戦国ジジイ・りりのブログ

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2015年04月16日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)
俗っぽいと揶揄されようと、良源さんは根っからの俗人じゃない。

俗世間におもねって天台座主になれるほど人生は甘くない。
そういう僧侶本来の側面が3つめの業績。

叡山では最澄の一周忌からその命日(6月4日)を含む期間に
六月会(六月法華会)が行われていた。

座主就任直後に朝廷に提出した10ヵ条の改革案のうちのひとつが
この六月会に広学竪義(こうがくりゅうぎ)者1名を設置するというもので、
大火が起こった同年の末にそれが認められた。

七大寺バージョン法華十講 は11月に行われたためか、
のち「霜月会」として引き継がれていたものが、6月にも行われるようになったそうな。

 【この由緒ある講会を単なる法華経の奥義を開陳喧伝するだけに終らせることなく、
  論議の優劣を判定して習学僧の顕彰の場としようというのが、広学竪義者一名の
  設置であった。天台教理の奥義を究めるため、広く内外の典籍にわたって勉学する
  ことが広学であり、その蘊蓄を傾けて設問に対して義を立てる役が竪義である。
  こうした名誉職を設置したことのねらいは、叡山全体の習学意欲の向上を図ったもの
  (後略)】
  (『人物叢書 良源』より)

だそうで、勅許が下りた翌年から横川の良源さんの住房では春と秋の2回
広学竪義の練習が行われることとなったが、横川での広学竪義に出場するための資格には


そしてその費用には良源さんが管理している禅師の君の領地の収入が当てられたが、
財源の畑を荒らす者があれば自分の遺骸を掘り起こして
畑を荒らした不届き者の家の門にくくれと良源さんが言ったというエピソードがあるから、
いかに良源さんが叡山の勉学向上に思いを込めていたかがわかる。

六月会での定員枠1名の広学竪義者となるために横川ではこうした

横川での広学竪義の主催者からして論議の名手と呼ばれ
己の才能と努力と計画性で成りあがってきた人だから、
そういう人(しかも座主)のもとで厳しい条件の資格を得てリハーサルに臨む
横川の僧達の質が上がらないハズがなく、年々盛大になっていく横川の広学竪義で
研鑽を積んだ僧たちによって横川は飛躍的に発展していった。

広学竪義は現在の叡山でも続けられ、天台大師・智ギの法恩会や
5年に1度の一大イベント・法華大会などの重要な法会でも行われている。
その基礎を築いたのはもちろん宗祖である最澄だけど、
広学竪義という形に整え後世に引き継がれるようにしたのが良源さんだと言えるのだろう。

『比叡山 その歴史と文化を訪ねて』によると、平安期までは広学竪義者は
山洛だけに限られていたのが、鎌倉以降になると諸国でも可能となったそうな。

 【そして東国の談義所には竪義逐業を念願する学徒が集まって研鑽した。】
  (『比叡山 その歴史と文化を訪ねて』より)

というから、これが関東天台への発展へとつながり、江戸期へと続いていくんだな。


そういう横川へは向学心のある僧たちが集まり、
天禄3年(973)には横川の住僧が200人に達したので独立したいと
良源さんが代表となって延暦寺執行部へ上申書が提出され、裁可された。

 【住僧わずか2-3人の荒廃した横川を、二百人という一大集団に仕立てあげたのは
  良源であり、良源は、東・西両塔の意思に左右されない独立区画横川を持ったことに
  なる。横川はこうして良源の指導を受け、研学面での開花の場所となり、多くの俊鋭が
  育っていったのである。】
  (『人物叢書 良源』より)

横川の独立により現在の三塔スタイルが整った。
これが4つめ。


ここからは色んな背景によって事績が相互に絡み合って、
中には批判の対象となったものも含まれてきますが、
5つめとしては権門と結んだこと。

これは藤原師輔一門とタッグを組んだことが大きなファクターで、
師輔が死んだ後も師輔との約束を果たすため良源さんなりの創意工夫が続けられた。
それは禅師の君を立派な僧侶に育てることであり、
自分の跡を継がせることだった。

天台座主は一山の管理のほか、朝廷と国家の安泰を祈ることが本来業務であり、
これはいわばルーティンワークなので良源さんの事跡として
ここではあえて取り上げませんが、良源さんが華々しい法会に参加するかたわらには
いつも禅師の君の姿があり、重要な役目も任されていった。

ここまでの記事で数回良源さんの遺言について触れてますが、
これは死の床にあって書いたものではなく、
天禄3年(972)1月に横川が独立し、4月に主要堂宇の復興記念イベントを行った後の
5月、病にかかって2週間ほど寝込んだ時に、いつか来る死のことを考えて
自筆で書き遺したものだった。

良源さんはタフでありながらまめやかな人で、遺言の中では色々と
細かい指示を与えているものの、もっとも重要な事柄は禅師の君の立場を
明確にしたことだろうと思う( 「叡山攻め(135)」 も参照)。

そのための準備も着々と整えていった。
遺言を書いた2年前には

 【また梵照はこの年、尋禅が良源から灌頂を受け、阿闍梨職の実質的な資格を獲得したが、
  良源は一身(いっしん)阿闍梨という特別な資格を考え出したことにふれている。
  定員以外に、良家出身という特別な身分の者に限り、その人一代だけ特別な阿闍梨と
  するということである。尋禅の受法に立会い、あわせて良源の六十の賀を祝うために
  登山した尋禅の兄弟たちは当然この考えに賛意を示したことであろう。】
  (前掲書より)

