戦国ジジイ・りりのブログ

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2015年04月19日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)
良源さんは応和の宗論でも、座主となってからの論議にも余慶などの
円珍派僧侶を採用しており、彼自身は初めっから円珍派排除の考えを持っていたとも思えない。
ただ、座主となってからも一向に協力しようとしない同派の僧もいたし、
円珍派にはもっと手を焼いただろう。
加えて、禅師の君の存在がある。

慈忍和尚廟のところで禅師の君が第19世天台座主となったことを先に書いてますが、
最後まで藤原師輔との約束を律義に守ろうとした良源さんは、
毛利元就が愛する息子たちに他家を継がせる際に万全の準備をしたように、
禅師の君のためにしっかりした基盤を築いておく必要性があるとも考えたんじゃなかろうか。


叡山をきっちり管理していく必要がある。
そこで、 天元2年(979)の地主三聖祭 の時のような強硬な手段も用いられた。
その一方で、 余慶さんの法性寺座主問題 の時には
取り立てて仲裁をしたなどの記録はない。

 【山外のいわゆる巷間の寺院のおおくは、智証門徒に掌握されていた。長等山の三井寺を
  はじめ、岩倉の普門寺、さきに挙げた観音院や解脱寺、一乗寺など。山上の房舎より
  華麗な堂宇。そのうえ寺領までついている。座主良源がいくら山上で御制戒をきびしく
  守らせようとしても、山内の規律は保てない。叡山を追われても麓に降りれば、食に
  ありつけたのである。時と必要に応じて、また山に帰ってきた。】


うん、分裂までの流れで円珍派がお山を下りてはまた戻ってくるを繰り返していたのは
こういう背景があったからなんだな。

色々ある中で、延暦寺トップの良源さんは

「ダメだ、コイツら」

と思ったかもしれない。

円珍派が完全に山を追い出されたのは良源さんの死後のことで、

全体の流れからすると「分裂もやむなし」と思っていたんじゃないかと
個人的には思う。

少なくとも禅師の君へはしっかりした形でバトンタッチをしたいと思っていただろうし、
もし強い意思と行動力を持つ良源さんが本気で円珍派と仲良くしたいと思ったなら
なんらかの記録は残っているだろうと思うのだ。
ただ、両派の争いは深刻だったし、円仁派の良源さんが
長くリーダーシップを取っていたので、何か手を打ったところで
結果は同じだったかもしれないけど。

良源さん自身の思惑については色々な解釈があるものの、
長い治山の中で円仁派の勢力が強くなり、
強気になった円仁派大衆がより過激な行動に出ることになったという
本人が意識しない面での影響は確かにあっただろうとは思う。


以上がごく大ざっぱな良源さんの事跡ですが、
こうしてまとめてみるとその後の叡山に長く受け継がれることになった内容が実に多い。

その中には世俗の身分社会を叡山に持ち込んだという
マイナスの評価を受けるものもあるけど、実のところ貴人による寄進や
武力による自衛などは良源さん以前からあった訳だから、
彼1人を「叡山を堕落させた張本人」と攻めるのも酷な気がする。

9世紀後半頃になると、古代寺院の中で衰退するものがあったという。
日本天台宗の公認から良源さんの死までの期間でまだ200年にも満たない叡山は
当時の仏教界からすれば新参者もいいとこだったけど、古い新しいに関わらず、
時代の波に乗れなかった寺院が次第に姿を消していく時期でもあったのだろう。

そう考えれば、転換期に良源さんという座主を戴いたことは
(多少の問題は含んでいたとしても)結果的にはラッキーだったともいえる。
だって、良源さんが変えたことや新しく始めたことがその後も長く・・・
モノによっては現在まで引き継がれていくんだからね。

こうした事績をもって良源さんは「中興の祖」とされ、
「三聖二師」 のラストに食い込むこととなった。


さて、良源さんの残りの話については横川の紹介とからめながら書くことにしますが、
良源さんの話をまとめている最中、ここまでの話にはちいとも顔を出さない
ある男の存在が脳裏にチラつくようになりました。
その男の名は、天海。

もともと今回の旅は天海と輪王寺宮の追っかけ的な発想で企画したものだったけど、
実際に叡山に来ると高僧やらお祖師やらが多すぎて、
初日の初めに東塔南谷の天海の僧坊跡碑を見たあとは
ぶっちゃけ天海のことを思い出すヒマもないほどでした。
天海はあくまできっかけに過ぎなかったしね。
それが、ふと良源さんの歴バナを書くわたくしの前に現れるようになった。
(別に天海のユーレイを見た訳ではありません)

天海が良源さんを崇拝していたことは寛永寺シリーズでも書いてますが、
たとえば『女人成仏への開眼』の最後で著者の後藤宏行氏は
天海の夢に現れた良源さんの導きによっておみくじが広がった 話を持ち出し、

 【天海は百三十四歳まで生きながらえた怪僧。死後慈眼大師の諡名と号を贈られる。
  日本仏教史上、空海と双璧をなす怪僧である。それほどの天海がなぜ、良源の
  カリスマ性を利用しなければならなかったのか。
  戦国の動乱を収拾する力、武門の棟梁としての家康の才能と識見に天海は賭けた。
  しかし、近世武士に要求された資質は、冷徹な合理的判断と、人に抜きんでた決断力。
  かなり近代的な理性人のタイプにちかい個人像であった。

