戦国ジジイ・りりのブログ

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2015年04月18日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)
前回の続き。

何をもって「堕落」とするかは人によって見解の相違があると思いますが、
半僧半俗の者が多く山内に入り込むことによる秩序の混乱は確かにあっただろう。

 【(前略)正規僧の一部の質的低下と、私度僧の横行が社会問題化し、その改善が
  望まれる事態となっていたのが、(三好:ジジイ註)清行の指摘に現れている。
  浮浪人が容易に僧侶の形をとり、本職の僧侶たちと連絡をとり、在地の様々な
  トラブルを処理することになれば、自然本山との往来が頻繁となる。僧籍を
  持たない彼らは顔を隠して人相の弁別を避け、これに悪僧も加わることとなり、

  裹頭妨法の者たちが、夕闇にまぎれて出没したのはこうした状況であり、その
  取締りに腐心したのである。】
  (『人物叢書 良源』より)

しかし、私度僧が増えればそれがただちに「堕落」や僧兵に代表されるような
暴力へつながるのか?と衣川仁氏は疑問を呈する。
最澄の歴バナでも私度僧の取り締まりを目的とした勅などがあったけど、
私度僧の増加がそのまま武力へとつながるのであれば、
僧兵は奈良後期~平安初期頃にはとっくに登場していただろうというのだ。

 【しかし、現実はそうではなかった。寺院の暴力が恒常的な社会問題として注目される
  のは、早くても十世紀後半のことである。(中略)堕落が暴力につながるのだと
  することで、現実にある暴力の要因をその行使主体の堕落のせいにしてしまい、

  そうではなく、こうした人間を何の規制もせずに受けいれた寺院の側にこそ、
  積極的な動機があったとみるべきであろう。それは十世紀の社会変動であり、それを
  うけた寺院の中世化の過程においてこそ、武力の導入は選択された。】
  (『僧兵=祈りと暴力の力』衣川仁/講談社より)

ふむ、なるほど。

ただ、自衛の必要に迫られたからであれ、より積極的な意図があったんであれ、
寺院によって導入された武力はしだいに力を増し、コントロールしにくい
状況になっていったんじゃないかと思う。

それには、門流の問題も絡んでくる。
門流はいってみれば山内におけるプチ自治体みたいなもので、
叡山では円仁派と円珍派が最も有名。

前回の最後で貴人から土地の施入があったことを紹介してますが、
門流では法脈の他に宗教的財産や個別に施入された土地などの私財も
師から弟子へと受け継がれていった。

良源さんの時代は円仁派と円珍派の抗争がエスカレートしていった時期にもあたり、
叡山という大きな自治体の自衛のためのはずだった武力は
各門流に属する裹頭の私度僧によってライバルの門流へも向けられるようになる。

加えて、本職の僧侶たちもかなり世俗化していたらしく、
良源さんはあれやこれや含めた綱紀の粛正に乗り出すことになる。
して、天台座主となってから4年めの天禄元年(970)、
「二十六ヶ条制式」を全山に発布する。
これはタイトル通り26コもの項目があってちと長いので、
ここまでの話にからむ内容だけを簡単に抜き出すと、
まず「堕落」をうかがわせるものとしては

 ○舎利会・六月会・霜月会などの重要法会での役僧が贈答品のやり取りをしたり、
  接待することの禁止。
 ○籠山僧が結界の外に出ることの禁止。
 ○伝法・講経のイベントへは必ず参加すること。また読経を怠る者は請用を停止する。
 ○年分度者は資質のある者を選ぶこと。
 ○若年僧の規定外の色の衣服の着用の禁止。
 ○山僧へ弁当を贈ることの禁止。

イベントにことよせての付け届けや接待が行われていたってのが
俗っぽくて笑えるけど、特別な何かがなくても上層部ではそういうやり取りも
そこそこ頻繁に行われていたようで、そういうものも禁じている。
してさらに

 ○役僧は互いに礼儀を守るべし

なんてのもある。
これってどういうことだろ・・・
少なくとも良源さんは礼儀が守られていないと感じていた訳だよな。

暴力にからむ項目は、

 ○靴のまま法会の堂に上がることの禁止。
 ○裹頭の禁止。
 ○兵杖を持って僧坊へ出入りし、山上をうろつく者は捕らえて公家へ突き出す。
 ○山院内で勝手に刑罰を行うことの禁止。
 ○結界内に放し飼いになっている牛馬は捕らえて馬寮へ届けること。

となっており、こういうことが現実にあったのだと教えてくれる。

綱紀の粛正は戒を堅持せよということにもつながる。
良源さんは制式の中で戒も重視しており、
受戒後にはもろもろの作法を練習しろとか、戒に関する行法を怠る者は処分するとかの
項目もある。

 【これらのうちの多くは、最澄・仁忠・円仁等が折にふれて弟子たちに要求してきた
  ことであった。良源自身制定したのはこのうちの十二ヵ条である。この制定を
  下した意図は、良源が最澄・円仁の正統的継承者であり、天台座主として比叡山を
  統括し支配するものであることを、比叡山大衆に宣言することであった。】
  (『人物叢書 良源』より)

