戦国ジジイ・りりのブログ

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2015年05月13日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)
こちらが恵心(えしん)院↓。


叡山3・横川18・恵心院


ガイドブックなどでは「恵心堂」とも書かれますが、
ここが恵心僧都・源信の住房だったところ。

前回紹介した解説板に藤原兼家が建立したとありましたが、
それは 兄の兼通は亡くなったもののいとこの頼忠が政権のトップに就いていた
天元2年(979)のこと。

この時点で兼家は右大臣になっていたが、『人物叢書 良源』によると、
横川の整備が父・師輔の遺志を継ぐものだとして良源さんが兼家に恵心院の建立を勧め、


  恵心の名跡をあげた。兼家は感動し、父の遺志を継ぎ「生々世々、永ク大師ノ遺弟ノ
  道ヲ伝エル」ことを確約、百石の米を建立の費用として喜捨、日ならずして恵心院が
  完成したのであった。】

という流れだと語るが、同時に

 【兼通との接触には後手を踏んだ良源も、兼通との接触は早かった。この時点で政権は
  頼忠であるが、これは兼通の執念による横車で、早晩兼家の政権の誕生間違いないと
  読んでいたのであろう。】

とも語る。

後手を踏んだといっても兼通も晩年には良源さんと親しくなり、
子を叡山に入れてもいる。
そしてさらに兼家との接触。


「計算高い」と言われる良源さんのさすがのお手並み、と言いたくもなりますが、
現実的には兼家はこの時点で「未来の外戚」ではあっても、
実際に外祖父になれるかどうかは危ぶまれる状態だった。
それを現実のものとしたのが 兼家の実力行使 だった訳だけど、


まあ、そもそも師輔にとって横川は菩提寺的存在でもあったから、
九条家の実力者と結んでいくのは当然の話だし、
師輔の息子たちが頑張って政界の中心の座をキープしたから
結果的に良源さんの行動が計算高く見えるだけという言い方もできるんじゃないかなって
気もする。 

ただ、「未来の外戚」であり九条家の中心になろうとする兼家にとって、
「師輔の遺志を継ぐ」という誘い文句はかなり魅力的な言葉だったろう。
それから、兼家にとって腹違いの弟にあたる禅師の君の後押しもあったかもしれない。


ということで、開創からすでに1000年以上の時を越えている恵心院ですが、
現物はずいぶん新しめの建物で綺麗だった。
これは創建当時のものじゃないな・・・と思っていたら、
延暦寺会館で買った『比叡山』という小冊子に
ふもとの坂本にあった「別当大師堂」を移築したものだと書いてあった。
別当大師・光定 さんを祀っていたこのお堂の元あった場所へはこの後で行きます。

ただね、『比叡山』に載っている恵心院の写真と現物とでは
屋根の葺き方も違うし、写真の方がだいぶくたびれ感がある。
この建物の感じだと、移築したあとに近年になって大幅に改修されたらしいな。
ついでに言うと、正確には恵心院はこの場所ではなくもう少しずれた場所にあったらしい。



さてと、ここまでの記事でずいぶん色んなことを書いてきましたが、
ここからは本シリーズで紹介する叡山僧のうちの最後の大物、
恵心僧都源信について少し書いていきます。
良源さんについてもまだ少し書き残しはあるけど、
主要な部分はもう終わったようなもんだから、
叡山の記事である程度まとまった歴バナはこれが最後になるでしょう。



源信は卜部氏の父と清原氏の母との間に生まれた。
大和の葛城郡の生まれだとされる。

母は信仰心の篤かった人だといい、女子はもうけていたが男子には恵まれなかった。
そこで高尾寺に詣でて子授け祈願をしたところ、夢で梵僧からひとつの白玉をもらい、
その後授かった子が源信だという。

源信は幼少の頃から道心が篤く年に3回の精進潔斎をしていたという。
その潔斎のある時、夢を見た。

夢の中の経蔵には大小2つの鏡が置いてあり、僧が小さいくもった方の鏡を源信に渡すと

「えっ、こっち!?
あの~、あっちの大きくて光った鏡のが
いいんですケド・・・」


「あれはお前のじゃないよ。
お前のはこの小さい方だ。
これを持って横川できれいに磨いておいで。
しっかりやれよ!」

と言われたところで目が覚めた。
横川がどこにあるのかも知らなかった源信だったが、
ふとしたきっかけで叡山に上がることになり、横川の良源さんに付いた。

これが入山前の有名な話ですが、モノによって多少のディテールの差はあるものの、
おおむねこんな感じの伝承になってます。

源信が叡山に入った時期というのははっきりしていない。
『類聚伝記大日本史』では7歳で父に死に別れ、9歳で入山、13歳で得度とある。
出典はわからないけど、ウィキペディアも同じ流れを採用してるみたいだな。
『日本の名著4 源信』では15歳以前の出家ということにとどめておくしかないだろう、
としている。