  大衆的な信仰を凝縮させるカリスマ性は、民族的な常識と呪術性、それにとらえどころの
  ない神秘性が必要であろう。神秘性はながい庶民のあいだで語りつがれてきた伝承のなかで
  醗酵する。良源生前の行跡は、まさにそうした庶民のあいだで語りこまれていく性質の
  親近性と神秘性をもったものとして綴られていたのである。】

とする。

天海も色々な面を持っているので何を考えていたのかわかりにくいし、
とらえどころのないジジイというのは確かですが、特に怪僧というほどのことはない。
それより、たとえ「怪僧」という特殊な土俵であろうと
天海と空海たんを並べるのはちょっと乱暴なんじゃ・・・

いやいや、ツッコミ入れるためにわざわざ引用した訳じゃありまへん。

今回のシリーズにあたって良源さん関係でわたくしが読んで基本資料としたのは
『人物叢書 良源』と『女人成仏への開眼』の2冊だけなので、
その他の研究者様がどういう解釈をしておられるのかは存じませんが、
わたくしが感じたのは

「コイツら、よく似てるな~。
てか、似てることしてるな~。
天海は良源さんの行動をパクったんじゃないか!?」


ってことだった。

たとえば、叡山の諸堂宇の復興。
権力者と近く、その資財を引き出してあれこれ行ったこと。
論議で名を挙げ、論議の新しいスタイルを作りだしたこと。
身ひとつでのし上がったこと。
現実的な考え方の持ち主であったこと。

あるいは、これらの共通点は「たまたま」かもしれない。
ロクな名声も立場もない 「凡僧」「田舎之老」 の天海がイエアスの信頼を勝ち取るまでに
天海の積極的な意思があったのかもわからないし。


『類聚伝記大日本史』(雄山閣)という本の第7巻は仏教関係の内容で、
各宗派の法統の系図が載っている。

天台宗は天台の教学と密教の2コースに分かれているので
系図もそれぞれのものがあったのですが、天台教義(止観業)の系図を見ていて
なるほど、こーゆー流れだったのか~!と納得したので、
必要部分だけを抜粋した系図を作ってみました↓。


天海法統

緑の字は過去の記事に登場した方たちです。

この系図で一目瞭然。
天海は慈覚門徒の端につらなる者であり、良源さんの法統を受け継ぐ者だったんです。

ああ、まあ系図を見なくっても円珍派でないことはわかってますけどね。
でも円仁さんにも大勢の弟子がいたし、門流は円仁派と円珍派だけじゃない。

こういう法統を目にすると、門流の祖と言って差し支えないような立場であり
時代の転換期にあって大改革をなしとげた良源さんを尊敬し、
良源さんを見習って事を進めたいと考えたとしてもそれはある意味当然のことでもあるし、
天海が日光にこだわったのは良源さんよりさらにさかのぼった祖の
円仁さんの旧跡だったからかもしれない、なんて想像も浮かんできます。

寛永寺シリーズでさんざんお世話になった浦井正明氏は、
内藤正敏氏との対談の中でこんなことを言っておられる。

 浦井:(前略)分布は詳しくは調べてないのですが、ざっと見ますと、江戸でやってる
    論議は全部関東の坊さんで済んでるのです。ところが京都や駿府でやるときには
    関東の坊さんが行って関西の坊さんと合流してやってる。

 宮田:関東から行ってやるのですか?

 浦井:ええ。天海のころ、家康在世中の比叡山というのは、織田信長の焼き討ちで相当の
    ダメージを受けていて、「関東天台」という言葉がありますが、学者の主だった人が
    かなり関東に流れてきていた。そうじゃないと、関東で独自にそれだけの学者を
    生みだすというのは、かなり難しい。
    ですから、天海という人が関東を中心に天台の勢力を拡大していく背景には、やはり
    叡山から流れていった天台の優秀な坊さんの存在があった。その人たちを糾合して
    いったのじゃないかなと思います。
    そう考えないと、ちょっとあれだけの論議を自前で張っていくというのは、とても江戸
    だけではできない。当時の天台僧の分布を見ますと、非常におもしろい。 

    (『魔都江戸の都市計画』内藤正敏/洋泉社より) 

叡山にいつ頃から僧侶が戻り始めたのかは知らないけど、
秀吉は園城寺から金堂を移してるんだから、その頃には復興は始まっていたのだろう。
ただ、浦井氏の言われるように叡山から避難してきた僧たちが
そのまま関東へ居付いたのなら、本格的な復興は天海の手入れを待たなければならない。

関東の質が上がったのはいいけど、本山の僧たちのプライドは高かったハズで、
年の功で経験豊富な天海もまとめ上げるのにはそれなりに苦慮したかもしれない。

関東は最澄や円仁の縁などもあり古くから天台が強かった地域であるにせよ、
弱体化した叡山に替わって「東の叡山」を作り上げようとしていた天海には、
文字通りのカリスマ性と現実的手腕が求められただろう。

そこで、カリスマ性を補う存在として利用しつつ、現実的な面でも叡山を立て直した
偉大なる諸先輩をかなり意識したんじゃないか、そんな風にも感じました。


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最終更新日  2015年04月19日 22時11分31秒


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