制式の発布に良源さん個人の必要性による政治的意図が含まれていたかは別として、
武力を保持した各門流がいつまでも勝手なことをしていたのでは困る。

余談ですが、先日の選挙演説で共産党の応援にかけつけたおばさんが

「私たちはあ~、権力に屈せず
主義主張を貫いてきましたあ~」


と自慢げに演説してるのを聞いて、

「それって結局、国家の決定に従わないってことじゃん。
多数決の意見に従うってルールに反してないか?」


とツッコミ入れて笑ってました。
昨日の時事ニュースでは南の島の知事が首相と会談して、

「知事のあらゆる権限を行使して
基地移設を阻止する」


とふんぞり返っているのを見て、知事の権限が首相の権限を上回るワケなかろ・・・
とこれまたツッコミ入れてたんですが、叡山の門流もきっとあんな感じだったんだろうと
思いました

初期の頃を除き、これまでの座主は在任期間が短かったこともあって
門流の上に立つことはできなかった。
先輩たちができなかった、あるいはやろうと考えもしなかったことを
身ひとつで傍系から出発した成り上がりの良源さんがやろうとした。

ノンキャリアからのスタートを考えるとこれはすごいことだと思うけど、
そうしなければならないと思わせるほど山内の秩序は乱れていたのかもしれない。

そして、武力に対しては武力をもって制するという方針を打ち出した。
「僧兵の創始者」という言葉には批判的な意が多分に込められていると思うけど、
綱紀の粛正や座主直属の武力による統制を敷かなかったら
その後の叡山はどうなっていただろうとも思う。

霊的な考え方に強く支配される時代のことだから
さすがに闕所にはならなかったかもしれないけど、
暴走に歯止めがかからない状況が長く続けばあるいは早くに衰退したかもしれないし、
のちの鎌倉新仏教の成立にも少なからぬ影響を与えていたかもしれない。

わたくしが盲目的に良源さんを好きだからといって
彼の行動のすべてを是としている訳でもないんですが、
良源さんの時代はもろもろの事の転換期に当たっており、
時代の変化に則していかなければならない時期でもあった。

まったく環境の違う後世の人間がそれぞれの価値感で是非を論じても意味がない。
時代が良源さんという強烈な個性を持つ人間を生みだしたんじゃないかと思えるほど、
現実的かつ周到な考えによって良源さんは叡山の次代の繁栄の基盤を整えていった。



さて最後、第8としては円仁派と円珍派の抗争がある。
(分裂までの両派の争いの概略は「 (99) 」~「 (101) 」、
「 (103) 」~「 (104) 」までを参照)

両派の争いや分裂に関して良源さんが直接的に手を下した訳ではないので、
良源さんの事績に含めるべきかは人によって判断の分かれるところでしょうが、
分裂の直前が良源さんの治山の時期でもあり、良源さん自身がバリバリの存在感を
持つ人であったので、この問題と切り離すことはできないとわたくしは考えます。

5世・円珍さん以降良源さんまでの歴代座主は円珍派と円仁派が占めており、
『天台座主記』によると以下のようになります。
(名前は割愛、「仁」は円仁派、「珍」は円珍派。年月は座主在位期間)

 6(珍) :892年5月~893年2月
 7(珍) :893年3月~894年8月
 8(珍) :894年9月~899年2月

 9(仁) :899年10月~906年7月

 10(珍):906年10月~921年8月 ←良源生まれる
 11(珍):922年8月~923年3月 ←叡山西塔へ入門
 12(珍):923年7月~926年2月
 13(珍):926年5月~940年2月 ←受戒

 14(仁):940年3月~946年5月
 15(仁):946年12月~964年1月 ←横川へ移る。東宮護持僧。応和の宗論。
 16(仁):964年3月~964年10月
 17(仁):965年2月~966年7月 ←僧綱入り

「叡山攻め(77)」 で書いたように、延暦25年(806)に取り決められた
新たな年分度者の枠組みの中で天台宗へ与えられた2人の年分度者のうち、
1人には天台を、もう1人には密教を学ばせることが定められた。

その後、円仁(慈覚大師)と円珍(智証大師)が本場から密教を持ち帰ってきて
台密を完成させた訳だけど、1人をのぞいて6世から13世までの座主を円珍派が独占したのは

 【慈覚門徒とは異なり、密教の優位性を積極的に認めた智證門徒が、貴族社会の多大なる
  帰依を獲得していたからである。したがって、密教盛行の時流にのっとって勢力を拡大した
  智證門徒への敵愾心が、良源時代における慈覚門徒の飛躍を準備することになったと
  いえるのかもしれない。】
  (『僧兵=祈りと暴力の力』より)

そういう円珍派全盛の時期に良源さんは入山し、青年期を過ごした。
円仁派座主の時代になっても、門流も一枚岩ではなく、良源さんは傍系でしかなかった。
それが次第にのし上がっていき、山内よりも山外での名声が高まって
主流も注目せざるを得なくなり、もとノンキャリア組の良源さんとしても
円仁の後継者であることをアピールする必要性があった。
そして19年の長きにわたって強力な指導力を発揮したことで、
それまでよりも円仁派の結束も強まっていったかもしれない。


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最終更新日  2015年04月18日 22時11分21秒


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