういう名で呼んでいる。】
  (前掲書より)

だそうな。

つまりは少なくとも東塔北谷と横川では定期的に元三大師画像が
回覧板よろしく各坊を廻っていたってことだな。
と、ここで寛永寺のことを思い出した。
そう、金札を僧坊の前に立てて元三大師画像の所在を示した、
あの廻り持ちのことです。
( 「上野第二編(8)」 「上野第二編(12)」 参照)

寛永寺の周辺に叡山周辺と似たもの、同じものなどがあるのは知っていたし、
寛永寺発行の『寛永寺』では【こうした例は挙げていけば際限がない】とも
言っている。

たとえば 「にない堂」 のように同じ名称を持つお堂とかなら、
誰にだってわかる。

しかし、ぱっと見ではわからない慣習やしきたりとなると、
これは歴史を知らないとどうにもならない。

前回の日光詣でで輪王寺三仏堂の近くにある 黒門の前に金札があるのを見つけた時 、
おそらく日光でも寛永寺と同じように元三大師画像が各坊を廻って、
金札も寛永寺と同じ使われ方をしたんだろうとは思った。
が、その慣習はてっきり寛永寺から来ているものだと思っていた。

ところが、『比叡山 その歴史と文化を訪ねて』に廻り持ちのことが書かれた箇所を見て、
そもそものルーツは叡山だったんだと初めてわかった。

いやはや・・・
三山をめぐって自分の目で「同じもの探し」をするのも
ひとつの楽しみ方かもしれませんよ。



さて、早尾神社の左手にあるのが登山道の入口↓。(場所は こちら )


叡山2・本坂


これがかつての主要な参道で、「本坂」(ほんざか)という。
これをずっと登っていけば昨日見た 聖尊院堂 経由で
東塔の中心部へ出られる・・・はず。

昔はこの道を自分の足で登るしかなかったので交通量も多かっただろうけど、
今は車やケーブルで簡単に山上まで上がれるので、
昔に比べれば歩く人は少ない。

写真に写ってるおじさんは結構長居して邪魔だったんだけど(笑)、
彼も結局本坂は上がってこなかったんだよな。
まあ、見るからに山歩きするような格好じゃないしな。

常夜灯の前には、丁目石がある↓。


叡山2・本坂2


未公開の廿日市編で宮島の山を登った時はびっちり丁目石も完備してたから、
それを頼りにしながら歩いたもんだけど、本坂ではこれ以外見た覚えがないぞ。
ので、これはアテにはできません。
自分で事前にちゃんと準備してってくださ~い。

この時ちょうど9時。
ホントはもっと早くスタートしたかったけど、
この時間だからこそ雨も上がって歩く決断ができた訳だから、しょうがないよな。

本坂の入口にある常夜灯は、台座も含めるとすごくデカい。
裏には火を入れる時のためか階段まで付けられていた↓。


叡山2・本坂3


本坂の初めは、比叡山高校の脇に付けられた石段をしばらく登る。
ゆっくり周りを見ながら登ったけど、ぐんぐん高度が上がっていくのがわかる。

で、ここが石段の終点↓。


叡山2・本坂4


5本のポールはただの車止めかと思ったら、
なにやら文字が書いてある。


叡山2・本坂6


右から順番につなげていくと、

 「樹の雫しきりに落つる暁闇の 比叡をこめて啼くほととぎす」

これは天台宗僧侶にして野鳥研究家・歌人・詩人の中西悟堂(1895-1984)
によるものだそうな。
悟堂は「日本野鳥の会」の創立者でもあり、ウィキペディアによると

 【Wild Birdに対応する語として、中西悟堂が「野鳥」の言葉を造語した。】

だという。


ポールの前には左手に進む道路もあるし、正面側は


叡山2・本坂7


・・・なんか、いろいろ道があるなあ。
最初が肝心なので、入る道を間違えないようにしないと。

左へ延びる道はどう見ても違うよな。
比叡山高校の上にケーブル坂本駅があるので、
たぶん左の道はケーブルの方へ出られる道じゃないかな。

で正面側に進んでみるけど、ここでも道が二手に分かれていて
右は柵がしてあるぞ。
進む途中には

 【藤ノ木 比叡山西ノ谷ハナツミ 危険地区
  この地区は山地災害が発生する恐れがありますので、大雨のときは充分注意
  して下さい。】

との看板がある。
看板の図によるとこの周辺が藤ノ木で、
その先のエリア一帯、法然堂の手前あたりまでをハナツミというらしい。
う~ん、まあ大雨が降った訳でもないし、登山道を歩いてる分には
注意して歩けばそんなに危険はないハズだよな。


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最終更新日  2015年04月07日 21時34分34秒


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