源信は禅師の君より1歳上で、15歳以前の出家といっても数えだろうから
天徳2年(958)に受戒した禅師の君より少し早い出家で、
禅師の君の兄弟子ということになる。

『今昔物語集』によると、源信は良源さんに弟子入りしてから
天台の顕密を学び驚くほどの理解力を示し、さらに他宗の顕教、真言の密教をも学び
ことごとくその教えを究めたという。


源信の有名なエピソードには母に関するものがいくつかある。
時期がはっきりしていないようなので、まず母についてまとめて書いちゃおうかな。

源信が宮中での法会に呼ばれてごほうびの品を戴いた時のこと。
初めていただいたごほうびなので、いくつか取り分けて母に送ってやった。
すると、母から返事が来た。

「送っていただいたものは喜んで頂戴しました。
あなたが立派な学僧になったことは嬉しいし、
生活に必要なものを送って下さったことには感謝しています。

でも、私はあなたを有名な僧にしたかった訳ではないのです。
たった一人の男の子を叡山に上がらせた以上は、多武峯の聖人のように
立派な聖人となって私の後生を助けてほしいと思ったからです。
もう私もトシだし、せめて生きているうちにあなたが立派な聖人と
なるのを見届けてから死にたいものです・・・」


「多武峯の聖人」というのは、良源さんの元を離れて禅師の君の兄の高光が入った
多武峯に移ってしまった 増賀 のことを指します。
増賀は奇矯な振る舞いのエピソードが多いけど、
一般的に実力も才能もあるのに世間での栄達を嫌って隠棲したという評価を受けており、
増賀のように静かに叡山で修行に励んでいてほしい、と母は言ったようです。

母の手紙を見た源信は涙ながらに返事を書いた。

「ごめんなさい。
でも私は決して出世をしようなどとは思っていません。
ただ、高貴な方々の法会にも出席したことをお知らせしたくて。
母上のおおせは誠にありがたく、嬉しく思います。
これからは山に籠もって聖人となり、母上が会ってもよいと
言って下さるまで決して叡山からは出ません。
それにしても、我が母ながらなんと立派な導き手でしょう」


これがきっかけで世間での出世を嫌った、という風に紹介されることが
多いような気がしますが、時期不明なるも実際には内供にもなってるし、
ウィキペディアでは15歳の時のエピソードだとしてるけど、
『今昔物語集』の註釈だと50歳を過ぎてからのことじゃないかとしており、
実のところはよくわからない。

個人的には、結構あとの話じゃないかと思うんだけどね・・・
というのも、上の話にはまだ続きがあるのだ。

母の叱咤から6年の間山にこもり、7年目にして

「しばらくお目にかかっていませんが、
私を恋しく思っておられるのではないですか。
であれば、ほんの少しだけお伺いいたしましょう」


と母に手紙を送ったところ、母の返事は自分から言い出さない限り
叡山から出るなというものだった。

「フツー、こう言えるもんじゃないよな・・・」

と感心しながらまた修行に励むうち、9年が経った。
母は自分から言うまでは来るなと言っていたけど、どういう訳か
無性に母が気がかりで会いたいと思うようになった。

これは母の死が近いのか、それとも自分の死が近いからなのか・・・
えい、いいやもう行っちゃえ
と決めて母に会いに行く途中、大和に入ったところで手紙を持った男に会った。
源信が男に行き先を聞くと、なんと母が自分によこした手紙を持って
横川へ行くところだった。
男から手紙を受け取って馬上で母の手紙を見てみると、ずいぶんと乱れた筆跡で

「ちょっと風邪をひいただけかと思ってましたが、
ここ2~3日は気力もなく弱々しくなってしまいました。
これが最後かと思うと限りなく恋しく思われたので、
お便りいたします。
どうか早くおいでになって下さい」


とあった。
さては虫の知らせであったかと急いで家に向かって、日暮れには着いた。
急いで母のもとに行くと、かなり危険な状態だった。

今朝使いを出したばかりなのにもう源信がやって来たのを見て驚く母に
これまでの出来事を話すと、最後に会えたことを母は喜んでくれた。
念仏を唱えているかと母に聞くと、気持ちはあるけど気力がないし、
周囲に勧めてくれる人もいないという。
そこで源信が説法なぞして念仏を勧めたところ、母は心からの道心を起こして
念仏を1~200回ほど唱えていたが、夜明け頃になって静かに息絶えた。

「私が来なかったら、母上の最期はこうはいかなかっただろう。
親子の深い縁のある私が来て念仏を勧めたのだから、
母上の往生は疑いない。
これも、私を仏道へ入れた尊い志によるものだろう。
親は子にとって、子は親にとっての優れた仏道への
導き手であったことよ」


と言って泣きながら横川へ帰っていった。
これを聞いた横川の僧たちも、なんと心打たれる親子の契りかと
泣く泣く尊んだ・・・

事実かどうかは別として、道心深い母の存在が
源信に少なからぬ影響を与えたとは言えると思います。


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最終更新日  2015年05月13日 22時26分38秒


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