戦国ジジイ・りりのブログ

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2015年05月23日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)
源信が叡山に残ったことは、日本浄土教の発展において
大きなプラスになったんじゃないかと思う。


日本の仏教史で「入唐八家」(にっとうはっけ)と言われる方たちがいる。
その名の通り唐に渡った僧侶たちのことで、最澄や空海、円仁・円珍もこの8人の中に入る。
もちろん、大陸へ渡った人は他にもいるけど、唐の時代に渡航した人という意味ね。
最澄と一緒に海を渡った 義真 がこの8人の中に入ってないのが
お気の毒だと個人的には思うけど、通訳の立場で入唐したからなんだろうな。

義真は入唐前に得度して国費で唐へ渡り、海の向こうで具足戒と菩薩戒を受けているのに、

まあ、ブリタニカ国際大百科事典による入唐八家の定義は
「密教の移入に貢献した」人ではあるけど、義真だって最澄に付いて
密教のことは学んでいるので多少の不公平感を感じずにはいられない部分もある。

・・・が、それは置いといて。
唐の終盤、あちらでは排仏運動が起こり黄巣の乱も起こって混乱してきたので、
菅原道真の建議によって遣唐使の派遣が停止される。
これは完全な停止ではなかったようだけど、延喜7年(907)に唐が滅んだことによって
遣「唐」使も終わりを告げ、大陸では五代十国の時代に入る。

その頃には唐の時代のような大規模な派遣は行われなかったようだけど、
朝廷は呉越国との交渉は続けていたそうな。

呉越には天台山がある。

天台山だけがかろうじて法燈を保っていたが、天台山の僧から散逸した経典を
補充したいという奏上を受けた呉越国王は高麗や日本へ協力を要請した。

それに応えて叡山では保有する天台経典を書写して呉越へ送る使者を立てた。
この任にあたったのが日延という天台僧で、藤原師輔の親書をたずさえて海を渡った。
日本から経典類が逆輸入されていたとは驚きですが、

千余巻ともいわれる多数の書を持ち帰ってきた。
その中には日本初輸入の書も多くあり、仏書以外のものは朝廷に献上され、
仏書は叡山に納められた。

叡山に納められた中には『往生西方浄土瑞応伝』という書があり、
日延がこれを持ち帰ってきた段階では

 【源信この時十六歳、良源の下にあって修行中の若輩が容易に近づけるものではなかった
  であろう。一方保胤は二十五歳前後、文章生で内御書所勤務、外典の一部を書写した
  かもしれない。しかし叡山山上の仏典に関与できる立場でもないし、興味もなかった
  であろう。】
  (『人物叢書 良源』より)

というが、そこから20年ほど経って源信と保胤の2人が浄土信仰に目覚めると
この書は2人に強い影響を与えたらしい。
とくに保胤は『瑞応伝』やほかに唐僧の書いた『浄土伝』という書を読んでから
自分でも国史や伝記などを調べ、古老へのインタビューも開始するなど、
『日本往生極楽記』の執筆の契機になったのだという。

ただ、源信はその頃には叡山を代表する碩学となっていたから
『瑞応伝』を読むこともできただろうけど、保胤が叡山で出家するのは
良源さんの死の翌年(寛和2年:986)。
『日本往生極楽記』の大半は寛和の前の永観期に出来上がっていただろうと
川崎庸之氏は推測するので、そうであれば保胤は出家する前に
『瑞応伝』を読んだことになる。

まあ良源さんなら「部外者への閲覧は許さん」なんてケチケチしたことは
言わなかっただろうけど、だからと言って部外者が簡単に見ることができたとも思えない。
であれば、すでに保胤と面識のあった源信か、
もしくは勧学会を通じて知り合った僧の配慮によって閲覧が可能になったのかもしれない。

日本浄土教の大ざっぱな歴史を畑に例えると、
あまり手入れされず細々と野菜を作ってきた畑を円仁さんが広く開墾し、
空也がきれいに畝を整備して保胤と源信が種をまいたってとこだろうか。

中国での排仏の嵐が日本浄土教の発展に多大な貢献をしただなんて、
歴史って面白すぎます。



さて、各先人たちの努力とは別の次元で日本浄土教の発展を後押ししたものがあります。
それが「末法」。

末法と一口に言っても色んな側面があって、現代においてさえ
末法の受け止め方、解釈の仕方には色々あるようですが、
『仏教の歴史8 末法の世の救い』(ひろさちや/春秋社)の解説がわかりやすくて
面白かったので、ここではひろ氏の解説に基づいて仏教の時代区分の紹介をします。

まず最初のステップ。

・正法(しょうぼう)時代
 お釈迦様の死後500年までを指す。この期間は正しい「教え」が残っており、
 きちんと「修行」する人がおり、「悟り(証)」を開く人がいる。

・像法(ぞうほう)時代
 お釈迦様の死後501年~1000年までを指す。像法の「像」というのはニセモノという
 意味で、ニセモノ時代だから正しい「教え」と「修行」する人はいるが、もう「悟り」を
 開ける人はいない。

