戦国ジジイ・りりのブログ

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2015年02月21日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)
無惨に分解したままの寛永寺奉納の灯篭を過ぎると、
もう石段も残り少ない。


叡山2・東塔・浄土院へ8



叡山2・東塔・浄土院へ9



叡山2・東塔・浄土院へ10



叡山2・東塔・浄土院へ11


一番下に建つ灯篭は、【星野山喜多院亮●】。
天海の喜多院からの奉納です。

いちばん下から石段を振り返ったところ↓。


叡山2・東塔・浄土院へ13


いちばん下の石垣はこんなんなってて↓


叡山2・東塔・浄土院へ14


かつてはここに建物があったっぽいな。

石垣の前あたりには道標がある↓。
ここはあとで行こう。


叡山2・東塔・浄土院へ15


え~と、降りきったところでの正面からの写真がありませんが、
まず門の外にあった解説版から。

 【浄土院(伝教大師の御廟)

  ここは比叡山の開祖、伝教大師最澄上人のご廟所で、比叡山中で最も清浄な聖域です。
  大師は一生を大乗戒坦院の独立に捧げられ、弘仁13年6月4日(822)中道院に

  この地に中国五合山竹林院を模してご廟所を建立し、大師の御遺骸を祀り、以来
  ご廟を護る僧侶を侍眞といい、一生山を降りない覚悟で昼夜を分かたず、厳しい
  戒律のもとに身心を清浄にして、生身の大師に仕えるように、今も霊前のお給仕に
  明け暮れしています。

  またご廟前玉垣の辺りには、沙羅双樹と菩提樹が植えられ、極楽浄土の雰囲気が

  12年間山を降りない籠山修行の内規に則って、生活しています。】
  (現地解説板より原文のまま。漢数字は戦国ジジイが変換)


門前で解説を見ている時、誰か石段を降りてきた。
振り返るとあまり若くなさそうな妙齢の女性だったけど、
結構薄着だし、バサバサした長いスカートをはいていて
ちょっと真冬の叡山に来るカッコじゃない。

でもまあ観光客かと思っていたら、お姉さんは浄土院の方を見に来るでもなく、
その脇の道を歩いていった。
なんだろう、あの人・・・
まあいいや、わたくしの静かな萌え~タイムを邪魔されずに済んだ

で、浄土院へ入る前にまず最澄たんの晩年を簡単に。
シリーズをまたいで 空海たんと別の道を歩むところまで書きました ので、
その続きになります。


空海たんが全国各地に腐るほどの「空海来たる」の伝説をお持ちなのに比べて、
最澄たんが畿内を出て地方巡業をしたことは一般にはあまり知られていないかも
しれないけど、九州と関東へ伝道の旅に出ている。

九州の旅には 賀春の神 へのお礼参りも含まれている。

弘仁8年(817)には関東へ向けて旅立った。
この時は東海道じゃなく、東山道の山越えルートを取ったといわれ、
最大の難所であった神坂峠を挟んだ2つの場所に
旅人のための無料宿泊所を建てたという。

東国では下野あたりを拠点とし、下野・上野(こうずけ)の寺に
写経した法華経を納める。
下野をベースとしたのは、最澄の強力なサポーターであった 道忠 や
その弟子がいたからだと思われる。

下野の寺では5万人、上野の寺では9万人もの人を教化したとされるが、
やっぱりこれも道忠一派の支援があってこそだろう。
ただ、東国には法相宗の 徳一 もいた。

徳一さんは 藤原仲麻呂 の子だというマユツバな伝承もあるけど、
東国への最初の仏教伝道者だとも言われている。
この頃から、徳一さんとの大バトルが始まった。

2人の論争は「三一権実(さんいつごんじつ)論争」と呼ばれるが、
直接対峙してツバを飛ばしながらケンケンガクガクの言い合いをした訳ではなく、
著作の応酬で闘うという形だった。

2人の論点のポイントを、井沢元彦氏が『逆説の日本史6』で
簡単な例をひいて解説してくれているので、アレンジして紹介しましょう。


わたくしは歩くのも遅いですが、走るのも遅いです。
子供の頃からかけっこで一等賞を取ったことはないし、
長距離も大ッ嫌いです。
そんなわたくしが、世間に名だたるコーチを2人雇いました。