梵照さんは個人的な良源さんの伝記を書いた方ね。
そして上申書を提出し、天禄4年(973)禅師の君を一身阿闍梨とする許可が下りた。
この一身阿闍梨については一般にもよく取り上げられるところで、
なんで話題になるかとゆーと

 【特例として楞厳院の定員外阿闍梨職に補されたもので、尋禅が死去すればこの員数は
  なくなるものであった。関白藤原兼通等の後援があったことは疑いあるまい。この
  処置はまったく特例であったが、以後名流の子弟で僧界に入るものが多く、しだいに
  一身阿闍梨の制は通例となった。設置のいきさつはともかく、権門の子弟を僧界で
  優遇する悪例を作った張本人としての非難は正しいといえよう。】
  (前掲書より)

ということで、権門と結び世俗の身分を叡山にも取り込んだ俗っぽい人、
という批判の対象となっているからです。

「関白藤原兼通」は師輔の次男で、すぐ下の弟があの 法興院摂政兼家 。
師輔の長男・伊尹、次男・兼通、三男・兼家は中宮安子と同母兄弟であり、
ために師輔の子供たちの中では権力に近い立場であったが、
兼通は弟を激しく嫌っており、そのため兼家が権力を握るまでには少し時間がかかった。

禅師の君が一身阿闍梨となる前年の天禄3年、
師輔の跡を継いでいた長男の伊尹(これただ)が48歳で死去。
伊尹が危篤となった段階から兼通と兼家の間で後釜争いが起こったが、
中宮安子が存命中に「もし将来摂関となることがあれば、兄弟の順番を守りなさい」
と書いたものを兼通が持っていたので、安子の息子である円融天皇にそれを見せて
伊尹の死後に兼通が関白になったといういきさつがある。

兼通は関白になる少し前の天禄元年に、俗界にあって叡山を監督する
「延暦寺検校」になっている。
師輔一門との強い結び付きは相変わらずだった。

「遁世僧」については仏バナの 「叡山攻め(25)」 で軽く触れてますが、
僧界に身分社会を持ちこんだことで第2の世俗がお山に誕生し、
『沙石集』を書いた無住のような遁世僧が出現するもとともなった。


わたくしが良源さんを好きなのは特に理由はなく、
別にサクセスストーリーに血湧き肉躍った訳でもないし、
聖人君子だと盲目的に信じている訳でもありません。
盲目的に好きではあるけど

ゆえに良源さんを批判する文を読んでもへっちゃらだし、
時にはその批判を受け入れることもあります。
ま、権門と結んだことについてはそれがなければのし上がることは確実に不可能だったし、
1000年以上に及ぶ元三大師信仰を生み出したほどの事跡を積んだのだから
結果オーライじゃ~んて思ったりもする訳ですが、ひとつ興味深い話があります。

大飛躍の元となった応和の宗論が行われた同じ日、
パンピーの浄財を集めつつ13年かけて完成した写経の供養会が
京の賀茂川の岸辺で行われたそうです。

主催者は「市の聖」空也。
空也は天暦2年(948)に叡山で受戒 して正式な僧となってますが、
その後も民間での布教を続け、この大々的な供養会へこぎつけたようです。

異色の才能を持つ2人の高僧が、奇しくも同じ日に
それぞれにとって大事なイベントを行っている。
しかも良源さんは天皇の御前、空也の方はパンピーがギャラリーの大半を
占めていただろうという、実に対照的な内容。
たまたま同じ日になっただけとはいっても、歴史の妙だなと思いました。



さてここからは第6の事跡「僧兵の誕生」、第7の事跡「綱紀の粛正」へ移りますが、
これも権門との結びつきとの関連がある。
(僧兵については 「(101)」 ~ 「(102)」 を参照ください)

もともと寺が武力を持ち始めたのは国家の庇護を受けられなくなったことによる
経済的自立のためであり、当時の経済は土地への依存度が高かった。
国家から支給を受けていた頃の叡山の収入は近江・美濃の税が主だったが、
それを山内で自由に割り振ってよかった訳ではなく、ちゃんと割り振りも決められていた。

そうした正式な収入のほかに、貴人から土地の寄進を受けるようになり
こういう収入が次第に増えていった。
土地の問題ってのは現代でもトラブルになりがちだけど、
施入された土地が増えるにつれ土地をめぐる問題も持ち上がり、
その最悪の解決法が武力によるものであったから、
寺院が武力を持ったのは時代の必然だともいえる。
これは良源さんが生まれる前から起こっていた流れだった。

延喜14年(914)、醍醐天皇の時代に三好善行という人は「意見十二箇条」の中で、
1年のうちで得度する者は2~300人、そのうち半分以上が「邪濫の輩」であり、
俗世にあっては納税を免れるため百姓たちが私度僧となる数が年々増え、
近頃では天下の人民の3分の2はこのテの私度僧だ、としている。

3分の2が私度僧って、そんなワケねーだろ!とツッコミ入れたくなりますが、
そういう半僧半俗の者たちの一部が武力を持ち、大規模寺院の経営を支えてきたという
現実がある。


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最終更新日  2015年04月16日 23時52分49秒


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