・末法(まっぽう)時代
 お釈迦様の死後1001年~10000年までを指す。この期間には「教え」だけが残り、
 「修行」する人と「悟り」を開く人はいない。
 末法時代が終わるともう「教え」もなくなり、暗黒期に入る。

「教え」が「教」、「修行」が「行」、「悟り」が「証」で、
初めは「教・行・証」と三拍子そろっていたものが
時代が下るにつれ1つずつ失われていくという歴史観です。
これが基本形で、図にするとこんな感じ。 



問題は何年をスタートとするかですが、
ひろ氏によると現在ではお釈迦様の没年は紀元前486年というのが
一般的な説だそうで、それを当てはめるとこうなる↓。

末法基本形(現在)-2

ところが、昔の人はお釈迦様の没年を紀元前949年と考えていた。
ので、昔の中国人や日本人の認識からするとこうなる↓。

末法基本形(当時)-2


これだと紀元後すぐに末法が始まるという計算になるけど、
伝承による中国への仏教伝来の年は紀元後の67年。
となると、

「オイオイ、もう末法の時代に入っちゃってるんじゃねーか。
なら、もう修行も悟りもできないんだし、
意味ねーよな」


ってことになっちゃう。
そこで、身勝手な中国人は勝手に時代区分を変更した。

末法基本形(中国まで)-3


この力技によって、中国仏教のスタートは末法を逃れ得た。
が、この変更が今度は日本仏教に影響を及ぼす。
仏教公伝には538年説もあるものの、ひろ氏は552年説を採用しているようです。

で、上の図でわかるように、奇しくも中国での変更により
日本仏教は末法初年から始まったことになってしまうんですね~。
てことで、身勝手な日本人は中国と同じように時代区分を変更しようとするが、
正法の期間はすでに中国人がいじっちゃったので、像法の期間に手を入れることにした。

末法基本形(日本まで)

てことで、最初は仏滅後1001年から末法が始まるという考えだったのが、
東へ渡るにつれ500年ずつ延びて最後は2001年後から始まるということになったそうな。

ただ、面白いことは面白いけど、中国での変更後の末法の始まりと
日本への公伝の年が合いすぎて逆に気持ち悪さも感じる。
これについては、むしろある目的があってあえて中国版末法初年に公伝の年をセットした、
と考える研究者などもいるし、霊異記の著者の景戒なんかは延暦6年(787)に
末法が始まっていると考えていたようなので、どれが正しいとか
一概には言えない部分もあるようですが、『仏教の歴史』シリーズはシロートにも
わかりやすく書かれている本なので、一般的な流れとして押さえておけばいいでしょう。

それで、一般的に末法思想が大きな影響をもたらしたのは1052年以降、
実際に末法に入ったのだと人々が実感した出来事が続いたからだとされる。
空也も源信も慶滋保胤も末法の時代に入る前にこの世を去っている。

だからあまりこの3人の先駆者たちや勧学会などの浄土信仰ブームは
末法思想と関連づけて考えられることはないようだけど、
わたくしは末法が身近に迫ってきた時代に生きた先駆者たちにも
危機意識はあったんじゃないかという気がする。

では、源信は『往生要集』で何を書いたのか。
次回からかいつまんでその中身を紹介しようと思いますが、まず序文で源信は

考えてみると、極楽に生まれるための教えと修行というのは、この濁りはてた末の世の
 人々を導く眼であり、足である。そこには出家・在家の別や身分の差は関係ない。
 ただ、顕教にしても密教にしてもその教えというのは必ずしも同じではないし、
 極楽に生まれるための修行法も色々ある。頭がいい上に努力を厭わない人であれば
 そうした修行も苦にはならないだろうけど、私のような愚かな者がどうしてそんな修行を
 進んで行うだろうか。
 こういう訳で、念仏という限られた分野についてわずかながらも「経」や「論」から
 要となる文章を集めてみた。これによって修行すれば理解もしやすく、また行いやすくも
 あるだろう。(中略)これを座右に置いて、記憶のために備えるとしよう。
 (参考訳文:『東洋文庫8』石田瑞麿/平凡社) 


としている。

『往生要集』は一言で言うと画像のないムック。
あるいは実用書、実践書。またはハウツー本。
保胤が『日本往生極楽記』で往生の実例を集めたのに対し、
源信は往生の実践に供する書を書いた。
同じ「往生」がテーマでも、2人の著作の中身は全然違う。

通常、画像を豊富に掲載してるのがムックだと思うけど、
単なる実用書よりムックの方がぴったりくると思ったのは、源信自身が言っているように
中身のほとんどは経や論書から往生や六道に関することを集めたものだから。
「往生特集本」と言ってもいいかもしれませんね。
わたくしが源信担当の編集者だったら、本の帯には

 あなたの知らないあの世とこの世

とでもするでしょう。

保胤も『日本往生極楽記』の執筆で多くの本を読んだと言ってるけど、
源信も相当な数のお経や註釈書などを読んだろうと思います。
PCのような便利なツールもない中、しかも5ヵ月足らずで
これだけのものをまとめ上げるのは相当大変だっただろうと思うのですが、
それも源信の智恵と熱心さによるものでしょう。


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最終更新日  2015年05月23日 22時33分02秒


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