最澄コーチは、

「りりちゃん、走るの苦手なんだって?
でもダイジョーブ、人間はね、努力すれば
なんだってできるものなんだよ。
だから、ボクと一生懸命練習して、オリンピックで
金メダル取って皆をあっと言わせちゃおうよ!
ね?がんばろがんばろ~」


それを聞いていた徳一コーチは、

「ハア?何言ってんの最澄たん。
人間には持って生まれた才能というものがある。

いいか、りり。
お前には才能がない。
ダメ人間だって言ってる訳じゃないんだぞ。
走る才能がお前にないと言ってるだけだ。
努力すれば金メダルを取れるなんて最澄たんの言葉を
真に受けて、走って金メダルを取ろうなんて思うだけムダだ」



これは仏教論争なので、「走る」を「悟る」に置き換えて読んでください。
誰でも悟ることができるか、できないか。
インド人の驚異的な発明「方便」をどう解釈するか、
そういう論争がメインだったようです。

最終的にはこの論争に決着が着く前に2人ともこの世を去ったので、
それぞれの派が「勝った」と宣言して打ち切りになったそうなんだけどね。


そのバトルと並行して、最澄たんは大きな夢に向かって邁進していた。
その活動の中で書いた著作で、山内の修行ルールなどを取り決めている。
この中に、12年の籠山修行も含まれる。


弘仁3年(812)、46歳の時には一度遺言を書いてるけど、
なかなか自分の夢は叶わないし、南都仏教界はいちいちうるさいし、
泰範は帰ってこないし・・・などのストレスも多かったので、
これ以降はあまり元気モリモリではなかったかもしれない。

弘仁13年(822)3月になると床に就くようになる。
この時はかなり良くなかったようで、弟子たちはなんとか夢を叶えてやりたいと
奔走するものの、なかなか事は進まず、4月には弟子たちを集めて
自分の死後について訓示する。

修行僧の事細かな生活指導から、自分のために造仏や写経をするより自分の志を述べてくれ、
怨みに怨みで応酬するな、毎日大乗経を読んで精進せよ、童子を打つな、
といった内容が並ぶ。

5月には義真に後事を託す。

『最澄心形久しく労して、一生此に窮まる』・・・

「パトラッシュ、僕、
もう疲れたよ・・・」


て某名作アニメの泣かせるシーンをつい重ねてしまうのですが、
華々しかった以前にくらべ、さびしげな心情がにじみ出ているように思える。

6月4日午前8~9時頃、最澄は息を引き取った。
享年56歳。
ついに自分の夢が叶うところを見ることなく、
お釈迦様にならって右脇を下にして死んだ。


上の解説には「中道院」で死去とあり、『伝教大師伝』にも
【於比叡山中道院。】とあるものの、この「中道院」がどこにあったのかわからない。
手元にある山内の主要堂宇を解説した史料を見ても、
「中道院」については書かれていない。

ものによっては「仁寿4年7月(854)に円仁が現在地に遺骸を移した」と
書かれていて、それなら最初は別の場所に葬られていたのかという気もするけど、
『九院仏閣抄』などで浄土院の項を見ると、

 【右院伝教大師所定置矣。遷化後大師遺骸所埋也。天安二年七月十六日。
  慈覚大師移五台山竹林寺風。始修廟供云々。示云。當時廟供ト云ハ。
  冬ナライ行候也。】
 (原文では「埋」の文字は「うずめる」の難しい漢字)

とあるので、初めから浄土院の地に埋葬されていたのを、
円仁が帰国後に五台山(上の解説では「五合山」になっている)の竹林院にならって
唐風の「廟供」をしたという風にも読める。

まあ、「中道院」は別の場所だったかもしれないけど、
埋葬はこの場所だったんじゃないかと個人的には思うんだよね。
そう思う理由は、浄土院とは別のスポットにある。



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最終更新日  2015年02月22日 00時48分10秒


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